「こんな感じ。どう?」
 真央は帰宅した聡寿に、自分の描いたラフの中でも一番自信のあるものを広げ て見せた。
「どうって聞かれても……。僕には良いも悪いも答えようが……」
 戸惑う聡寿に真央は微笑みを向ける。
「難しく考えなくていいからさ。聡寿だったら、このホールで舞台をやりたいと 思う?」
 そう聞き直されて、聡寿はデザイン画に目を戻す。
 劇場といえば四角い建物か、いっそ日本建築のどっしりした瓦屋根を備えたも のしか思い浮かばない聡寿は、真央の描いた建物を見て戸惑ってしまう。
 丸いフォルムは聡寿から見れば、どこの野球場かと聞きたくなるようなドーム 型で、色といい、形といい、まさしくドーム球場で、これにコメントをしろとい われても困る。
「正直に言っていいよ」
 そんな聡寿の困った様子に気がついたのか、真央が苦笑しながら、助け舟を出 す。
「自分の意見でいいのか?」
「ああ。聞かせてくれよ」
 聡寿はスケッチを手に取り、もう一度じっくり眺めてみた。
「正直なところ、この建物で舞いたいとは思わない」
「うーん……」
 聡寿の言葉に、覚悟していたとはいえ、真央は唸る。
「現代的でいいかもしれないが、僕たちは伝統を重んじるから。もちろん現代的 な要素を取り入れた創作もするけれど、根本は芸術だから、どうもそぐわない気 がする」
 聡寿の率直な意見に、真央は真剣な瞳を自分の絵に注ぐ。
「見に来る人だってそうだろう? それなりの気持ちできてみたら、宇宙船みた いな建物に入るのは、ちょっとと思うんじゃないかな」
「……そう…だよな。確かに」
「ありきたりの建物じゃ、コンペで残るのは難しいかもしれないけれど、奇抜な のはどうかと思うよ」
 聡寿の歯に衣を着せぬ感想に、真央はうんと頷く。
「描き直すのか?」
「イメージは変えたくないんだ。どうしてもこのフォルムは取り入れたいんだよ。
だけど、聡寿の意見も尤もだから、もっと考え直す。ありがとう、聡寿」
 スケッチブックを閉じ、ファイルにしまいこんで、真央は立ち上がって聡寿を 抱きしめた。
「お礼は何がいい?」
「お礼って……、貰うようなことは何もしてない」
 ぺちっと肩に回した手をはたかれて、真央は悲しそうな目を聡寿にむける。
「早く寝たら? 明日も早いんだろう?」
「どうして俺の恋人は、冷たいんだろうなぁ」
「バカだからじゃないか?」
「えっ、酷い」
 一人で嘆いているうちに、聡寿はさっさと自分の部屋に入り、着替えを始める。
「聡寿……」
 追いかけて入り、背中から抱きしめると、聡寿は仕方ないなというように軽い 溜め息をつき、真央の腕に手を重ねる。
 真央は静かに微笑んで、甘い匂いのうなじに唇を寄せた。


 金曜日の夜、真央は吉田に教えられたクラブへと一人足を運んだ。
 吉田は先に来ていて、女の子を二人、席につかせていた。真央がソファに座る と、そのうちの一人がしなだれかかってきて、そのきつい香水の香りに、思わず 真央は顔をしかめてしまう。
「久しぶりだよな。まあ、飲んでくれよ」
 水割りを手渡され、再開に乾杯といわれると、嫌だとも言えず、グラスを傾け るしかなかった。
「相談ならこんな場所より、もっと静かな店の方が良かったんじゃないのか?」
「大丈夫だって。ここの店は信用できるから。お前だって、大学の時から派手に 遊んでたじゃないか」
 吉田は店の女の子に真央がいかに派手に遊んでいたかを吹聴している。彼女た ちはけらけらとよく笑い、真央が資産家の息子だと知ると、サービスが過剰にな ってくる。
 真央は心の中で罵りつつ、きつい香りと耳障りな笑い声に必死で耐えていた。
「で、相談ってなんだよ」
 早く帰りたい。聡寿の優しい香の薫り、静かな柔らかい声。それらとはあまり にも違うこの店の雰囲気に、頭痛さえ感じて、真央は吉田に早く話を済ませろと ばかりに聞き出した。
「竹原、お前さ、都立芸術文化劇場設計コンペのこと、知ってる?」
「ああ、しってるけど」
「ってことは、もしかしてお前も参加するつもりとか?」
 誤魔化すわけにもいかず、真央が頷くと、吉田はまじかよぉと派手にのけぞっ た。
