×××2007年 梅雨明け×××

 佐藤太郎。その名前が偽名であるだろう事は、世間に疎い竜之介にだってわかっていた。
 けれど彼がその名前を告げ、その名前に答えてくれる限り、竜之介にとって彼は佐藤太郎で間違いなかった。
 何か事情があることはわかっていたが、極力考えないようにしていた。
 竜之介の毎日は、一日を生活することに精一杯だった。
 他のことを割り込ませる余裕などなかったが、彼のことだけは別だった。
 何事にも鈍感で不器用な竜之介は、幼い頃から仲間外れにされてきたし、それがいじめにもつながっていた。両親と死に別れてからは、その境遇のせいで心を閉ざすようにして生きていた。
 西脇夫婦に見つけ出され、世の中に戻ってきてからも、生活しているテリトリーからは出ないようにして生きてきた。
 もっとちゃんと働いて、たくさんお金を貯めて、両親が手放した家を取り戻したいと思うけれど、実現には程遠かった。何しろ、毎日を普通に生きていくことで精一杯だったから。それほど日常は竜之介にとっては負担であった。
 そんな中で彼に出会った。佐藤太郎。暗い目をした、重いものを背負っている人。
 だから他人のような気がしなかったのかもしれない。
 彼は竜之介を邪険に扱わなかった。一人の人間として、年下に対する優しさをもって、普通に接してくれた。
 彼と親しくなれる事が嬉しかった。
 どこまでが迷惑で、どこまでなら許されるのか、親しい友人を持たない龍之介には判断しにくかった。
 彼が許してくれることを探りながら、彼に近づこうとした。
 彼もまた、竜之介の近くに来ようとしてくれていたように思っていた。
 それで甘えすぎてしまったのだ。
 一瞬にして彼の瞳が竜之介を拒絶するのがわかった。
 竜之介は拒絶されることには敏感なほどわかってしまうのだ。
 そんなときはどうすることも出来ない。ただ自分からも離れるのが最善の方法だと知っていた。これまでもそうしてきた。
 けれど彼から離れる事は嫌だった。どうしても許して欲しいと必死になっていた。
 実際には許してもらうどころか、彼は綺麗さっぱり竜之介の前から姿を消した。
 そうなってから、彼が何も持っていないことをまざまざと思い知らされた。
 気軽そうに見えた佐藤太郎という男は、真実、身軽だったのだ。
 重い何かを背負いながら、身一つで消えることが出来る人だったのだ。
 そうすれば名前一つでさえも軽かった。そのための名前だとようやくわかった。
 これから彼を探すにしても、佐藤太郎では絶対に見つけられないだろう。
 彼の職場で知り合った人たちが、竜之介に同情してくれて、彼を探す手伝いもすると言ってくれたが、見つかるとは思っていなかった。
 かといって、竜之介にはどこをどうやって探していいのかもわからなかった。
 だから一人の男が彼をパチンコ屋で見かけたと教えてくれた時は、本当に嬉しくて駆けつけた。
 しかし、彼はもうそこにはいなかった。
「突然辞められちまってよー、ほんと、迷惑したんだぜ」
 髪を金色に染めた、竜之介とたいして年の代わらない男が、何かおかしいのかニヤニヤ笑いながら答えてくれた。
 それ以上は聞き出す事もなく、向こうも全くわからないようで、礼を言って引き返すしかなかった。
 彼はどこにいるのだろう。
 ぽつんと一人で店番をしながら、竜之介は通りを眺めた。
 梅雨に入って大雨の日が続いたと思ったら、今度は梅雨が明けたかと疑うばかりの晴天で、湿気の多い暑さは、通りを歩く人の不快指数をあげていた。
 誰もがうんざりとした表情で通り過ぎていく。
 店にはアイスクリームも売っているが、梅雨の間はあまり売れない。
 ぼんやりと店番をしている竜之介の前を一人の女性が通り過ぎていく。
 いつも土曜日にケーキを買いに来る女だ。綺麗だけれど化粧が濃い。そのせいかとてもきつそうに見えるので、お得意さんだけれど竜之介は苦手だった。
 ……そういえば、彼があの人のことを聞いたことがあった?
 いつも来るのか?とか。
 そして彼が泊まりに来るのも月末の土曜日だった。
 竜之介は思わず通りに飛び出していた。そして辺りをキョロキョロと見回す。
「いるはず……ないよね」
 あの女性が彼のことを知るはずがない。接点はなかったはずだ。
 ならば何故彼は彼女のことを気にしたのだろうか。
 近づくためなら、月末の土曜日にこだわる必要はなかったはず。
 あの女性の秘密を知れば、彼に近づくことが出来るのかも……。
 竜之介はごくりと唾を飲み込んだ。




