忍ぶれど……

 

 

初出 ; Vol.92〜107

 

 




 竹原建設設計室室長の竹原真央は真剣な顔で、白い厚めのA4サイズの封筒か 冊子を取り出した。
 冊子の表紙もまた白い無地で、黒い流麗な文字で『(仮称)都立芸術文化劇場設 計コンペティション』と書かれている。
 3年後の落成を目指して、都内に日本文化と国際芸術の融合できる劇場型の施 設を作ることが決まり、都はその外見と内装のデザインをコンペティション形式 で決めようとしている。
 賞金は出るが、名前の売れたデザイナーに頼むことから考えれば、コストをず いぶん抑えることができる。財政難の渦中にある都としては苦肉の策であるが、 上手いやり方であるともいえる。
 参加資格は年齢、性別、国籍不問。但し一級建築士資格を有するもの。主催者 が指定する日時に、公開プレゼンテーションに参加できること。基本設計から実 施設計まで、現場(都庁および建築現場)に来られること……とある。
 応募規定、企画運営、参加登録と流れるように見て、提出物の多さに少し戸惑 うが、今までにも作ったことのあるものばかりなので特に問題はないと判断する。
 作品の提出、搬入の条件などは追々考えることとして、とりあえずは締め切り に向けて、まずはデザインだと真央は冊子を閉じた。
「まさか、参加されるつもりではないでしょうね」
 決意も新たに封筒へ冊子を戻したところに、倉持が真央に話しかけてきた。声 をかけるチャンスをうかがっていたという感じである。
「どうして『まさか』なのさ。参加するつもりだけど?」
 真央は不思議そうに倉持を見返す。倉持の咎める口調が理解できない様子であ る。
「今更そんな一文の得にもならないコンペティションに参加する意味がありませ んよ。万が一、選ばれでもしたら、雀の涙の賞金で、とんでもない時間の拘束を 受けるんですよ」
「万が一って……、俺は絶対受かるつもりでいるんだけど」
「冗談ではありませんよ。どれだけ仕事を抱えてらっしゃると思っているんです か。それらをこなしつつ、そんなものにまで手をつけたら、真央さんの身体が壊 れてしまいます」
 倉持の心配はありがたいが、真央にはこの件に関してだけは譲れない訳がある のだ。
「他のもちゃんとする。ただ、これから受ける分については、少しセーブして欲 しいんだけど。それと本当に受かったら、これに100%力を入れたいから、そ のつもりでスケジュールの調整を倉持さんにはお願いしたい」
「本気ですか?」
 まだ疑わしそうに倉持は自分の上司を見た。
「本気だよ。この件だけは手に入れてみせる」
 説得しても無駄だと思ったのか、倉持は軽く息を吐いて、他の仕事も手抜きは 許しませんからと言って離れていった。
 この劇場は公共事業になるので、建築そのものも業者の落札によって決められ るだろう。
 もし真央のデザインが選ばれたとしても、この建築を竹原建設で受けられるわ けではない。それが倉持にしてもネックになっているだろう。
 もちろんこれだけ大きな建築になれば、竹原建設も落札に参加するだろうが、 あの父が損ばかりのこの事業に本気で望むとは思えない。
 できれば建築、落成まで関わりたいのだが、それはデザインしただけでも入り 込める。
 だから、まず……。
 今度の休みに建設予定地の周囲を見に行こうと計画を立てる。
 その時にできれば聡寿も連れて行きたい。
 そうすればより完成イメージを形にしやすいかもしれない。
 真央は楽しい計画に胸を膨らませる。
 その思いつきが自分ばかりか、大切な人たちを醜い争いの渦へと巻き込むこと になるとは思いもしない真央だった……。







