10才という年齢に、聡寿は足元が崩れるような感覚を味わった。
 子供が10歳というのなら、生命が宿ったのは簡単な計算では11年前。
 11年前……二人が出逢った頃だ……。
 聡寿は真央を拒否し続け、真央は……たくさんの女性と噂があった。
 その噂がすべて真実ではないだろうし、すべてを知っているわけではないけれど、何人かの女性がいたことは、「別れた」と真央自身の口から聞いたこともあった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな馬鹿な。君、結婚しているんじゃないの?」
 絶対違うとはいわないのか? と聡寿は視線を足元に落とす。
 どうして俺は違うと言ってくれないのか。
「結婚はしなかったの。貴方と別れた後で付き合った男との間にできちゃったと思って、子供は生んだんだけど、結婚はしなくって。そいつともすぐに別れちゃったんだけどね。私、真央君のこと忘れられなかったの。だから誰とも上手くいかなかったの。子供があの男との子供だと思ったから、貴方に連絡できないって遠慮していたんだけど、あの子は貴方の子供だったんだわ」
 感極まったのか、瞳は泣き始めた。
 聡寿はふらりと一歩を踏み出した。それを真央が慌てて引き止めた。
「待って、絶対違う。俺じゃない」
「竹原君!」
 自分じゃないという真央に、反応したのは大切な人ではなく、女の方だった。
「橋本さん。俺じゃないよ。父親は俺じゃない。計算が合わない」
 真央の言葉に聡寿は悲しくなった。
 身に覚えがないのではなく、計算が合わないと言う真央に、責める筋合いではないと思いつつ、胸が苦しくなっていく。
「だって、血液型が!」
「そんなの、偶然だよ。俺と彼だって、血縁関係はないけれど、血液型は一緒だし、俺の父親も母親もこんな血液型じゃない」
「でも!」
「どうしても俺が父親だと主張するなら、血液鑑定でも何でも受ける。裁判を起こしてくれてもいい。その子の父親は俺じゃない。君にだってわかってるはずだ」
 真央は一気にそれだけを言うと、聡寿の腕をって歩き始めた。
 飲み物を運んできた看護婦が、唖然として手術室前の光景を見ていた。
「もう大丈夫ですから失礼します。家で休みますので」
 真央は看護婦にも愛想なく言って、廊下を突き進む。
 どこへいく気だとも、待てとも言えなくて、聡寿は手を引かれるままに歩いた。他に、どうすることもできなかった。悲しみと苦しみが身体全体を支配していた。



「本当に俺の子供じゃない。信じて欲しい」
 結局出かける気にはなれず、二人はマンションへと帰ってきた。
 それからずっと真央の説明を聞いているが、話の半分も理解できなかった。理解しようとしていないからかもしれない。
 頭では真央を信じようとしているのに、どうしても心が悲鳴をあげようとする。
「だけど、あんたは……見に覚えがないとは……言わなかった」
 計算が合わないといったのは、そこに何らかの記憶があるからではないのか。
「それは……」
「あんたは僕に、お前だけと言いながら、女を抱いてた」
「そんなことしてない。信じてくれ」
 ソファに座る聡寿の足元に座り、手を握って、真央は真剣な眼差しで覗き込んでくる。その目に嘘はないと思うのに。嘘はないと信じたいのに。
「どうやったら信じられる? あんたは確かに、色々な女性と噂があったし、僕に女と遊ぶのはもうつまらないと言ったんだ」
 どうしてこんなことを覚えていたのだろう。それが悲しい。こんな風に責めるのは酷いと思うのに、言葉が出てしまう。
「聡寿と出会ってから、女は一度も抱いてない。それは誓って言える。別れるために何人かには会ったけど……」
「それをどうやったら信じられる? あんたはどうやって信じさせてくれる?」
 涙が零れそうだった。
 幸せだと信じていたもの。それがこんなに脆いのだと思い知らされたような気持ちで、身体が震えてしまいそうになる。
「保が……知っている……」
 その名前に聡寿はとうとう涙をこぼし、唇を震わせながら笑ってしまった。
「彼は……もう、いない」
 大学1年生の時に逝ってしまった真央の親友。確かに彼なら真央のことを何でも知っていただろう。けれど、彼はもういない。彼の死に真央は打ちのめされ、聡寿はそんな真央の内面にシンクロし、一線を越えた。
「後は科学的な検査に任せる。彼女だって、本当はわかっているはずなんだ。怪我と輸血のことで動転していただけなんだ。絶対に、子供は俺の子じゃない」
 真央の手が聡寿の手を包む。その強さと暖かさに、また涙が零れる。
「あんたは……本当は優しい人なのに、そんな冷たいことをいわせてしまうのは……僕なんだ」
 もう何がショックなのかわからない。
 真央が絶対に違うと言ってくれるのなら、それを信じて目をつむっていればいいのに、真央らしくない冷たさに心が痛む。
 そして……、もしも本当に彼の子供だったとしたら……。そう思うと、身体がどんどん冷えていくような不安定な気持ちになっていった。
「俺には聡寿しか大切なものなんてない。聡寿以外に優しくするつもりなんてない。聡寿を失くしたくない。聡寿だけなんだ……。ずっと傍にいて……」
 聡寿の腰を抱くようにして、真央は聡寿の胸に額を寄せた。
 痛む心を誤魔化すように、不安な気持ちを騙すように、真央を抱きしめた。