 ×××2007年 文月×××

 月末の土曜日。
 竜之介はそわそわしながらあの女性が来るのを待っていた。
 彼女がケーキを買えば、彼が近くにいるような気さえしていた。
 夕方の店が一番混む時間を過ぎた頃、自動ドアが開いたのに顔を上げると、彼女が中に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 思わず声が震えてしまう。けれど彼女は特に気にもせずに、ショーケースの中を覗き込んでいる。
「ブリュレと……こっちのゼリーを二つずつちょうだい」
「はい」
 トレーにいわれたケーキを取り出して乗せる。
「こちらでよろしいですか?」
 乗せたケーキを見せて確認する。彼女が頷いたので、今度はそれを箱に入れて包装する。
 料金を貰って、おつりを渡す。
「いつもありがとうございます。…………あのっ」
 竜之介はお金を受け取ってさっさと帰ろうとする彼女に思い切って声をかけた。
「あの……」
「何?」
 少し苛立ったような彼女に、竜之介は息を呑む。きつい目で睨まれると、舌が張り付いたようで動きにくい。
「あの、佐藤太郎さんという人をご存知じゃないですか?」
「はぁ? 何、それ」
 あきらかに怒った声で聞き返されて、竜之介は首をすくめる。
「気持ちの悪い子ねっ」
 ほとんど怒鳴りつけるように言って、彼女は店を出て行った。もうきてくれないかもしれない。
「竜之介さん……」
 西脇の妻が店の奥から出てきて、心配そうに声をかけた。
「ごめんなさい、僕……」
「いいのよ、あのお客様のことは。それよりね、もう諦めたほうがいいんじゃないのかしら。突然、何も言わずにいなくなった人のことなんか」
「……ですよね」
 竜之介は力なく笑って、頭を下げた。休憩を薦められて、店の裏口から通りへと出た。部屋にいるより、外の空気を吸いたかったのだ。
 店を出るとちょうど彼女が通りの向こうを歩いているのが見えた。
「あの人……あのマンションだったんだ」
 マンションの中に入って行くのを見届けると、竜之介は裏口の敷石に座り込んだ。
 真上が自分の部屋だったことを思い出す。そして彼が窓から外をよく眺めていたことを。
「あの人なら、太郎さんの本当の名前、知ってるのかも……」
 彼と係わり合いのある人なのだろうか。
 彼の本名なら知っていると答えてくれたのかも。
 彼のいる場所も教えてくれたのかも。
 そんなわけがないのにと思いながら、どうしても彼のことを考えてしまう。
 もうそろそろ戻ろうかと腰を上げた時、彼女がまたマンションから出てくるのが見えた。竜之介はとっさに物陰に隠れてしまった。彼女を見張っていたと思われたりしたら、また睨まれてしまうと恐れたからだ。
 彼女はそんなことは考えもしなかったらしく、カツカツと小気味のいい音を響かせながら、道路を商店街の方へ曲がっていった。
 竜之介はエプロンと帽子を外し、ドアの脇に置き去りにすると、彼女の後ろを追い始めた。


 商店街を中央まで行くと、駅がある。そこで彼女はタクシー乗り場に向かった。
 彼女がタクシーに乗ったらもう追いかけられない。それで帰ろうと、竜之介はバス停の影で彼女がタクシーに乗るのを待っていた。
 けれど彼女はタクシーに乗るのではなく、少し離れた場所で人待ち顔で立っていた。
 その前に一台のタクシーがやってくる。
 待ち合わせだったのかと思っていると、タクシーから一人の男が降りてきた。
 彼女よりはずいぶん年上に見えた。けれど親子ではないだろうと思った。
 彼女が身体をこすりつける様に男の腕に腕を絡め、そのまま歩いていくからだ。
 男も普通のサラリーマンには見えなかった。恰幅のいい身体に、派手目のスーツを着ている。肩で風を切って歩くような姿と、猛禽類を思わせるような鋭い目つきは、離れていても背筋を震わせる。
 どうやらまた彼女のマンションに行くらしい。このままだと自分の前を通ることになる、と竜之介は慌てた。こんなところで見張るように立っているのを見たら、彼女はどうするだろう。それをあの男に言ったとしたら。
 竜之介は慌てて隠れる場所を探した。けれど慌てるあまりに、どうしていいのかわからない。
 軽くパニックになっていると、ぐいっと腕を引かれた。
 駅前のビルとビルの隙間に引っ張り込まれて、口を手で塞がれた。
「静かにして」
 聞き慣れた声に、それが誰だかわかり、ほっとする。
 白衣の向こうを男が歩いていく。その横顔を見て、竜之介ははっと息を呑んだ。
 遠目にはわからなかったが、男の左目の横に薄くなった傷跡が見えた。特徴のある三日月形のギザギザに引きつった傷跡。
 何もかも忘れても、あの傷だけは忘れられない。
 叫びそうになった時、また口を強く塞がれたので、叫ばずに済んだ。
 男の姿が完全に見えなくなっても、西脇はしばらくの間、竜之介を離さなかった。
 口を塞いだ手に竜之介の涙が伝うようになって、ようやく西脇は手を離した。
「あいつだった……」
 竜之介の言葉に、西脇は無言のまま頷く。
「あいつだった……」
 呆けたように同じ言葉を繰り返す。
「竜之介さん……堪えて下さい」
 絞り出すような西脇の声に、竜之介は唇を噛み締めた。
「知っていたんですね……西脇さん」
 涙がこぼれる。
「何度……何度、あのケーキに毒を入れようと思ったか、わかりません」
 身体が震える。
 あの女……と彼女の顔を思い浮かべた時、彼の顔が重なった。
 あぁ、彼を止めなければ。
 それはきっと、自分にしかできない。
 竜之介は涙を止め、強く拳を握った。




