×××2007年 紅葉×××

 頬を撫でる風に冷たさを感じるようになっても、彼の手がかりはまったくつかめなかった。
 竜之介はどこを探せばいいのかもわからず、闇雲に歩き回るだけしかできなかった。
 月末の土曜日、あの女性がケーキを買いにやってくる。
 自動ドアを入ってきた彼女を見た時、竜之介は笑顔が引きつるのを感じた。けれども客にとっては店員の笑顔などごく当たり前のことなのか、気にする様子もなく、飄々として買っていくのだ。
 一度彼女が店を出て角を曲がるのに、慌てて追いかけて出たことがある。
 もしかしたら、彼が後をつけているのではないかと期待して。
 そんなことがあるわけないと、歩道に立ち尽くしてから気がつく。
 ここで失敗したのだ、彼は。ケーキを持った自分とぶつかって。
 眼鏡が壊れてしまい、泣き出しそうな竜之介を放っておけずに、彼はここに踏みとどまってくれた。
 その後、竜之介に近づいたのが、愛人の元に来るあの男に近づくためだとしても、竜之介はそれを責めるつもりはなかった。
 もう一度彼を止めたい。引き止めたい。
 彼自身の人生に引き戻したい。
「竜之介さん、こんにちは」
 そろそろ店に戻ろうと溜め息をついたところで、横から声をかけられた。
「あ、こんにちは」
 彼の現場で一緒だった若い男が笑顔で立っていた。
「あのね、俺、佐藤さんを見かけたんですよ!」
「え! ほんと!」
 思わずその腕にしがみついていた。
「う、うん……」
 勢いに驚いて少年は仰け反るようにした。
「あ、ごめん」
「いいっすよ」
 頬ににきび痕のある顔で、少年は驚きながらも笑ってくれた。
「ここから三つ向こうの駅を降りたら、なんとかいう川があるじゃないっすか」
 川の名前の漢字が読めないのか、その説明は覚束無かったが、だいたいの場所はわかった。黄色いコンテナが目印になるらしい。
「そのコンテナの側にバラック小屋が建ってるんだけど、何人かホームレスが住み着いてるらしくって、中に佐藤さんにそっくりな人がいたんです」
「そんな……所に……」
 想像もできない。
 いや、想像はできる。時折見かけるホームレスの姿と、彼が結びつかないだけだ。
「他の仲間は似てるだけだろうって相手にしてくんないですけど、なんて言ったらいいのかなぁ、佐藤さんって、違ったでしょ?」
「違った?」
「うん。そう。あの人は現実の空気を吸っていないような気がしてた。佐藤さんは俺たちみたいな落ち零れを馬鹿にしなかったけど、それはもっと悲惨なことを知ってるからだろうなって……そんな気がして」
 暗い翳を背負っているということなのだろう。
 人に背を向け、一人で闇の中に向かおうとしている。
「ホームレスが何人かいて、若いのがいるなと思ってたら、背中に見覚えがあるような気がして、じっと見てしまったら振り向かれて。ものすごく睨まれたかと思ったら、すっといなくなっちゃったんだよね。だから、俺、早く教えてやらなくっちゃと思って」
「ありがとう……すぐに行ってみる」
 知っている人間に見られたとわかったら、別のところに移動するかもしれない。それほど彼は縛られない生き方を選んだ。
「佐藤さんって、ほんと、暗くて怖そうで、避けてたんだけど、いなくなってわかるって言うのかな、すごく寂しいんだ。この人みたいに真面目にしていれば、誰かが気づいてくれるんだなって、俺に思わせてくれた人なんだ。竜之介さん、会えたら戻ってくるように言ってほしいんだ。他の奴の言うことなんて聞きそうにないけど、竜之介の言うことなら、聞いてくれそうな気がする」