「吉田も出るつもりなのか?」
「竹原建設みたいな大手が、どうしてこんな儲かりもしないコンペに出るんだよ ぉ。今更コンペ入賞のネームバリューだって必要ないだろうがぁ」
 勝手な言い分で、吉田は真央の質問には答えない。
「もしもお前が出ないんならさ、っていうか、出ないもんだと思ってたからさ、 俺、お前にノーハウを聞こうと思ってたんだよ。提出物が多すぎて、手に負えね ーって音をあげかけてたんだよ」
「わからないところがあるなら、アドバイスくらいはしてもいいけれど」
「ホントかっ?」
 真央の性格を知ってか知らずか、吉田は真央の申し出に急に機嫌を良くする。
「ただし、デザインについては、全部自分でしろよ」
「お、おお、そりゃ、当たり前だよな。なんせ、お前と俺はライバルだ」
 吉田はご機嫌で相違って、真央のグラスにウイスキーを気前よく注ぐ。
「俺はそんなに飲まないから」
 真央が何度も断るが、吉田は気にする様子もなく、旧交を暖めるのだといって、 真央に飲むように執拗に勧める。
 完全に断ることもできずに、自分でも思わず酔いが深くなっていく。
「なあ、お前、今もあの国文科の綺麗な男と付き合いがあるのか?」
「誰のこと?」
 わかってはいたが、真央は知らぬふりをした。
 知られてはいけないというよりは、知られたくない、誰にも触れさせたくない という防衛本能だった。
「ほら、いつもお前が追っかけてたじゃねーか。確か、京都のどこか由緒ある家 の息子だとかいう。名前は難しすぎて忘れちまったけど」
「さー、卒業してから、全然知らないけど」
「なんだ、そうか。ま、違う世界の人間だからな」
「俺、そろそろ帰るわ。明日もちょっと仕事があるんだ」
 多少足がふらつくが、タクシーに乗れないほどでもない。真央は店の外まで送 り出してくれた吉田に礼を言って、タクシーに乗り込んだ。

 相談に乗ってくれ、アドバイスをくれといっていた吉田だったが、それからは ぱたりと連絡がなくなった。
 真央自身も忙しく、吉田のことはあまり気にしなくなっていたのだった。







 完成しつつある設計図を真央は真剣な表情で見つめていた。
 聡寿からは『どこの球場』という手厳しいコメントを貰っていたが、それには 若干の手を加え、丸みの形を変形させつつ、譲れない部分を残しながら、流線型 のフォルムを持った劇場が出来上がりつつあった。
「…………いいですね」
 ちょうど通りがかった倉持を捕まえ、図面を見せてコメントを求めた。
 今回のコンペに関しては苦言しか言わない倉持が、渋々ながらも良いと認めて くれたので、真央は満足げに笑った。
 倉持の『良い』は間違いなく『素晴らしい』に匹敵する。
「よし。このまま押し進めるぞー」
 真央は拳を握る。
「その勢いで例の仕事も請けていただきたかったですね」
「あれは……。倉持さんだって乗り気じゃなかっただろう」
 例の仕事で通じるほど、二人の間で話題になっていた仕事は、とある企業の記 念ホールだった。記念ホールと銘打ってはいるが、営利優先の貸しホールに過ぎ ず、その企業の経営方針が嫌いな真央は、早々にその仕事を蹴ってしまっていた。
 相手はあくまでも竹原建設の名前が欲しいのだと判断した二人は、その設計を 別の建築士に依頼した。
 だが、以外にも相手の欲したのは竹原建設のネームバリューではなく、真央個 人の才能だったらしく、最初の打ち合わせで相手企業は、席を立ってしまった。
 竹原建設の社長、真央の父親はあわてて、真央に設計をさせるからと相手企業 との折衝を試みたが、既に時遅く、相手は別の設計士に依頼してしまっていた。
 真央はしばらく父親に嫌味を言われる羽目になったが、その仕事を請けるより はまだましとさえ思っていたが、父親はどうやら倉持にも嫌味の矛先を向けてい たらしい。
「まあ、あの仕事を請けていたら、今、真央さんにその笑顔はなかったでしょう けれどね」
 真央と共にこのデザイン室を作り上げてきた倉持は、やはり真央に甘く、結局 はその笑顔に負けてしまう。
「きっと俺よりも華々しい経歴のデザイナーに頼んだんだよ。俺は最近、目新し い賞は貰ってないしね」