『(仮称)都立芸術文化劇場建設予定地』
 フェンスに囲まれた広い空地は、まだ整地されたばかりで、茶色い地面がむき 出しになっている。
 予定地は新しい埋立地に建てられることになっていて、周りもまた同じように フェンスで囲まれていたり、既に大きなビルが建てられるのか、基礎工事が始ま っているところもある。
「ここに……?」
 都が区画整理をし、立派な道路だけが埋立地の中を縦横に綺麗に走っている。
 予定地のちょうど真前に止められた車の運転席のウィンドウが下げられる。助 手席から聡寿はその広い土地を遠くまで見渡せるように目を見開いて眺めた。
 まるで荒地のような島の中、目に付くものといえば、クレーンやコンクリート を運ぶ重機ばかり。
「うん、……絶対、獲ってみせる」
 真央の明るい声には現実味が薄いが、表情はもう建築家の顔になっている。
「頑張れとしか言えないけれど……」
 聡寿は他の言葉を知らない自分が歯痒くなる。
 もっと真央の仕事が理解できればいいのに、何か力になれればいいのにと思い ながら、自分のことでいつも精一杯だ。
 それに対して真央は文句を言うこともなく……二人の時間が欲しいとわがまま は言うが……聡寿の身体を案じてくれる。忙しいはずの真央が、聡寿の予定にさ りげなくあわせてくれることや、身体を気遣ってくれることがわかって、聡寿は ありがたいやら申し訳ないやらの入り混じった気持ちになる。
「オープンセレモニーには、聡寿と舞台に立ちたいんだ」
 真央はくるりと助手席の聡寿へと振り返る。
 その嬉しそうな顔は、まるで悪戯したばかりのような、その悪戯が成功するか どうか期待に膨らんだ少年のような煌めきを持っている。
 聡寿はその眩しさに目を細めてしまう。
「いつも聡寿を観る側だけどさ、それもいいんだけど、一生に一度でいいから、 同じ舞台に立ってみたいんだ。それって、今回しかないような気がする」
 まさか本気で?と疑う聡寿は、真央の宝石のような曇りのない瞳が眩しい。
「…………それだけが……理由?」
 呆れたような怒ったような聡寿の声に、途端に真央は悪戯が見つかって今叱ら れるのを待ってますというような大型犬を思わせる恭順な態度で聡寿を見た。
 上目がちの目はそれでも一点の翳りも見られない。
 都立芸術文化劇場はその?落としの演目に、瀞月流の能を選んだ。その出演を打 診されたときは、本部が京都にある瀞月流は、東京を本拠地とする他の流派に遠 慮して一度は断ったが、数度にわたる交渉と、能の協会の方からも是非にと推薦 されて、聡寿が舞台に出ることで話し合いがついた。
 その件を真央に話したのはつい先日のことである。
 話の途中で都立芸術文化劇場がコンペティションでデザインが決められること は真央から教えてもらっていたが、まさかそれに真央が参加するとは思ってもみ なかった聡寿である。
 確か『参加するのか?』と聞いたときには、『そういうタイプのものはこれから 名前を売りたい若手が参加する』と聞いたような気がする。もちろん真央だって 若手には違いないが、竹原建設というバックボーンがあるので、他の仕事で今も 忙しい真央が参加するなどとはまったく予想もしなかった。
 それが今朝になって突然ドライブに行こうと誘った真央は、こうして何もない 島へと聡寿を連れてきて、『ここに都立芸術文化劇場が建つんだ、俺もコンペに参 加する』と宣言した。
「他の理由なんて必要ないよ」
 あっけらかんと言った真央は、にっこり笑う。
 ようやく肩まで届くようになった髪が、島を渡り窓から侵入してきた風に揺れ る。風は乾いた大地の匂いがした。
「他の仕事とか……どうするんだ? 今だけでもあんなに忙しいのに」
 そんなつまらない、……聡寿にとってはくだらない理由……で、真央の身体に 負担がかかるのが心配だった。できれば『止めろ』と言ってしまいたい。
 けれどその言葉が喉まで出ているのに言えないのは、真央の話した『夢』が聡 寿の胸に、自分でも予想もしなかったほどに、魅惑の甘い誘いに思えてしまった からだ。
「大丈夫。今受けてる分は片をつけられるし、これからの分はセーブする。こっ ちに全力を注ぐから。そうでないと、大きなことを言ったのに、賞も獲れなかっ た情けない男になっちゃうからな」
 意欲に燃える男の目が聡寿をまっすぐに見つめる。
「無理するな……」
 頑張ってと応援してあげないとと思うのに、口から出るのはいつもの素っ気無 い言葉で、聡寿はそんな自分が嫌になる。
「うん、無理はしないよ。ありがとう」
 真央は聡寿の短い言葉の中の色んな想いを自然と読み取って、優しい笑みを浮 かべる。
「俺、頑張るから。聡寿に最高の舞台をプレゼントするよ」
「だから、無理するなって……」
 建設予定を見たからか、ハイテンションな真央は運転席から聡寿を抱きしめ、 頬に派手な音をたててキスをする。
 いかに人通りは皆無とはいえ、いつ、何が通るかもわからない天下の公道での パフォーマンスに、聡寿は力いっぱい真央を突き飛ばし、「あほっ!」と怒鳴った。
 後頭部をドア枠にぶつけた真央は「いてっ」と頭を擦りながら「ごめん」とい つもの調子で謝ったが、本当に悪いことをしたとは思っていないのがありありと わかる態度だった。
「今夜は別居」
「えぇぇぇぇぇぇ」
 聡寿の腹立ちと戒めをこめた冗談に、真央は今度こそ本気で謝罪を繰り返す。
 本当に冗談だったのだ……。そんなつもりがないからこそ言える、真央を困ら せるだけの軽い冗談だったのだ。
 そんな状態になっていくとは、言った本人も、言われた方も、夢にも思わない 冗談だったのに……。







