門田が慌てて少年の住民票を閲覧に行き、所属する学校を調べて、話を聞きにいってくれた。その門田と入れ換えのように、真央が事務所の方へとやってきた。
「どういうことだよ……」
 少年を引き取ってきた聡寿に、真央は困りはてて非難するように呟いた。
「あのまま病院には残しておけないから」
「こっちには関係ないんだよ。一度引き受けてしまったら、父親だと認めることになってしまうじゃないか」
 真央は内心ではかなり腹を立てているようだった。
 それは聡寿に対してではなく、勝手なことを言って姿を消した彼女に対するものだとはわかるのだが、聡寿は胸が痛くなる。
「そんな言い方をしなくても……」
「ちゃんとした鑑定を受ければ、父親じゃないとわかるから、その前に俺に押しつけたんだよ。今、弁護士に相談している。この子は……可哀想だけれど、然るべき施設に引き取ってもらうことになると思う」
「彼女のご両親とかは……」
 施設と聞かされて、聡寿は気が重くなる。
「両親は離婚して、母親と暮らしていたみたいだけれど、今、興信所で調査してもらってる。わかれば、引き取りの交渉はするつもりだけれど、……無理だろうな」
「何故……」
「父親は行方不明だと笑っていたのを覚えてる。母親は当時から男性にだらしがなくて、転々としていて、だから高校生くらいから一人暮らししていたらしい」
 少年は別の部屋で休んでいた。
 10歳だという彼は、その年頃の少年らしい活発さはなく、身体も標準より小さく、細かった。
「学校に行ったことがないと言ってたんだ」
 無口な少年がポツリと漏らした一言は、彼の育てられてきた環境の異常さを表わしていた。
「施設に行ったほうが幸せかもな」
「真央!」
 自分の子供かもしれないのに。聡寿の中で消えはしない不安が、あくまでも冷静な判断をしようとする真央に、いらぬ疑惑を向けてしまう。
「聡寿。俺の子供じゃない。信じてくれ。なんなら、今すぐ鑑定を受けてもいい」
 無実を訴える真央に、聡寿は心の中にわだかまる気持ちの正体に気づいてしまった。
 それがわかると、聡寿は少しだけ落ち着くことができた。
「あの子があんたの子供でもいいんだ」
「聡寿!」
「あんたの子供でもいい。だけど、それを否定させつづけ、あんたに冷たい台詞ばかりを言わせてしまう僕が嫌だ。僕がいなければ、あんたはたとえ血の繋がりのない子でも、こんなに冷たいことは言わなかったと思う。それを言わせている僕が……嫌なんだ」
 聡寿の告白に、真央は反論しかけて、口を噤んだ。
「鑑定を受けるには、あの子は未成年だから、親の同意が必要だろう? 親が見つからない場合は、よくは知らないけれど、裁判所かどこかの許可が必要だと思う。それまで……預かってやりたいんだ」
「聡寿……」
「親の愛情がどこに向いているのかわからない子供って、どれだけ悲しいかわかるか? こんなまま、施設に引き渡すなんて、……できない」
 聡寿の言葉のあと、長い沈黙ができた。
 真央は難しい顔で宙を見つめ、何かを考え込んでいるようだった。
「……わかった。ただし、本当にその手続きの間だけだ。結果が出たら、施設に預けるから」
 真央が折れる形で、これからのことを受け入れた。
「結果があんたの子供だって、出たら?」
「それだけは絶対ない」
 聡寿の哀しい冗談を間髪をいれずに否定して、真央は話し合いの場から出て行った。また入れ替わりに門田が入ってくる。
「住民票を交付してもらってまいりました。そこから該当の小学校に向かいました。あの子の言ったとおり、小学校に籍はありましたが、一度も通学したことはないとのことで、何度も登校を促すために母親と面談はしているようですね。母親の説明では本人が行きたがらないとのことだったそうですが、本人はあの通りの寡黙さですので、ちゃんとした話はできなかったようです。実はネグレクトで児童相談所に通報しようかという話も持ち上がっていたようですよ」
 聡寿は美しい顔を痛々しそうに顰めた。
「法的なことは竹原が準備するようです。決定がされるまで、僕たちが引き取ります」
「聡寿さん、それは……」
 やめたほうがいいと言う門田のアドバイスは、聡寿自身よくわかっていた。けれど、10歳の少年の空虚な瞳が気にかかって仕方なかった。
「学校に行くのに必要なものを揃えていただけますか? きっと、家にはないんでしょうから」
 門田は真意を問うように聡寿を見つめたが、何を言っても無駄だと悟ったのか、聡寿の頼みにわかりましたと告げて、事務所を後にした。


