KIZUNA−絆−






 窓から差し込んでくる光は既に真夏の強さを持っている。
 けれどカーテンを揺らすのは、まだ少し涼しげな夏の一歩手前の爽やかさ。
 梅雨の合間に現れた夏の気配の強い晴天に、窓を開けたまま、真央は大きく背伸びをした。
「こんなに晴れていたら、どこも人がいっぱいかなぁ」
 久しぶりに二人の休日が日曜日に重なった。とても珍しいことなので、せっかくだからどこかへ出かけようということになり、少しゆっくりめの朝食の後に準備をしていた。
 準備と言っても、特に何かを用意するわけではなく、戸締りのために窓を閉めようとしていて、あまりの気持ち良さに手が止まり、行楽の人手の心配をしてしまった。
 できる事なら、二人でのんびり、ゆったりと過ごしたいのである。
「場所にも寄るんじゃないかな。かえって都内の方がすいてるかも」
 聡寿の返事に真央は曖昧に首を傾げた。それはかなりあやしいと思う。
 特に若い人たちは、郊外の緑より、都会のショッピングや催しの方が好きである。
「コンサートは定員制だから、問題ないし」
「そうだよな。レストランも予約入れてあるし、なるべく混まない通りを歩けば問題ないか」
 聡寿が嫌がらずに出かけようとしてくれていることが嬉しかった。
 休みなのだから家にいさせてやったほうがいいだろうかと思いつつ、友人が出演するという室内管弦楽のコンサートに聡寿を誘ってみた。
 バイオリンやチェロという弦楽器とピアノに、笙と琴という和楽器のコラボレーションコンサートに、聡寿も興味を惹かれてたのか、一緒に行くと言ってくれた。
 ついでだからとレストランを予約し、近隣の絵画展にも行ってしまおうという、いかにも詰め込みのデートだったが、真央は嬉しくて仕方なかった。
 二人で出かけること自体が珍しいから、出かける前から浮かれてしまう。
 真央は黒の半袖のコットンセーターに、コンサート用に麻のジャケットを用意した。
 聡寿は生成りの麻のシャツに、和風な紺のジャケットを着ていた。久しぶりに見る聡寿の洋服姿に、つい見惚れてしまう。
 和服姿も艶やかで困ってしまうが、洋服姿は清楚な印象が強くなって、その分抱きしめたくなって、こちらも困ってしまう。
「真央?」
 うーんと唸りながら見つめる真央に、聡寿は不思議そうに声をかけた。
「やっぱり外に出すのはもったいないかなぁ」
 で、つい手が伸びて、細い身体をぎゅっと抱きしめる。ほとんど無意識に近い行為である。
「あほ」
 ほんのりと頬を染めて、聡寿は身体を捩るようにして、真央の腕から逃げる。
「早く行こう。ますます暑くなりそうだ」
「行ってきますのキスはー?」
 真央は玄関で聡寿を捕まえようとする。
「一緒に出かけるのに?」
 聡寿は呆れながらも、表情は柔らかく微笑んでいる。よほど機嫌がいいらしい。
 ずっと雨が続き、それで少し気鬱になっていた聡寿だったが、この晴れ間が聡寿に明るくしてくれている。真央は太陽に感謝しながら、聡寿を抱き寄せ、頬とそして唇にキスをした。
「いこっかー」
 真央が玄関を開けようと手をかけたとき、その音は不気味に鳴り響いた。
「…………」
 思わず二人の動きが止まる。
「いいよ、無視しちゃおう。俺たちはもう出かけました」
 軽やかに鳴り響く電話の音は、その時、二重になった。
 先に真央の固定電話が鳴り、次に聡寿の回線が呼んでいる。
 少しばかり嫌な予感に捕らわれる。二人の回線が同時に鳴って、それがもしも同じ場所だったら、用件は一つだけである。
 それは決して無視できない。
 二人は顔を見合わせて、無言で靴を脱ぎ、それぞれの電話に走った。
「はい、竹原です」
『こちら血液センターです。特殊輸血の必要が生じました。今からS救急救命センターの方へお越し願えないでしょうか』
 同じ内容の電話を受けているだろう聡寿を見た。聡寿も真央も見て、そして頷いている。
「20分くらいで行けます」
『よろしくお願いします』
 簡潔明瞭に電話は切れた。ほぼ同時に聡寿も受話器を置いた。
「うーん、絵画展は中止かなぁ。でも、ランチはちょっと豪華にしようか」
 400ccの献血の後に歩き回ることは避けたかった。自分が、ではなくて、聡寿をそうさせたくはない。
「仕方ないか」
 万が一のため、互いで互いを支えあうしかない特殊な血液型。この依頼は無視できない。
「急ごう」
 でかける用意が出来ていてよかった。二人はそう思いながらエレベーターで地下の駐車場へと急いだ。