 軽く言い流す真央に、倉持は口元に笑みを浮かべる。
 一時期、真央はあらゆる賞に応募し、そのいくつかを手中に収めていた。それ こそ、経歴に載せれば華々しいことこの上もない。
 けれど倉持は真央が何のために、自分の名前を世に出そうとしていたのか、そ の訳を知っている。いや、最近になって、ようやくその訳を知った。
 真央はある人に、自分の姿を見せようとしていたのだ。
 冠のついた賞をとれば、世間に名前が通る。新聞などにも名前が載る。そうす ることで、自分の存在を知らせようとしていた。
 ……真央がある人の記事ばかりを探していたように、その人にも自分の名前が 目に付きますようにと。
 そして真央は、最近になって、賞への応募を止めた。
 父親にしてみれば、もう少し名前を売って欲しいようだが、真央にはもうその 必要はなくなっていたのだ。輝くような笑顔。その笑顔を手に入れてから。
 倉持はその笑顔を見てからは、もう何も言うまいと決めていた。
「けれど、真央さんがまた賞をとれば、喜ばれるのではないですか?」
 何も言うまいとは思うのだが、ついからかってしまう。その時の真央の反応が 面白いので。
「そ、そうかな? まずはー、やっぱこのコンペだよな」
 にかっと笑った時に見える白い歯。倉持は適わないなと、からかうのを止めに した。

 コンペの締切日が近づき、真央の作品もほぼ完成に近い時、あるニュースが流 れた。
 それは興味のない人間にとっては、目にも止まらない程度のものだっただろう。
実際、そのニュースを見た人間のうち、何パーセントがそのニュースに注目した かは、僅かなものだったと思われる。
 真央はあいにく、そのニュースを見逃していた。
 それを知ったのは、倉持が珍しく、顔色を変えてデザイン室に入ってきたから である。
「これをご覧下さい」
 倉持は粒子の粗い、見づらい写真を真央に差し出した。
 いつにない倉持の緊張した面持ちに、真央は黙ってその写真を見た。
 フレームにぎりぎり映っているのは、テレビの枠だろうか。テレビ画面をその まま写真に撮ったのか、映りはとても悪かったが、真央は苦労してその写真の中 を見つめていたが、やがて眉間に深い皺を刻んでいく。
「これは……」
 声が震えていたかもしれないと、真央は思った。実際に写真を持った手は震え ていた。
「今日の昼過ぎのニュースです。例の記念ホールの……デザイン画らしいですよ」
 倉持の声も幾分か震えているように聞こえた。
「そ……んな、バカな……」
 流線型の綺麗なフォルム。真央が考えていた芸術文化劇場がそのままそこに描 かれている。
「真央さん、いったい、どなたにあのデザインを見せられたんですか」
「だ、……誰にも見せてなんか……」
 まさかと一人を思い浮かべて、真央はすぐにそれを否定する。
 そんなことがあるはずがない。ありえない。
「誰かに見せているはずです。思い出してください」
「これは……、倉持さんと、……彼にしか」
「まさか……」
「そんなこと、あるはずがない!」
 真央は即座に、強く否定する。
「言い切れますか?」
「あいつを疑うのは、……倉持さんでも許さない」
「では、私を疑われますか?」
 切り替えされて、真央はそれもまた強く否定する。
「だったら、何故……」
 真央のデザインを盗んだのは誰か。これほどまでに同じデザインのものがある なんて、偶然とは思えない。
「俺が……、盗用したように思われるだろうな……」
 真央は震える手で、自分のデザイン画を持ち上げた。
 一度マスメディアを通して発表されてしまった作品。まだ提出もしていない自 分の作品は、どれだけ主張しても、後発のものが盗作だと思われてしまう。
「真央さん……」
 真央は唇を噛んで、自分のデザインを破いた。
「真央さん!」
 俺の……、俺と聡寿のための、二人の舞台だったのに……。
 この形でなければ、意味がなかったのに……。
 何度も破り、それを両手で握りつぶした。
「倉持さん、そのデザイン、誰が描いたか、……わかる?」
 握りつぶした大切な紙。机の上でその拳を震わせて、真央は尋ねた。