 少年が寝かされている部屋に入ると、彼は気持ち良さそうに眠っていた。寝顔を見ていると、とてもあどけなく、彼の抱えている孤独は見えなくなっていて、ほっとしてしまう。
「もう痛みはないようです。食事も少しですが食べました」
 流派で一番若い弟子に少年の世話を頼んだ。それが良かったのか、少年はポツリポツリとだが、喋り始めているようだった。
「そう、ありがとう。君も休憩に入っていいよ。また何か用事があったら頼んでもいいかな」
「はいっ」
 聡寿が微笑んで礼を言うと、弟子は緊張のあまりか頬を紅潮させ、大きな声で返事をした。聡寿は慌てて、しーっと口に人差し指を当てる。
 弟子はますます赤くなって、申し訳ありませんと、今度は潜めた声で頭を下げて謝った。
 聡寿は大丈夫だからねと弟子に昼の休憩を取るようにと部屋を出させた。
 これからどうなるのだろう。これからの人生を彼はどう受け入れるのだろう。
 今はすべてのことを考えずに眠っていられるだろう少年の寝顔を見つめる。
 一番いいのは、母親が彼を愛情を持って育てることだ。可能ならば、彼の父親と一緒に。
 真央にすべてを押しつけるように姿を消した彼女に、怒りがわかないといったら嘘になる。
 けれどこの少年の孤独さに、自分の中にある過去の孤独を重ねてしまうのだ。世界の中で、一人きりのようなあの孤独を……。
 自分を救い出してくれたのは、太陽のような笑顔を持つ真央だった。この少年も太陽を必要としているのではないか。そう思えてならなかった。
 少年を救いたいんじゃない、自分の少年時代を救いたいんだ……。
 聡寿は一人心の中に語りかけていた。


 雄大という少年は、小学4年生だが、身体は標準で言えば小学2年生くらいしかなかった。
 学校へは行ったことがなく、行ってもすぐには溶け込めないだろうからと、しばらくは聡寿と一緒に行動することになった。
 内心では心配していた母親からの虐待は身体の部分には見当たらず、ネグレクトと言っても身体の小さいのは栄養失調によるほどの異常なものではなく、予想でしかないが経済的に学校に行かせられなかったのではないかと思えた。
 母子家庭が受けられる色んな補助を受けても、学校に通わせるにはそれなりのお金が必要で、医療費も補助が降りるはずだが、そもそも保険に加入していなかったので、その手続きがわからなかったというのが本当のところではないかと門田が話してくれた。
 雄大は寡黙で会話すらも覚束ないことがあった。会話がかみ合わないし、単語でしか返ってこないのだ。弟子の中にはまだ十代の少年もおり、会話をすることから対人関係に慣れさせなくてはならなかった。
 勉強の方は門田の恋人である菅原透が、勤務先の塾に行く前に見てくれることになった。
 何も習っていない状態で、さぞかし苦労すると思われたが、一日を家の中でテレビを見て過ごしていた雄大は、ある程度の読み書きや計算はできていた。
 透の話によれば、学校には行きたいけれど、どんなところかわからないから怖がっているという。その代わりに教育番組をずっと見ていて、そこからの知識は豊富だった。
 教えられることは素直に飲み込んでいくようで、不安定だった基礎がしっかりし、すぐにも4年生の勉強には追いつけるだろうということだった。
 聡寿と一緒に帰り、客間で寝かしつける。夜は真央が遅いので顔をあわせることはないが、朝は三人で一緒に食べる。朝の遅かった聡寿も、雄大が来てからはそれにあわせるようになっていた。
 真央は雄大には話しかけることはなかったが、それでもその存在を少しずつは受け入れるようになりつつあった。
「もう十日経った。母親の居場所はまだわからない。彼女の両親についてはわかったけれど、雄大の引き取りは二人とも拒否している。彼女の母親、雄大の祖母は親子鑑定を了承してくれた。明日にも病院に行ってくるつもりだ。親子ではないと証明されたら、雄大を施設に預けるつもりだ」
 説明や説得というのではなく、聡寿に対する通達のように告げる真央に、聡寿は目を伏せた。
「別に親子じゃなくても……」
 十日余りを一緒に過ごし、通い合う情はあった。
 聡寿を頼る素振りを見せ、後をついてくる少年が可愛くないはずがなかった。
「僕のところなら、内弟子として……」
 真央が一緒に過ごすのが嫌なら、事務所で引き取ることも可能だと聡寿は考えていた。
「駄目だよ、聡寿。それは駄目なんだ」
「どうして。あんたには迷惑をかけない」
 真央はゆっくり顔を横に振った。
「俺は嫌だ。あの子がいる限り、聡寿は俺の過去を見る。確かに、俺は責められても当然の生活をしていたけれど、聡寿に出会ってからは、聡寿一筋だった。それだけは言いきれるし、聡寿にも信じて欲しい。それ以前の俺を、お前に見て欲しくないんだ。あの子がいると、俺たちは……駄目になる」
 どんなことも乗り越えてこれた。
 どんな距離も、時間も、もう怖くなかった。
 けれど二人の間に落ちる染みはじわりと広がり続けるかもしれない。雄大という存在が二人の間にある限り。
 真央の言葉に、聡寿は続く言葉を飲み込んだ。
 二人とも黙り込む。苦しい沈黙が二人の気持ちをどんどん重くしていく。
 聡寿にしても一人の人間の、これからの将来を背負えるのかといわれれば、そこまでの覚悟もまだできていない。
「聡寿は引き受けた以上は、どんな無理だってしてしまうだろう? 俺は、それが心配なんだ」
 真央の本音ともいえる言葉に、聡寿はもう虚勢を張ることもできなかった。
「あの子のために、一番いい道を選んでやりたいんだ」
 それだから、それだけは……。聡寿が呟くように言った時、警備員室からの呼び出しが鳴った。
 はっとして真央がインターホンを取った。
「竹原さんにお客様です。橋本さんとおっしゃる女性の方が」
 聞こえてきた名前に、真央と聡寿は驚いて目を瞠り、見つめあった。



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