 ×××2007年 猛暑×××

 完全に姿を消してしまった人を探す。
 しかもたぶん偽名しかわからない、写真もない人を。
 それは不可能なことだと思われた。
 途方に暮れるというのはこういうことだろう。
 竜之介はあの日から店を休ませてもらった。朝早くから出かけ、近隣の建築現場、 パチンコ店などを歩き回った。
 外は真夏の太陽が容赦なく肌を焦がす。ひりつくほど痛くなっても、竜之介は歩き 続けた。
 虱潰しに歩いても、手がかりさえつかめなかった。
 いったい彼は何処に行ったのだろう。
 夜になると竜之介は部屋の窓を開け、マンションを見つめた。マンションだけでは なく、周辺の道路にも人影がないかと目を走らせる。
 彼がここにいたという事実が竜之介を苦しめた。
 彼は自分を利用するために近づいたのだろうか。考えるまでもなく答えはわかって いた。
 そして自分はその邪魔をしてしまったのだろうことも。
 彼がここにいた目的は一つしかないと思えた。あの男への復讐だ。
 どのように復讐しようとしていたのかわからない。けれど最悪の結果しか思い浮か ばないのだ。
 だから彼を止めたい。なんとしても止めたい。
 彼に復讐などさせたくない。
 彼の手を犯罪に染めたくないのだ。
 何故そこまで……。会いたいと思う気持ち、止めたいと思う気持ちが綯い交ぜになっ てしまい、本当の気持ちが見えにくくなってしまう。
 いや、違う。竜之介は自分の心に気がついていた。
 その気持ちに名前をつけられないだけだった。
 初めての恋心。彼のことを考えると胸がきゅっと熱くなるような痛みを訴える。
 溜め息をつけば、それは熱帯夜に負けないほど熱かった。

「竜之介さん、闇雲に探しても見つからないでしょう」
 連日の外出で少し痩せて、白かった肌が嘘のように焼けてしまっている。鼻の頭は 薄く皮が向けていて痛々しい。
 西脇に指摘されて、竜之介は項垂れた。
 そうは思っていても、他にどうすればいいのかわからないのだ。
 最近では毎日舐めるように新聞を読んでいる。あの男が関わるような事件が起きて しまっていないかと。
 記事が見つけられずにほっとしてから、家を飛び出すという生活を送っている竜之 介を見かねて、西脇が声をかけてきた。
「本当は……、竜之介さんには見せたくなかったんですが……」
 西脇は本当に気が進まないという調子で大き目の分厚い封筒を出してきた。
「これは?」
 封筒を受け取ると、それはずっしりとした重さがあった。
「昔、被害者同盟のようなものを作ろうとしたことがあるのです。その時に集めた資 料です」
 書類を取り出してみると、新聞記事のスクラップや手書きのメモ、調査書類などが ぎっしりと詰まっていた。
「作らなかったんですか?」
 これだけのものを集めておきながら。竜之介は不思議そうに尋ねた。
「作れませんでした」
「どうして?」
「ほとんどの被害者が死亡、もしくは失踪していたからです」
 淡々と説明されるが、その事実に愕然とする。
 西脇の説明が嘘でないことは、竜之介にもわかった。竜之介も両親を亡くしている。
「どれもが事故、もしくは自殺と処理されていますけどね」
 竜之介の両親は事故だった。二人で出かけて、帰ってこなかった。一時は心中だと も噂され、竜之介も辛い思いをした。
「ですが、こんなにたくさん、あの男の周りで事故があるのはどう見ても不自然だ」
 それも死亡事故ばかり。西脇の説明に竜之介は無言で頷いた。
「それで佐藤君のことですけれど、私はこの子じゃないかと思うのです」
 西脇は調理用の白衣のポケットから一枚の切抜きを差し出した。それだけは別にし ていたらしい。
 新聞記事の切り抜きは、年代を感じさせるように黄ばんでいる。
 それは今から12年前の夏の日付だった。『民家全焼 二名死亡』という見出しが 痛ましい。
 民家から夜間に出火、家の主とその妻が焼死したという小さな記事だった。失火と 自殺の両面から捜査をしていると記事は締めくくられている。
 気になるのは、この家の8才になる一人息子が重症ながら助け出されたというとこ ろだ。
「この助け出された男の子が太郎さんなんですか?」
「多分」
 消失した民家の主の名前は高垣有造。一緒になくなった妻は梢。そして息子の名前 は……夢我。
「高垣夢我……これが太郎さんの本名なんですか?」
 西脇は神妙に頷いたが、竜之介はそんな名前を知らされても、別人だとしか思えな かった。





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