 力強く言われても、竜之介にとってもそれができるかはかなり不安だった。
 彼を連れ戻すには、彼の背負っているものを降ろさせなくてはならない。
 それは誰にも想像できないほど、あまりにも重いものだ。
 けれど、降ろそうと思いさえすれば、あっさりと降ろせるものなのだが、彼はそんな気などさらさらないだろう。
「頑張ってみる」
 自分に言い聞かせるように、ゆっくりと頷いてみる。
「頑張ってください」
 ぴょこりと頭を下げられて、竜之介は店に戻った。
 西脇に事情を話し、店から出る許可を貰う。
「気をつけてください。中には気の荒いものもいるかもしれませんから」
 そう言って西脇は心配して竜之介に防犯ベルを持たせてくれた。
 周りの景色が夕焼けのオレンジに染まる頃、竜之介は電車を降りて川原に向かった。目印は黄色いコンテナだ。
 目的の黄色い箱が見えてくるにしたがって、そのバラックも見えてきた。ブルーシートに覆われた簡易の小さな小屋は、これから来る寒い季節を迎えるには、いかにも頼りなさそうに見えた。
 小屋とコンテナの間に数人の人だかりがある。薄暗くなり始めて、顔まではよく分からない。
 もっとボロボロの服を着ているイメージがあったが、清潔とはいえないがそれほど汚れてもいないものを着ている。
 竜之介が近づいていくと、それまで賑やかに笑いあっていたホームレスたちが話を止めて警戒する。
「あの……すみません」
 恐る恐る声をかけてみる。
「なんだ。俺たちは金なんて持ってないぜ、見たらわかるだろうけど」
 どっと笑い声が沸く。
「仲間入りでもねぇだろうなぁ」
 また笑い声。帰れと言わんばかりだ。
「人を探しているんです」
 とても友好的ではないけれど、逃げ出すわけにはいかなかった。これまでにも彼の消息を尋ねてあちこちを歩いてきたので、それを聞くのにも慣れていた。
「父ちゃんでも探しているのかい? 養ってくれるのなら、父ちゃんになってやってもいいぜ」
 必死な様子をからかわれる。それでも泣いて逃げ出すことはできない。
「若い人です。ここで見かけたって教えてもらったんです」
「坊ちゃんよぉ、例え知ってたにしても、どんな事情があるにせよ、俺たちはお互いのことは絶対にしゃべらねぇ。いくら聞いても無駄だよ。さっさと帰りな」
 そういうのも結束というのだろうか。竜之介は項垂れた。
「ここにいるので全員ですか?」
 まだ他にもいるのなら、せめて揃うまでは待っていたい。
「ハハハ、あのな、俺たちは住所をもたねぇのさ。住所不定ってやつ。ついでに無職で、名前も自称って言われることが多い。つまりここにいるのもその日の気分しだい。定員もないんだから、全員なのかって聞かれても、こっちのほうが困っちまうわなぁ」
 また愉快そうに笑われる。
 どうしてもきちんと答えるつもりはないらしい。
「また……明日来ます」
 彼と会うまで。彼がいないとわかるまで。
 もう他に手がかりはないのだから。
「勝手にしろ。ここは自由の場所だ。あんたが何をしても止めるものはいねぇ。けれどあんたに何かあったとしても助けるものはいないってことだけはしっかり知っとけよ」
 突き放すように言われ、竜之介は俯いて小さな返事をするしかできなかった。