 その話題には触れないようにして、二人はぎこちなく月曜日を迎えた。
「行ってくる。今日はできるだけ早く帰るから」
 玄関で聡寿を抱きしめ、優しくキスをする。聡寿はそれに答えて、微笑みで見送った。その笑みが成功したかどうかは真央にしかわからない。
 聡寿は朝はゆっくり行ける日だったし、昨日採血をしたことで、今夜も早く帰る予定になっていた。
 真央が出勤してほっとする。
 彼女の話題に触れないようにしたり、なるべく忘れるようにしようと思うことで、かえって不自然になって、ぎくしゃくとしてしまっていた。
 後のことは真央に任せよう。聡寿はそう決めた。
 ここで問題から離れて言い合いをしていても不毛だと思うことにした。
 ずっと二人で、一緒に暮らしていたわけではない。彼を受け入れなかった期間は確かにあるのだし、離れて暮らした時間も長い。
 それらの時間に彼が何をしていたのかまで責めるのは間違いだと思った。彼を責める資格など聡寿にはない。責めるくらいなら、何もかも捨てればよかったのだ。真央は一緒に逃げてくれただろう。
 気持ちを切り替えるには時間がかかるだろうし、決定的な証拠が揃わない限り、不安は消えないだろうけれど、何があっても離れないと言った真央を、今度は絶対に信じると決めた。
 それでも疲れたようなため息は知らず知らず零れてしまう。何度目かのため息を隠したとき、携帯電話が短いメロディーを奏でて切れた。門田がマンションの下についたという合図だ。
 鍵を持って出かけようとしたとき、家の電話が鳴り始めた。
 自分の方の電話だったので、聡寿は受話器をとった。
『S救急救命センターですが、竹原真央さんのお宅でしょうか?』
 相手の名前に聡寿は眉を寄せる。昨日の採血での連絡だと思ったので、聡寿は「そうです」と肯定した。多分、番号を取り違えたのだろうくらいに考えていた。
『お子さんの退院についてなのですが、お迎えに来ていただけますか?』
「え? お子さん……って?」
 昨日の光景が思い浮かぶ。しかし、迎えに来いというのはどういうことだろう……。
『橋本さんから、お子さんの父親は竹原さんで、退院後はそちらで引き受けてくださると伺いましたけれど』
「お母さんは……?」
『それがそう言って帰られたきり、連絡が取れないもので、こちらも退院の手続きがとれず困っているのです。実は健康保険も入っておられないとのことで、退院の清算も出来ていませんので、お父様だとお聞きした竹原さんにご連絡を差し上げた次第なのですが』
 聡寿は混乱する頭を整理できないまま、「伺います」と返事をしてしまった。相手はかなり嬉しそうに、お願いしますと言って電話を切ってしまった。
 携帯電話が再び鳴り始める。下りてこない聡寿を心配した門田からのものだった。すぐに下りると告げて、聡寿はマンションを出た。


 案内された病室のベッドの上で、少年は座って待っていた。
 病院の貸し出し用のパジャマを着ていた。
 頭に包帯を巻いている。パジャマのズボンで隠れているが、足にも包帯は巻かれているのだろう。
 悲しそうな顔で、現れた聡寿と門田を見つめていた。
 聡寿は少年の顔をまじまじと見つめてしまう。
 どこかに真央の面影を残していなかと、探してしまう。
「お着替えもお母さんがお持ちじゃないんですよ……」
 母親には連絡が取れなくなった。清算も済ませず、子供を置き去りにして、真央が父親だと告げて、行方を絶ってしまった。
 少年は着替えもできずに、ぼんやりとベッドに座り、自分の運命を受け入れるように、見知らぬ男を迎えた。
「連れて帰ります」
「聡寿さん……」
 門田の引き止める声には聞こえないふりをした。
 彼をここに残しておくことは……何故だかできなかった。
 淡々と運命を受け入れるような、十歳の少年に、遠い昔の自分を重ねてしまったのかもしれない……。


 病院の清算をし、、母親の現住所と電話番号を聞いた。
 念のためにと病院からの帰り道で寄ってみたが、部屋には誰もいる様子はなく、少年も鍵を持っていないというので、そのまま事務所へと連れて行った。
 少年はほとんど言葉を発しなかった。こちらの問いには、頷くか、首を振るかだ。雄大という名前は、病院のカルテに書かれていたので判っていたが、呼んでもわずかに顔を上げるだけで、声は出さなかった。
 弟子の一人が買い物に行ってくれて、少年の着替えを買って来てくれて、ようやく病院のパジャマを着替えることができた。
「どうなさる……おつもりですか?」
 真央の子供かもしれないと聞かされても、門田には信じることができずに、心配そうに聡寿を見つめた。母親とは連絡がとれず、少年はほとんど喋らず、明日からも消毒に病院に行かなくてはいけない。しかも、全額自費負担だ。
「竹原と相談します」
 真央は何というだろう……。それが気がかりだが、少年を見捨てることはできないと思っていた。
「彼なら、母親の連絡先を知っているだろうし」
 子供を捨てた母親にだって、両親や親戚はいるだろう。それでどうするのかを決めなくてはならない。
「雄大君、学校は?」
 今日は無理でも、傷みがなくなったのなら、学校に行かせてやらなくてはと思ったが、雄大は首を振った。
「行きたくないの?」
「……行ったこと……ない」
 ようやく口を開いた少年は、聡寿たちを驚かせる発言をした。


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