「いい加減にしたら?」
突然かけられた声に、その場の誰もが動きを止めた。
そして間を割るように差し出されたのは野球のバット。バットから持ち主の腕、そして本人を見て、一度は驚いた恐喝者たちも、すぐに余裕の表情になる。
反対に助けられたのかと思った被恐喝者である松倉北斗は悲しそうに更に俯いた。
北斗は今まさに恐喝されていた。恐喝者たちは北斗の通う私立鵬明学院高等学校にほぼ隣接されている、県立の工業高校の三年生だと制服を見ればわかった。
北斗もブレザーの胸に鵬明のエンブレムをつけた制服を着ていた。
高校は隣だが、その学力差はかけ離れている。鵬明の生徒は勉強はできる分ひ弱で、暴力事件には縁遠く、隣の工業高校のドロップアウトした生徒には狙われやすい。
一年生の北斗は、たまたま帰りに買い物でいつもと違う道を通り、たまたま人通りの途絶えたところで、彼らにもっと人通りの少なそうな場所へと、ほとんど引きずられるように連れ込まれた。
北斗は高校に入ったばかりだが、身体はまだ中学生で通るほど小さく、細く、いかにもか弱そうに見えた。見えるだけではなくて、優しそうな外見そのままに争い事は好まないというよりむしろ嫌いで、彼らに反発するなどどうしてもできそうになかった。
最初にすれ違いそうになったときに逃げ出すべきだったのだ。けれどそんなこと、新入生の北斗にはできそうもない相談だった。
「親切な隣の上級生に出会って、挨拶も無しか?」とかけられた声に素直に「こんにちは」と答えた辺りから、かもりやすいと思われたのかもしれない。
挨拶というのは現物で示すものだと難癖をつけられ、財布を奪われそうになった。いくらお人好しの北斗でも、少ないお小遣いを奪われては非常に困るので、ごめんなさい、堪忍してくださいと訴え続けた。 そんな卑屈な態度は『先輩』たちのお気に召さなかったようで、最初は小突く程度だったのが、示しをつけようとばかりにエスカレートの気配を見せ始めた。
そこへ『いい加減にしたら?』の声である。
彼らはいっせいに声の主を見た。一瞬はバットに驚いた彼らも、次には軽く吹き出していた。
「おいおい坊主。大人の会話に首を突っ込むなよ。ママに教わらなかったか?」
バットの持ち主は、まだ幼かった。
やたら勝気そうな目をしているが、カーゴパンツをはいているその姿はどこからどう見ても小学生である。声変わりしていないらしく、ボーイソプラノの声はとても澄んでいた。
「早く帰らないとママが心配してるぜー?」
見た目は親父臭い高校生がママ、ママと小学生をからかう。
「ほら、早く向こう行け。帰れ。でないと坊主も痛い目にあっちゃうぜー?」
高校生たちはいかにもバカにしたように笑い始める。
「俺、ママに大切にされてるからさ、こんなもん持ってる。お兄さんたち、知ってる?」
数人に睨まれているにもかかわらず、少年は勝気な瞳に怯えを浮かばせることはなかった。北斗よりもよほど度胸が据わっている。
少年はバットを持った反対の手に、小さなネズミ型のマスコットを取り出した。
高校生たちはバカにされたと感じたのか、このクソガキと唾を吐いた。
その高校生の前で少年はバットを置く。ネズミのチェーンを持ち、ネズミの頭をピッと引っ張った。
ネズミがチェーンからぽろりと外れた。と、途端に当たりに響き渡る警戒音。
ピー、ピー、ピー。ウー、ウー、ウー。
周囲を憚らないその音に、高校生たちはぎょっとする。
「お、おい」
「とめろよ、おい」
少年からそのネズミを取り上げようとするが、少年はポイとチェーンの方を投げ捨ててしまう。
「そのチェーンがないと、この音止められないよ。これ、この地域の小学生に配られた防犯ベルだから、すぐに誰かが来るよ。今時、小学生の連れ去りは大人がピリピリしてるからね。あ、犯人が高校生だなんてわかったら、マスコミも駆けつけてくるよね」
勝気な目に知性のきらめきが加わる。
「お、覚えてろよ」
「ウン、覚えてる。お兄さんたちの顔、忘れないよ。こっちのお兄さんが今後も困るようなことになったら、お兄さんたちの顔、誘拐未遂で手配されるからよろしくね」
何かを言い返そうとした『お兄さん』たちだが、駆け足で近づいてくる足音に逃げ出すほうが先決だと感じたのだろう、舌打ちと共に駆け出した。
「パーカ」
聡明そうな外見に似合わない言葉を口にして、少年はネズミの耳の部分を押した。あたりは急にシンと静まる。
「あ、あの、きみ」
北斗が何かを言いかけた時、防犯ベルの音に慌てたらしい人がやってきた。近所の中年の男性は、間違って作動させてしまったという少年の説明を鵜呑みにして、ほっとして帰っていった。
「きみ、あの、ありがとう」
北斗がようやくお礼を言うと、少年は冷めた目を北斗に向けた。
「お兄さんもさ、そんだけ弱いんなら、防犯ベルでも持てば?」
少年は呆れたように言い放って、北斗の手にネズミを持たせ、自分はバットを拾って、スタスタと歩いていった。
北斗は呆然とその背中を見送る。
その手には使い方のわからない防犯ベルが残されたのだった。
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