 小屋の中できつく目を閉じ、その小さな声さえ聞き漏らすまいと耳を澄ますものがいた事など、竜之介が気づくことはなかった。




 ×××2007年 神無月×××

 竜之介は毎日やってくる。
 たいていは暗くなる前の夕方で、ホームレスたちが仮の住処に戻ってくる時間を知ってしまったようだった。
 川原の上から、またはすぐ近くまで寄って来ては、集まった浮浪者たちの中に彼がいないかと探している。
 店はどうしたのだろうか。忙しくなる時間じゃないか。西脇たちは竜之介のこの行動を知っているのか。
 色々聞きたいことはあったが、彼はバラックの中でじっと息を潜めていた。
 最初は理由有りだと勝手に推測して、仲間意識を燃やし、竜之介に冷たく当たっていた男たちも、連日のことになると気の毒さが募ってきたのか、追い払えなくなっているようだった。
 顔を見せてやるだけでもとか、一度話をすれば納得するんじゃないのかとか、竜之介に同情を寄せて彼を説得しようとするものまで出る始末だ。
 どこまで俺の邪魔をするつもりなんだ。
 彼は苛立ちながら、拳で腿を叩いた。
 早く帰れ、暗くなればこのあたりは物騒になるんだぞ。
 そればかりを考える。
 竜之介がとぼとぼと帰ってから、彼は小屋を出た。彼は暗くなってからしなければならないことがあるのだ。
「おい、佐藤」
 焚き火をしていた男たちの中から、一人が声をかけてきた。男はついこの前まではネットカフェを梯子しながら、ホームレスだけにはなるまいと頑張っていたようだが、とうとうやっていけなくなったと打ち明けていた。
 彼は無言で振り返った。
「お前、本当はここにいるような奴じゃないんだからさ、探してくれる奴がいる内に戻れよ」
「余計なお世話だ」
 集まった男たちの中、何割が捜索願を出されているだろうか。
 厳しい冬を乗り越えられずに野垂れ死んでも、遺骨の引き取り手さえもいない。
 探し求めてくれる人がいるうちが華だろう。
 やっと見つけた寝床だったけれど、どうやら限界のようだ。
 明日にも誰かが竜之介に、小屋の一つを指差してしまうだろう。
「いや、世話になったな」
 彼は軽く手を上げて川原の土手を登り始めた。
「お、おい!」
 慌てて引き止める声には振り返らなかった。
 夜風が冷たくなってきた。風を防ぐ衝立を失くすのは痛いが、実行までもう残り時間は少ない。
 ポケットに両手を突っ込み、背中を丸めて歩く。
 目指しているのはあの男の事務所だ。
 退社時間のリズムを計るのが目的だ。
 サラリーマンではないので、一見ばらばらにみえるが、周期のようなものがあるのを発見した。
 竜之介の店の近くに住む女のところへは月に一回。それ以外にも行くことはあるようだが、突発的な行動はカウントしない。
 愛人は一人だけではないようで、彼が確認しただけでも三人いた。
 そのほかにいかにも怪しい筋のところへの出入りや、政界の黒い繋がりを感じさせる行動も見受けられた。
 いっそ直接手を下さなくても、それらを告発するだけでもあの男を追い詰めることができそうなくらいだ。
 だが、それで納得できるはずがなかった。
 炎の記憶が彼を苦しめる。
 今もまぶたの裏で燃える炎。その中から伸びてくる手。
 あの苦しみと同じだけ、それ以上の苦しみを負わせなければ、この怒りの持って行き所がない。
 彼の予想では、あの男は今夜、どこかの議員の秘書と食事会だ。
 一度その会話の中身を聞いてみたい気もするが、踏み込むにはそれなりの資金が必要だ。そんな余裕はない。
 今にも廃車になりそうな原付に跨ったまま、彼は男が料亭に入るのを見届けて、その場を後にした。
 しつこくつきまとえば警戒させてしまう。
 それよりは適度に離れるのがコツだ。
 さて、今夜の寝床はどうしよう。暖かいとは言いがたいが、持っていた毛布の所へはもう戻れない。
 夜の街を適当に走らせながら、彼はいつの間にか、帰りたい場所へ向かっていたようだ。
 日付も変わる真夜中。商店の明かりは落ちてしまっている。
 竜之介の部屋ももう真っ暗だった。
「馬鹿だな、俺」
 呟く声が夜の闇に解ける。
 あの夜、失敗しなければ……。
 もう一度バイクのエンジンをつけ、彼は夜の街に溶けていった。




