×××2007年 葉月×××

 高垣夢我……。
 真っ白の紙の中央に名前だけを書き出してみる。
 それが彼の顔とは結びつかない。
 端のほうに佐藤太郎と書いてみた。
 途端に思い出すのは、日に焼けた精悍な顔。優しくて、頼りがいがあり、笑顔がどこか寂しそうな、彼の顔。
 西脇に古い記事を見せてもらい、自分でも調べてみた。図書館や新聞社にも問い合わせてみたが、あれ以上のことはわからなかった。
 彼の家が火事になった原因も、記事では原因不明というだけで、失火と放火の両面から調べられたが、結局はわからなかったようだ。
 それ以上個人で調べるには限界だった。行き詰ってしまった竜之介は、こうして白い紙に彼の名前を二つ、書いて並べて、どちらが彼なのだと自己に問うことしかできなくなっていた。
 途方に暮れて、竜之介は記事にあった住所を訪ねてみた。
 そこに行っても彼がいないのはわかっていたが、今の彼を見つけられないのならば、昔の彼を追うことしかできないと思ったのだ。
 紙に書いた住所を頼りに辿り着けば、そこは小さなファッションビルになっていた。
 周囲も似たようなビルが並んでいる。外壁や外観が奇抜で、お洒落な造りを気取ってはいるが、派手なだけで洗練されていないアンバランスな建物。
 いかにも成金趣味のあの男が好きそうな物ばかりだ。
 竜之介は顔を顰めて、ビルから奥の通りへと歩いていった。
 道を一本奥へ入るだけで、町の様子はがらりと変わる。表通りの賑やかさが嘘のように、そこは寂れた感じがした。
 ここに彼が昔住んでいた。
 そう思うだけで郷愁を感じる。
「あの……すみません」
 一軒の家で、塀に沿うように並べていた植木鉢に水をやっている初老の女性がいて、竜之介は思い切って声をかけた。
「なんでしょう?」
 胡散臭そうに見られるのは覚悟していた。竜之介はごくりと唾を飲んで、一生懸命に話しかけた。
「この辺に……高垣さんというおうちがあったと思うんです。あの……男の子が一人いる」
「高垣さん……? あ、ああー、表通りの」
 女性は遠くを見るようにして考え、思い出してくれたようだった。
「確か坊ちゃんの名前が、少し変わっているのよね」
「夢我君」
「そうそう、夢我君だわ。あなたは?夢我君の友達?」
 竜之介は勢いよく頷く。
「そうです。えっと……、もうお家が無いようなんですけど……」
「そうなのよ、高垣さんのお宅、もう10年位前になるかしらねぇ、火を出してしまってねぇ。ちょうど隣近所も色々と問題があったみたいで、すぐに売りに出されてしまってねぇ。今じゃあんな変なビルばかり建っちゃって……」
「それで……夢我君は……」
 聞きたいことを聞き出すためには相手の無駄話にも付き合わなければならないのだろうが、竜之介の気持ちは急いていた。
「そうそう、ご両親が火事で亡くなってしまってねぇ。夢我君が助け出されたんだけど、その後は親戚に引き取られたっていうんで安心してたんだけれど、そこではうまくいかなくて、施設に入ったって聞いたわよ。あの子ももう二十歳くらいになるんじゃないかしら」
 懐かしむように、傷ましい顔つきで話す以前のご近所さんに礼を言って、竜之介は引き返した。
 両親はいないと言っていた。施設で暮らしていたと、竜之介の昔語りに同じだと呟いていた。
 他にも何人かに聞いてみたが、今の話と同じ程度のことしか聞きだせなかった。
 彼の親戚や施設について、どこにあるのか知りたかったのだが、そこまで詳しく知っている人に行き当たらず、竜之介は疲れきった足を引きずって家に戻るしかなかった。
「竜之介さん、あの人に一度、会ってみられてはどうですか?」
「あの人……って?」
 暗い顔で戻った竜之介に、西脇が気の毒そうにお帰りと声をかけて、一つの提案をしてくれた。
「お父上の事故の時に、事件ではないかと調べてくれた、あの刑事さんです。山田さん」
「あ、あぁ……」
 黒縁メガネの奥の鋭い視線を思い出す。泣くことしかできなかった竜之介に、容赦なく質問をしてきた男。
「これが山田刑事の自宅の住所です」
 今年の正月に届いた年賀状。文字だけの簡潔な年賀状には、個人の住所と名前が書かれている。
「当時、かなり真剣に取り調べてくださったんですが、事故ということになってしまって……」
 西脇はあの頃、久慈の家を離れていた。だから協力できることはなかった。こうして竜之介を引き取り、育てることしか。
 年賀状にあった番号へ電話をかけると、不機嫌そうな掠れた声が応答した。
『山田です。もしもし?』
「あの……、僕は久慈竜之介と言います。あの……昔に父の……」
『あぁ、あの久慈の坊ちゃんか。泣いてばかりいた』
「はい……いえ、すみません」
 竜之介が謝ると、電話の向こうで苦笑する気配があった。
『今頃どうしたんだ? 何か警察に厄介になるようなことでもしたのか? 久慈家のぼんぼんが』
 乱暴な口調の中に竜之介を気遣う声色が混じる。
「刑事さんにお聞きしたいことがあって……それでお忙しいとは思ったのですけれど……」
 しどろもどろに説明しようと頑張っていると、向こうのほうから肩が凝るから用件だけを言えと叱られた。
「あ……あの……高垣夢我さんのことを知っていらしたら、教えて欲しいんです!」
 怒鳴るようにして頼むと、切れてしまったのかと思うほど、不自然な間が空いた。
「あの……もしもし? 山田刑事さん?」
 竜之介が呼びかけると、地を這うような唸り声が返ってきた。
『坊ちゃんよ、どこであいつと出会ったっていうんだ?』
 怒りを静めようと努力しているのがありありな声に、竜之介は口が固まってしまったかのように緊張していた。




