「真央君、まだこのマンションに住んでいたのね」
 彼女はあっけらかんとした表情で、真央の部屋を見回した。
「この部屋じゃないよ。昔住んでいたのは、向かいの部屋だ」
「あら、そうだった?」
 少しも悪びれない彼女の態度に、聡寿は胸の中に沸き起こる苦さを苦労して飲み込む。
 二人の思い出の場所を彼女が知っているということに、聡寿は嫉妬で息苦しささえ感じた。
 大人の話し合いになるだろうと、雄大は別の部屋で休ませている。彼女も特に息子に会いたいという様子でもなかった。
「親子鑑定のことだけれど、俺は今からでもかまわないよ。ちゃんと白黒をつけよう」
 真央の申し出に、瞳は声をたてて笑った。
「そんなの、しなくてもいいわよ。雄大は真央君の子供じゃないもの」
 あははと笑う彼女に、聡寿は吐き気すら覚えた。
「だったら、どうしてこんなことをしたんだ」
 真央が真剣に怒っているのを見て、彼女はようやく笑うのをやめた。
「別に。真央君が幸せそうで、腹が立っただけよ」
「それで気が済んだか?」
「済まないわ。でも、どんな嫌がらせをしても、貴方は幸せそうよね」
 瞳はちらりと聡寿を見た。
「俺が簡単に幸せになれたとでも思うのか?」
「だって、私がふられたのはあの人のせいでしょ。貴方、バカみたいに正直に、別れる理由を言ったわよね。それまでは遊びで、浮気だって平気で、誰とでもつき合ってたくせに。あの人にだけは操をたてるみたいに真面目になっちゃって。それからずっと、幸せだったんでしょ。ずっと、ここで、二人で幸せに……」
「違う」
 彼女の言葉を止めるように、真央が強い言葉で否定した。
「何が違うのよ」
「黙れ。もう黙ってくれ。何も説明なんかしたくない。黙ってあの子を引きとって、出て行ってくれ」
 真央は視線を外し、瞳に背中を向けた。
「雄大君をこれからどうするつもりですか?」
 聡寿はゆっくりと彼女に問いかけた。真央がやめろよと聡寿を見たが、その視線には気づかないふりをした。
「連れて帰るわ。実は、結婚することになったの。相手の男が、子供がいてもいいって言ってくれたのよね。バツイチの男だけれど、どうも男性不妊で奥さんと別れたんですって。だから、子供がいてくれたほうがいいって。だから……」
「だったら、ちゃんと学校に通わせてあげてくれますよね」
「え、……えぇ」
 真央には強気で話せても、聡寿に対しては口ごもりがちになるようだった。そんなことまで知られていたのかと、少し恥じ入るように顔を背ける。
「新しいお父さんが彼を虐待することのないように、護ってあげてくれますよね」
 聡寿が確かめるように言うと、瞳はクスッと笑った。
「平凡だけれどね、子供は好きな人なのよ。私も、ここでやり直さないと、本当に駄目になるようで怖くて、あの人で手を打とうかなと思ったんだけど、早く子供連れて来いって言ってくれてね、きっと大切にしてくれると思うわ。私も雄大を……愛したいの。まだ、遅くないわよね?」
 まるで聡寿に許しを請うように、瞳は問いかけてきた。
「僕が父親と和解したのは二十歳の時でしたから、貴方は全然遅くないですよ」
 聡寿の言葉に少しは安心できたのか、彼女はようやく優しい笑みを浮かべた。
「真央君、迷惑かけてごめんね」
「もう二度と会うこともないさ。そんな男に、謝らなくていい」
 真央の言葉を聞きながら、聡寿は雄大を連れてきた。
 少年は母親を見て、にっこり笑う。その笑顔を見て、聡寿は胸が痛くなる。
 二人で玄関まで見送った。
「真央君、部屋の中には入れてくれなかったわよね。だから、向かいの部屋とこっちと違いがわからなかったのかな」
「向かいの部屋は彼との想い出の部屋なんだ」
 一緒に暮らしながら想い出だという真央に、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「俺たちは会えない時間があった。その間、ずっと部屋は閉ざしていた。それだけだよ」