「けっこうたくさんあるよなぁ」
 コンペへの提出物を指折り数えながら、真央は溜め息をつく。
「作品パネルがA2で5枚。そのうち設計図が……配置図、各階平面図、立体図、 断面図の4枚。作品CG図が……各図面にあわせて4枚と外観CGとでこっちも 5枚か。50分の1の模型も提出。うはー、多いな。間に合うかな」
「それにはそれぞれ仕様書と説明文、公開プレゼンテーションでのアピール文書 とその講演草案などが加わりますね」
 唸る真央に向けて、秘書らしく倉持がアドバイスをする。しかしその口調は果 てしなく冷たい。普段は穏やかな倉持の、時に見せる氷のような冷たい視線や叱 責を恐れるものは少なくない。
 しかしここの室長は慣れてしまっているのか、部屋に居合わせてしまった社員 が思わず姿勢を正すほどの倉持の怒気にも、「倉持さんってばつめたーい」と拗ね たように書類で顔を隠すだけである。
「いい加減、諦めてはどうですか? 実も利もないコンペでしょう。もっと社運 をかけてもいいコンペやコンクールがありますよ。真央さんがお忙しいのでお勧 めはしなかったのですが、何でしたら」
「あぁぁ、いい。そっちはいいの。こっちが俺にとっては大切なの。えっと、請 けた仕事の方はちゃんとするから」
 事細かに続きそうな倉持の意見を遮って、真央はコンペの書類をそそくさと自 分の鞄へと仕舞い込む。
 実際に作業をするのは、残業……正確には残業ではないが……でするしかなさ そうである。
「決して無理はなさらないで下さい。真央さんの身体に負担が過ぎるようである とお見受けしましたら、即刻中止をさせていただきますから」
 結局は倉持の心配なのは、今でさえ忙しい真央が、余計な仕事を抱え込んで身 体を壊したりしないかという一点に尽きる。
「わかってる。倉持さんにそんな心配かけないように絶対するから」
 真央の素直な返事を聞いて、倉持は緩みかけた唇を慌てて引き締める。ここで 甘い顔を見せてはいけない。
 ともすれば傲慢に育ってもいいはずの真央の身分であるが、彼はそれをひけら かすことはなく、驚くほどに素直で優しく、思いやりに溢れている。
 竹原建設の社長は真央のことをわがままで手がつけられなかったというが、そ んな印象は欠片も見当たらない。
 真央の太陽のような明るさに救われることは多く、彼の人柄に惹かれて人が集 まってくる。良い人材が集まり、その人たちは離れることなく居座り続けてくれ る。もちろん倉持自身、その筆頭ではあるのだが。

 結局、仕事の方でも残業となり、同時進行しかないかと真央はスケッチブック に、いくつかのラフを描いていく。
 だいたいのイメージは頭の中にあるのだ。
 そのイメージは真央の中にずっと昔から存在し続ける聡寿のイメージである。
 凛としてまっすぐな背中。儚げでいて、芯のしっかりした姿。強く冷たい風に も背くことなく立ち向かう厳しさと全てを包み込むような優しさ。
 バランスが悪いようでいて、見るものを酔わせる精巧な美しさ。
 芸術文化会館は聡寿のイメージそのままにデザインしたい。
 外観は壮厳でいて繊細な美しさ。内部は優美であって洗練されたシャープさを 持っている。
 真央はイメージに近いフォルムを描き出すことができて、そっと唇に満足げな 笑みを浮かべた時、胸ポケットに入れていた携帯電話が振動で着信を知らせる。
 聡寿かもと喜んだ真央は、画面に見知らぬ番号を見て微かに眉を寄せる。
 ワンギリか、妙な勧誘ではないかと思ったが、なかなか切れない電話に、真央 は会話ボタンを押した。
「はい」
 念のためこちらは名乗らないでいたら、電話の向こうから馴れ馴れしい様子の 若い男の声が聞こえてきた。
『竹原? 竹原真央だよな?』
「……そうですが、どちら様でしょうか?」
 いきなり呼び捨てられたことに、真央はむっとする。
『俺、俺だよ。大学で同期だった吉田。吉田昌治。覚えてる?』
 その名前を聞いて、真央はあぁと、しかつめらしい顔をほころばせた。
「吉田か、元気だった? この電話、よくわかったな」
『川野に聞いたんだ、悪かったな突然電話して。だけど竹原建設には電話し難い もんな、俺も一応、吉田設計事務所に勤めてるからさー』
 電話の相手が親戚で跡取りのいない設計事務所を継いだことは、電話で今聞い た川野に教えてもらったんだと思い出す。
「そうだったな。どう? 景気は」
『どこも一緒だよ。ってお前んとこは大きなバックがあるから心配ないだろうけ どさ』
 そうでもないよと真央は調子をあわせて笑う。大学を卒業してから、ほとんど 会ったことのない相手が、わざわざ人を介して、直接連絡を取ってきた理由がわ からないので、どうしても気を抜けない受け答えになってしまう。
『実はさ、ちょっと聞きたいことがあってさ。竹原の都合がいいときに、ちょっ と飲みがてら相談に乗ってくれないかな』
「それはいいけど。俺で役に立てるのかな」
 真央は慎重に相手の相談が何であるかを探ろうとする。
『ああ、是非。いつがいい?』
 急かす調子で尋ねられ、真央は三日後の金曜日の夜に約束をしてしまう。
『助かるよ。いい店、紹介するからさ。よろしくな』
 相変わらず強引だよな。
 用件だけを済ませるとすぐに切られてしまった電話をしばし見つめ、真央は溜 め息をついて、書きかけのラフをカバンへとしまいこんだ。
 家に帰って、聡寿に見せようと思って……。



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