 ×××2007年 秋風×××

 彼のことを尋ねようとした電話で、刑事の山田はひどく不機嫌な声を出した。
 しどろもどろで説明しようとした竜之介の話がわかりにくかったのか、それとも少しでも情報が欲しいと感じたのか、山田は直接竜之介と会うことを承諾してくれた。
 どうしても手が離せない事件があったとのことで、竜之介が山田と顔を合わせたのは、まだ夏の名残の日差しが厳しい九月の頭だった。
「で、坊ちゃんはどこであいつと出会っちまったんだ?」
 竜之介がまだ幼かった頃のイメージが強いのか、刑事は坊ちゃんと呼んでくる。あの頃、三十前半で刑事としてはまだ青臭さを残していた山田は、十年近い年を過ごして、目つきは鋭く、冷たいような凄みを増して、目の前に座っただけで空気を圧縮するような刑事になっていた。
 今も黒縁のメガネをかけている。
 竜之介は電話でしたような説明を、今度は叱られないようにと、箇条書きにしてきたメモを見ながら繰り返した。
 途中でじれったくなったのか、山田がメモ用紙を取り上げて、疑問に思った点を突いてくる。
 まるで尋問のようだと感じながら、竜之介は刑事の覇気に恐ろしさに耐えて、なんとか説明を終えた。まるで言い訳をしているような気さえしたが。
「で、坊ちゃんは、奴が、あの男を、殺すんじゃないかと、心配で、探して、止めようというわけか」
 妙に一語一語区切って言われ、竜之介は自分があまりにも見当違いなことを言ったのではと不安になった。
「……はい」
 山田は短めに切った髪をがりがりと掻き、派手な溜め息をついた。
「太郎さんの行きそうな場所をご存知じゃないですか?」
「太郎っていうのは、あいつがそう名乗ってたのか……」
「あ、はい。他の名前は……違う人のような気がして」
 山田は苦い顔をしたまま俯いて、しばらく考え込んでいた。
「坊ちゃんは、あいつにひどく恨まれているとしても、それでも、止めたいのか?」
「……はい」
「自分で思うより強く、恨まれてるかもしれねーぞ?」
「それは……僕が太郎さんの邪魔をしたからでしょうか?」
 山田はうーんと唸って、また溜め息をついた。
「あいつの誕生日を知ってるか?」
「いいえ、知りません」
「だろうな。あいつの誕生日はな、12月25日なんだ。そして去年のその日が、奴のハタチの誕生日だった。坊ちゃんは、奴の名前が新聞に載らないぎりぎりの日の、その日の反抗を阻止してしまったんだ」
「あ…………あの日……」
 彼とぶつかった日。ケーキを踏まれ、オロオロしていた自分。彼はどこかを見つめ、悔しそうに顔を歪めていた。
「それだけじゃない。奴はあんたを利用するために近づいたと思う。あの男の身辺を見張るために」
「……それはわかってます」
 竜之介は悲しそうに呟いた。
「それでも、会いたいか?」
「…………はい」
「会って、どうする?」
「…………復讐を止めて欲しいです」
 それ以外にはない。復讐など、何になるというのだろう。
 あの男を憎い気持ちはわかる。殺したいほど憎いのにも同意できる。
 けれど復習などしても、救われる気持ちなどないはずだ。
 自分を更に不幸にするだけだ。
「それでどれだけ憎まれてもいいです。復讐を止めて欲しいです。太郎さんには太郎さんの人生があるんだと知ってほしいです。あの男が生きていてもいなくても、太郎さんの幸せは別のところにあるはずです。あの男を殺せば、太郎さんは一生、あの男の怨念に取り付かれたままだ。あの男を憎むのは、あの男に自分の人生を何度も殺されていることになるんだ」
 話しているうちに涙がこぼれてきた。
 憎い。悔しい。殺したい。
 何度も感じた負の感情が突き上げてくる。
 それでも必死でそれを飲み込んだ。
 その感情を殺すことが、あの男を殺すことだった。
「坊ちゃんはあの頃の何もできない弱々しいぼんぼんとは違うってわけだ」
 山田は静かな声で言って、小さなマッチ箱を差し出してきた。
 黒い箱に灰色の文字でカウベルと書かれている。
「高垣が現れるとしたら、そのバーしかないだろう」
「あ、ありがとうございます」
「俺個人としては、坊ちゃんがあいつを止めてくれることを願うね。あいつは……可哀想な奴だった。あいつの泣き叫ぶ目を見たから、俺はあの男を捕まえてやろうと決めた。案外、坊ちゃんと俺の目的は……同じかもしれないね」
 苦々しそうに笑って、山田は立ち去っていった。
 残されたマッチ箱を握り締めて、竜之介は山田の背中に深々とお辞儀をした。