 救命救急センターには人影が少なかった。
 正面玄関は入院患者と家族、見舞い客のために開いていたが、そこの警備員に用件を聞かれた。
「輸血で呼び出しをされたんです」
 血液タグを提示すると、警備員は手術室の場所を教えてくれた。
 小走りでその前まで行って、教えられたとおりにインターホンを押すと、すぐに看護婦が駆けつけてきた。
「こちらでお願いいたします。多分……400ccで足りると思うのですが、念のためお二人とも400ずつ採血させていただいてもよろしいでしょか。体調がお悪いようでしたら、200にさせていただきますので」
「俺は400とって下さい」
 真央が申し出ると、聡寿もまた頷いた。
 できる限り、輸血は同じ人からのものにしたほうが良い。複数の人の血を入れることで、色々な危険度は増す。もしも何らかの理由でまた血液が必要になったとき、他にも呼ばれる人たちと混ぜるより、なるべく二人で済むほうがよいのである。
 二人同時に採血を始める。
 手術室の隣にある処置室は、点滴用のリクライニングできる椅子があり、並んで採血を受けた。
 人懐こい真央は輸血相手がどんな様子なのかを聞いている。
「まだお子さんなんですよ。階段から落ちて脚と頭に怪我をしているんです。お母さんも血液型を知らなくて、テストしたら大騒ぎでしたよ」
 輸血は必要だが、それほど切羽詰ったものではないらしく、苦笑混じりに説明してくれる。
「輸血必要までわからなかったら慌てますよねぇ」
 真央の相槌に聡寿は眉間に皺を寄せる。内心では「あんたもそうだったよな」と突っ込みを入れている。
 看護婦は慣れたもので真央の相手を適当にしながら、テキパキと用事をこなしていく。
 日頃から元気だからか、真央のほうが先に400ccの採血を終える。
 それを彼女は手術室に運び、すぐに戻ってきた。
 聡寿のほうは保存用にするつもりらしい。
 こちらも程なく終わって、二人は腕に止血用のベルトをして、処置室を出た。
「こちらでしばらく休んでいて下さい。飲み物を用意してきますから。気分が悪くなったらすぐに申し出てくださいね」
 二人は並んで廊下のソファに座り、何気なく手術室の電気を見ていた。
「たいしたことがないといいな」
 看護婦の様子を見ると助かるのは間違いないだろうけれど、怪我は軽いほうがいいに決まっている。
 二人で頷きあっているとコツコツと小さな足音がした。
 何気なく後ろを振り返る。看護婦の足音ではないなと思ったからだ。
 二人とそう変わらない年齢の女性だった。心配そうに手術室を見るように歩いている。
 もしかしたら母親だろうかと聡寿は思った。
 この場に不似合いな二人に気づいたのか、彼女はちらりとソファの男性を見た。
 その顔がおや?というように、不思議そうに変わる。じっとその目が真央を見つめる。
 真央は微妙に視線を泳がせて、聡寿に「俺?」と聞くように首を傾げた。聡寿も「さあ?」と首を傾げあう。
「竹原君……? 竹原君よね?」
 無視できない。
 けれど、真央には相手が誰なのか、わからなかった。
「私、瞳。橋本瞳。覚えてない?」
 それこそこの場には相応しくない明るさで、瞳は真央に話しかけてきた。
「あっ! あ、あー。あぁ、えぇー橋本さん」
 名前が出たことで真央ははっと思いだしたらしく、愛想笑いを浮かべた。
「そんな余所余所しい。瞳って呼んでたじゃない」
「え? そう……だったかな?」
 あきらかに何かを誤魔化そうとする真央の態度に、聡寿は眉を寄せた。
「あー、橋本さん、もしかして、怪我した子のお母さんって、君?」
 他に母親らしい人物は見当たらず、真央は何とか話題をそらそうと必死になる。
「え、ええ、そうなの。階段から落ちてしまったの。救急車で運ばれてもう大丈夫と思ったら、なんだか珍しい血液型だって言われて、そんなの知らなくて慌てたの」
「俺たちさ、同じ血液型で、今採血してきたから、もう大丈夫だよ」
 何とかもう一人の存在に気づいてもらおうと、真央は聡寿と一緒だとアピールした。
「あら……」
 なのに、彼女は一瞬呆けたように、遠くを見た。聡寿のことは目に入らなかったようである。
「聡寿、もう行こうか」
 真央はそそくさと立ち上がる。
 いかにも逃げ出すような態度に、聡寿は不審に思いながらも、ここに居たくないと思ったので、一緒に立ち上がった。
 タイミングが悪く、その時に手術室のドアが開いた。
「無事に終わりましたよ。まだ麻酔が効いていますので、もうしばらくお子さんには手術室にいて頂きます。後で詳しくご説明いたしますが、頭の方を打っていますので、大丈夫だとは思いますが、念のためいくつかの検査をしたいので数日の入院をしてもらいます。検査の結果がよければ退院していただけますよ」
 もうしばらくここでお待ちくださいと続けて、医者は外したマスクをブラブラさせて廊下を遠ざかっていった。
「良かったね、橋本さん。じゃあ、俺たち、これで。お大事に」
 自分たちも後に続こうとした真央だが、彼女の爆弾発言で足を止められてしまう。
 梅雨の晴れ間は、自分たちにとっては嵐の前の静けさだったらしい。真央はさっさと立ち去らなかったことを、一生分では足りないほど後悔した。
「待って、竹原君。雄大は竹原君の子供なのよ。今はっきりしたわ。血液型、遺伝だったんだわ!」
 ぴたりと足が止まった。
 本当は耳を塞ぎたかったのに、聡寿は呆然とその場に立ち尽くし、動けなくなっていた。
「雄大は10歳よ。覚えがあるでしょう?」
 聡寿は恐る恐る真央を見た。
 そしてその顔を見て……彼女がまるきりのでたらめを言ったのではないことを……知った。


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