 ずっと幸せだったんでしょと言われたことへの反抗だったかもしれない。
「会えないって……どれくらい……?」
 彼女の質問に、真央は無言を返した。
 聡寿は自分を見上げてくる雄大が同じことを聞いているような気がして、ふっと微笑んだ。
「大学を出てから、この春まで、だね」
 簡単な計算。今の年齢から、大学卒業の年齢を引く。その数字に、彼女は自分の失言を知った。
「国文科の美人さんは、名前をなんといったかしら。ごめんなさい。難しすぎて覚えてなくて」
「聡寿さん……」
 母親の問いに答えたのは、息子の方だった。真央よりは自分の面倒を熱心に見てくれた優しい人を、雄大は別れを惜しむように見つめた。
「聡寿君、安心してね。雄大は本当に真央君の子供じゃないの。それに彼、本当にみんなと手を切ったのよ。それだけは証言してあげる。それと、この部屋、彼は自分の自由の城だからって、女は入れなかったのよ。私も入ったことない。ここまでは何度か押しかけたんだけれどね」
 きっと女性なら打ち明けたくない屈辱的なことだったのだろうけれど、彼女はそんな風に真実を話してくれた。
「雄大君、元気でね。家出してくるなら、ここか、あっちの事務所の方においで」
 聡寿らしくない唆しに、真央は驚いていたが、雄大はコクリと頷いた。
「ありがとう」
 泣き出しそうに、けれど精一杯の笑い顔で雄大は手を振った。
 エレベーターが二人を連れて行き、真央は深いため息をついた。
 部屋に入ろうとする背中に、聡寿は抱きついた。
「聡寿……?」
 まだ怒っているのだろうかと心配していた真央は、聡寿に抱きつかれて不安げに名前を呼んだ。
「血には勝てないんだな。あの子、母親の顔を見て嬉しそうに笑った」
「……そう、だな。でもさ、あの子にはまたきっと、どこかで会える。俺たちは」
 思いの他、情を移していた聡寿に、真央は元気づけるように言った。
「親子の絆には勝てないかもしれないけれど、俺たちにはもう一つの絆があるだろう?」
 聡寿の手にそっと握らされたもの。その冷たいプレートの感触に、聡寿は自分の胸にかけられている同じ物を意識した。
 大切に持っているんだよ。と雄大に教えて首にかけてやった。
「聡寿、……子供が欲しくなった?」
 気弱にかけられる声に、聡寿は真央の背中にくっつけるように首を振る。
「そうじゃない。欲しくなんてない。……僕は……あんたが欲しいだけ」
「俺のさ、身体の中にも聡寿の血が流れてる。そして、聡寿を助けられるのも、俺だけだ。血の絆が俺たちの七年を支えた。俺たちの間にも、絆はある」
 真央は胸に回された聡寿の手を掴み、身体を反転させた。ぎゅっと聡寿を抱きしめる。
「俺も、聡寿が欲しい。聡寿だけ……」
 ぎゅっとしがみつく聡寿に、どうすればキスをできるだろうかと考えながら、それでもしがみつく腕の強さに、愛する人が離れずに済んだことを実感していた。


 久しぶりに開いた部屋のベランダで、並んで星空を見上げた。
「一年に一度なんて、寂しいだろうな」
 聡寿がポツリと呟いて、彦星を探す。
「一年に一度でも、羨ましいと思ったことがある」
 真央はかすかに笑いながら、織姫を探す。
「見つからない……」
 二人の声が重なって、顔を見合わせて笑った。
「そりゃ見つからないよな」
「今頃きっと……」
 こうして抱き合っているのだろう。
 都会の夜空は星が少ない。けれど捜し求める二つの星は、きっと今頃、お互いの胸の熱さを肌に感じているだろう。
「聡寿……愛してる」
「……真央」
 聡寿は真央の胸に頬を寄せるように身体を預けた。
 疑いながらも、離れられなかった強い腕。ここが自分のあるべき場所だと、聡寿は目を閉じた。抱き寄せようとする腕の強さに、自分を見失わずにすんだことを感謝しながら……。





                     完