「あまり有名なところではありませんよ。吉田設計事務所という設計だけをやっ ているところです」
 倉持の答えに、真央は閉じた目蓋の裏が、怒りで真っ赤に染まったような気が した。







 あの時だ……。と真央は思った。
 吉田に会ったのは、飲みに行ったあの日だけ。あの夜、真央は鞄の中に、下書 きを入れていた。
 確か……。と懸命に思い出す。
 鞄をお預かりしますといわれ、大切なものが入っているからと断った。
 そして、途中で一度、トイレに立った。
 それだけではデザインは盗めないはずだ。多少のイメージは盗み見れても、こ こまで同じようには描きあげられないと思う。
 そうだ……。帰り間際、店の女の子が真央のスラックスに水をこぼした。水だ からかまわないと言うのに、店の奥に連れて行かれ、そこでドライヤーで乾かし てもらった。
 トイレに立った隙に書類を抜き取られ、コピーが済んだので、水をこぼし、乾 かしいている間に戻した。
 自分の迂闊さに腹が立ってならない。
 しかもこれらはすべて憶測で、何の証拠もない。
 真央はしかし、怒りなのか興奮なのか、判別のつかない震えを覚えながら、携 帯電話を取り出した。押す番号は、あの時に教えられたもの。
 けれど呼び出し音はならなかった。女性の合成音声でその番号は使われていな いというだけ。
 真央は名刺入れから名詞を取り出し、そこに書かれた番号を押す。
『吉田設計事務所です』
「吉田昌治さんはおられますか」
 真央の口から出た名前に、倉持ははっと緊張する。
『吉田はただいま出かけております。失礼ですが、お名前いただけますか?』
「竹原です。戻られ次第電話を下さるように」
『承知いたしました』
 かかってこないだろうなと思う。今だって居留守を使っているかもしれない。
 真央はそれでもと、もう一件、電話をかける。こちらはあっけなく通じた。
『はーい、川野です』
 暢気な応答は、まったく何も知らないのだと思わせるに十分だった。
「俺、竹原だけど」
『おお、竹原。久しぶりだな。どうした?』
「吉田に俺の番号教えたの、お前だろう?」
『吉田? 誰だ、それ』
 不思議そうに尋ね返され、真央は苛立ちを抑えて、大学で同期だった吉田だと 説明する。
『ああ、あいつか。あいつとは卒業以来、付き合いはないぞ。それにお前に確か めもせず、番号なんか教えるかよ。……何かされたのか?』
「いや……すまない。なんでもないんだ」
 真央は自分の迂闊さを呪いながら、電話を切った。これ以上、今のところ打つ 手はない。
「室長……。どうされますか?」
 倉持が心配そうに話しかけてくる。
「どうしようもないよ。デザインは新しく考え直さなくちゃ」
 唇を噛み締める真央に、倉持もさすがにもう諦めたらとは言えなかった。
「吉田設計事務所の件は、私に任せていただけますか?」
 真央はそんなことを言う倉持を不思議そうに見上げた。
「任せるって……、何も出来ないよ。何も証拠はない。俺が迂闊だったんだ」
「調べるくらいはさせて下さい」
「いいよ。元々竹原の仕事だったんじゃないんだし。俺が個人でコンペに参加し ようとしていたことで、倉持さんに余計な負担は増やしたくない」
「それでも、真央さんにとってはあのフォルムが意味のあるものだったんでしょ う?」
 真央は今度こそ本当に驚いて倉持を見つめた。
「どうして……」
 どうしてわかるのか。あのデザインについて、詳しくは語っていないのに。
「わかりますよ。真央さんのデザインはいつも、拘りがあると思っていました。
その集大成があのデザインだと、私は一目でわかりました」
「倉持さん、反対ばかりしていたのに……」
 真央は嬉しい気持ちをそんな強がりに隠した。
「反対していたのは、真央さんが寝る間も惜しむだろうとわかっていたからです。
あなたのデザインがこんな風に踏み躙られるのは、許せません」
 真央は涙が出そうになるのを堪えて、無理にも笑みを作った。
「ありがとう。倉持さんのその気持ちだけで十分だから。俺、本当に救われた気 持ちに、今、なれたよ。調べても何も出てこないと思う。それこそ時間の無駄だ と思うから、倉持さんは自分の仕事をして」