 ×××2007年 降霜×××

 竜之介が川原を訪れると、浮浪者たちは気まずそうに顔をそらした。
 今までも歓迎はされていないが、毎日やってくる竜之介とは気まずいながらも打ち解けて来ていたのだ。
 竜之介は人見知りはするが、性格が穏やかなので、他人からも嫌な扱いを受けることは少ない。特に年上の人たちは、息子や孫を見るような目で見られることが多く、初老の人にこんな風に冷たくあしらわれることが珍しいほうなのだ。
「あの……、すみません、いつも邪魔をして」
 最初の頃はオドオドしていた竜之介が、遠慮しながらも普通に喋れるようになっていたのだが、妙な空気に身体を縮こませるのを見て、一人の男がボリボリと頭を掻いた。
「いや、坊主、謝らなきゃなんねーのは俺らのほうなんだ」
 どうして?というように、竜之介は大きな瞳で男を見上げた。
「坊主の探していた奴、実はここにいたんだ」
「えっ!」
 竜之介は更に目を大きくして、必死の様子で男たちを見回した。
 男たちは目を伏せて顔をそむける。
 竜之介は川原に建っている小屋を見回した。
「もう出て行ったんだ。また戻ってくるんじゃねーかと待ってはみたんだが、どうやら戻るつもりはないらしい」
「そっ……そんな」
 泣き出しそうな顔でその場に座り込んでしまった竜之介に、男たちはひどく慌てた。
「すまん、本当に。口止めされてたんだよ、どうしても会いたくねぇって」
「俺たちもそれぞれに色んな事情があってな。お互いのことに口は出さない空気ができてるもんだから」
 申し訳なさそうに謝られて、詰りたい気持ちを押し込む。
「どこに行ったとか、わかりませんか?」
 よろよろと立ち上がって尋ねる。
「さぁ、それは……ちょっと」
「もともと行く所がないからこんなところに居着いちまったんだから」
 結局また手がかりを失ってしまったんだと、竜之介はひどく気落ちした。
「また見かけたら教えてくれませんか? 僕、駅前のケーキ屋にいるんです。あの、これが、住所と電話番号です」
 西脇の使っている名刺を取り出して渡す。
 電話代も渡したほうがいいのだろうかと迷っていると、浮浪者はその名刺を返してきた。
「俺たちはさ、どこで倒れ込むかわからねぇ身体なんだ。こんなもの持ってたら坊主に迷惑をかけちまうわ」
 その言葉にぞっとする。彼だって、彼だって同じなのではないだろうかと思うと、全身に鳥肌が立った。
「どうしてそんなにあいつを探すんだ? もう諦めたほうがいいんじゃないか?」
 彼を探すうちに何度も聞かされた言葉。竜之介は今回も首を横に振った。
「太郎さんを止めたいんです。太郎さんを人殺しにしたくないんです」
 ホームレスたちはぎょっとする。
「坊主、あいつは覚悟があるみたいだったぞ」
 比較的若い男が告げる。
「駄目です。太郎さんは間違ってる」
「あいつが間違ってるかどうかなんて、坊主が決めることじゃねぇぞ」
「わかってます。でも、太郎さんの命を懸けていい相手じゃないんです。あんな奴のために、太郎さんの大切な時間を無駄にして欲しくないんです」
 堪えていた涙がこぼれる。
「それをあいつに言ってやったのか?」
 言う前に姿を消してしまった。まだ何も言えていない。彼が消えてから気づいたこの気持ちも。
「あいつさ、夜になるといつも出かけてた。どこにいるのかは言わなかったけどな、一度だけ見かけたんだ」
「どこですかっ、それは」
 勢い込んで聞く。どんな小さな手がかりでも欲しい。彼に繋がる細い糸を失いたくない。
「坊主が一人で行かないって約束するんなら、教えてやるよ。ちょいやばい場所なんだよ」
「一人で行ったりしません」
「さぁ、それは信用できねぇ。こんな所に一人で通うような奴」
「そんな……」
 縋るように見つめられて、男は困ったように溜め息をついた。
「一緒に行ってくれるやつを連れて来い。そいつに教えるから」
 そうでなければ心配でたまらない。
 竜之介はわかりましたと大きな声で返事をして、川原を駆け上がって行った。

 カウベルがガランガランと大きな音をたてる。
「まだ開店じゃ……っ…おまっ!」
 マスターが大声を出しかけて口を押さえる。
「お前、どこにいたんだ」
 少し痩せのだろうか、頬の線が鋭くなった彼に、マスターが詰め寄る。
「風呂、貸してくれないか」
 普通の風呂屋には断られるし、自分も入りにくい。浮浪者でもこっそり入れてくれるところが、ここ数日休みで、気持ち悪くて仕方がない。そこで思いついたのがここだった。
「お前を探して若い男がきた」
 マスターが教えると、彼はやれやれと肩を落とした。
「お前が来たら教えるって約束をした」
「どっちの味方なんだ、あんたは」
 よしてくれとばかりに睨む。
「どっちの味方でもない。だが、お前は知るべきだ。あの子の両親のことを」
「竜之介の両親?」
 彼は目を眇めた。
「あの子の両親は事故死した。それを調べたのは山田だ」
 彼の目が驚きに見開かれる。
「会いに行ってやれ。お前のことを探してる。必死で」
 彼は辛そうに下を向き、それはできないと首を振る。
「もうお前は十分頑張ったじゃないか。もういい加減に……」
 顔をそむけた先に小さなテレビがあった。開店までの暇つぶしにつけている小さな液晶テレビだ。
 その小さな画面にもみ合う男たちが映っていた。背後のビルに見覚えがある。
 マスターが急いでボリュームを上げた。
『たった今、永邦物産に地検の強制捜査が入りました。容疑は贈賄容疑とのことですが、まだ詳しくはわかっておりません。永邦物産の入っているビルの前は非常にあわただしく混乱をしております』
 アナウンサーの興奮した声が響き渡る。
「おい……やばいぜ」
 目元をぴくぴく痙攣させて、彼はその画面をきつく睨みつけていた。




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