 ×××2007年 長月×××

 カウベルと書かれたプレートを確かめてから、竜之介はドアを押し開けた。
 カランカランと派手な音が頭上で響いて、思わず首をすくめてしまう。ドアの上部に大きなカウベルがついていた。
「まだ開店時間じゃないんですよ、すみませんね。それに未成年はお断りしてます」
 カウンターでグラスを拭いている男が、店の中に入ってきた竜之介の姿を見て、丁寧ながらもきっぱりと断ってくる。
「あ……あの、すみません、客じゃないんです、僕……あの…」
「客じゃない奴はもっとお断りだよ」
 取り付くしまもなく、帰れとばかりに言われる。
「あの……教えていただきたいことがありまして……」
 本当は男の言うように、今すぐにも帰りたいのだが、ここしかもう頼れるところはないのだ。
 震えそうになる足をぐっと踏ん張って、竜之介はカウンターに近づいていった。
「ガキの来るところじゃないんですよ。商売の邪魔になる。さっさと帰ってくれ」
 手を追い払うように振って、帰れと促されるが、竜之介は必死だった。
「ここに来れば、たろ……高垣夢我さんのことを教えてもらえるんじゃないかと思って……それで、僕……」
 ガタンと拭いていたグラスをカウンターに置いて、男は竜之介を睨んできた。
「お前は……誰だ? どうしてここがわかった?」
 とりあえず、すぐに追い返される事態だけは避けられそうだということ、彼のことを知っているようだとわかり、ほっとする。
「僕は久慈竜之介と言います。この店のことは、刑事の山田さんに教えてもらいました」
 竜之介は貰っていた名刺とマッチ箱を差し出した。
「あの刑事か。ったく、無能なくせに面倒ごとは持ち込むんだな」
 自分が怒られているような気分になって、竜之介は落ち着かない気持ちになる。
「夢我がどこにいるのか……、こっちが聞きたいくらいだぜ。春に顔を出したのが最後だ」
 本当に知らないのか、匿っているのかは、竜之介には判断がつきかねた。
「他にあの人が行くような場所とか……ご存知じゃありませんか?」
「知らないな。あんたはあいつとどういう知り合いなんだ?」
 あっさりと知らないと言われ、竜之介は一気に疲れを感じた。
 まるで真夏のような残暑の厳しい太陽の下、見知らぬ場所で店名を一つ一つ確かめて歩いてきたので、身体が重い。
「太郎さんは僕がお世話になっているお店の近くで働いておられて……それで……」
 どういう知り合いなのかと聞かれて、竜之介は説明する言葉を持たないのに気がついた。
 友人ではない、年も違う、話した期間もごく短い。
「太郎さん……って、それはあいつの偽名か?」
「あ……」
 ついいつもの呼び方になってしまった。男に不信を感じられても仕方ないだろう。
「ここまで来たっていう事は、あいつが何をしようとしているのか、知っているんだろう? 山田にまで会っているんじゃ、隠しようもないじゃねーか」
「はい……すみません」
「それで? あいつを探してどうするつもりだ?」
「それは……太郎さんを引き止めたくて……」
 竜之介が打ち明けると、男は黙ったまま真剣な眼差しを向けてくる。
 視線をオドオドと泳がしたくなるほど、長い沈黙が訪れる。
「あの……?」
 どうすればいいのかわからなくなって、竜之介は上目遣いで男を見た。
「引き止めるねぇ……簡単に言いやがるぜ」
 くっと笑われて悲しくなった。
「簡単なんかじゃありません。……憎しみを忘れる苦しさは……わかるつもりです」
 男は眉をひょいと上げた。
「僕の両親も……事故死しました。調べてくれたのは、山田刑事さんだけでした」
 男の顔が暗く歪んだ。
「夢我はそのこと、知ってるのか?」
 竜之介は首を横に振った。
 長い溜め息が聞こえた。
「あいつは本当に春以来、ここに来ていない。もう来ないと思う」
 今度は真摯な響きのある答えだった。
「……そうですか。ありがとうございました。お仕事のお邪魔をして申し訳ありませんでした」
 丁寧に腰を折って御礼をして、竜之介は出口へと向かう。
 ガラランとカウベルの音がした時、背後から呼び止められた。
「あいつが来たら、あんたのところへ行くように必ず言う。だからあんたもあいつを見かけたら、ここに来るように言ってくれないか?」
 竜之介は泣き出しそうになって、それでも頑張って笑った。
「絶対に言います」
 あなたが思い止まってくれることを真剣に願う人がいる。
 だからお願い。戻ってきて欲しい。




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