 真央の笑顔に、倉持は複雑な心境になりながらも、わかりましたと引き下がっ た。

 今夜は遅くなるからと、いくらなんでももう帰っているだろうという時間に電 話をかけるが、呼び出し音は数度鳴って、留守番電話に切り替わる。
 メッセージを吹き込んでもいいが、こんな日は声を聞きたいと思って、時間を 置いては何度もかけてみるが、聡寿が帰った様子はない。
 仕方なく門田の携帯を呼んでみる。どうしても連絡のつかないときは、彼に聞 くと聡寿のスケジュールはすべてわかる。
 だが、門田の携帯も呼び出し音が鳴るばかりで、留守番電話に切り替わる。
 さすがに心配になって、真央は書類を束ねて帰宅の途についた。
 マンションに帰りつくと、まだ聡寿は帰っていない。腕時計を見ると、既に日 付が変わろうとしている。いくらなんでもこんなに遅いはずがないと、真央は焦 り始める。
 もしも聡寿が怪我をしたとかなら、真央に連絡が入らないことはない。たとえ 彼の周りの者が連絡を忘れていても、血液センターから輸血の要請が真央のもと に入る。けれど、それは怪我をした場合のことで、急病などは血液センターは関 係ない。
 門田に連絡はつかず、いよいよこれは瀞月流の東京支部に電話を入れようかと 考えた時、家の電話が鳴り響いた。
 真央ははっとして、その電話を取る。
「もしもしっ」
 心配が高じて、勢い込んで呼びかける。その声が大きかったせいか、電話の向 こうは何も言わない。
「もしもし? 竹原ですけど」
『…………真央』
 囁くような聡寿の声に、真央はとりあえずほっとする。
「聡寿、どうかしたか?」
『……今夜は……帰れない。……今夜だけじゃなくて、……しばらく、帰らない ほうがいいと思う』
 聡寿の言葉は、真央の頭の中ですぐには意味を成さなかった。
「どういうこと? 何か気に入らないことがあったか? 俺が、お前に何かした か?」
『違う。……そうじゃないんだ』
「だったら、どうして!」
 黙りこむ電話の向こうに、真央は必死で呼びかける。
「とりあえず帰って来てくれ。何か気に入らないことがあるんなら、話し合おう。
俺、ちゃんと聞くから」
 今夜はどうしても聡寿の顔を見たい。顔を見て、抱きしめたい。
 この荒んだ気持ちをどうにかして宥めたい。……なのに。
『もしもし、申し訳ありません、お電話を代わりました。門田です』
「……門田さん……」
 門田に電話を代わられ、真央は呆然とする。自分と話したくないというほど、 駄目なのかと。
『実は困った問題が持ち上がりまして。来週発売の週刊誌に、聡寿さんと真央さ んが同棲されているという記事が書かれることがわかりました。ただのゴシップ 記事ならこちらも無視するのですが、都立芸術文化劇場に絡めて、出演の代表者 とコンペ参加が見込まれる設計士の癒着があるように書かれているようなので す』
 真央は返事もできず、電話を持っていない手で拳を握る。
『こちらのツテでその動きを知ることが出来て、現在、事実無根のこととして記 事の掲載を止めるように働きかけております。ですので、大変申し上げ難いんで すが……』
「わかりました」
 それ以外に何が言えるというのだろう。
 門田にすべてを言わせず、真央は理解を示した。
 事実無根であると抗議をするなら、同棲しているということは、絶対知られて はいけない。だから、しばらくは別に住むしかない。
「聡寿のこと、よろしくお願いいたします」
 こみ上げる怒りや、嘆きや、すべてのものを飲み込んで、真央は声をふりしぼ った。
『……真央』
「聡寿、身体に気をつけてくれよ。なんとか、会える方法だけでも、考えるから」
 努めて明るく真央は言った。
「真央こそ、……無理するな」
 泣き出しそうな声。抱きしめて、何も心配いらないと言ってやりたい。だが、 何の手も打たず、慰めるだけの言葉は何の役にもたたない。
「また電話するから」
 電話を置いて、真央は握り締めた拳を壁にぶつけた。



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