×××2007年 皐月×××
まだ五月だというのに夏のような暑い日差しが降り注ぎ、汗ばんだ背中を焼くよう
に照りつける。
額には汗が玉のように吹きだし、流れ落ちて目に入って視界が曇るのは大変に危険
なことなので、タオルをきつめに巻きつける。
現場にいる誰の顔にもうんざりした表情が浮かんでいる。
事故が起こるのはこんな時だ、弛むなと、現場監督がしつこくしつこく檄を飛ばし
ている。
おかげで何とかだらけそうになる気持ちを手元へと集中できるようになるのだ。
「夏の現場は辛いよなぁ」
本気の夏はこんなものじゃないぞと正統派の野次を飛ばすものもいれば、冬の現場
は辛いといったのもお前だったと笑いに変える切り返しで気持ちを切り返すつわもの
もいる。
彼自身は夏の暑さには強いほうだった。炎の暑さに比べれば……。
そして本当に辛いのは、耐え切れないほどの寒さだ。どんなに辛くても、暑さは工
夫によって凌げるが、どうしようもない寒さを経験してしまうと、そのまま凍ったほ
うが楽だとすら思えるものだ。
昼休みの休憩になると汗で湿った額のタオルを外し、ぎゅっと絞るとぽたぽたと水
滴が落ちる。
下まで降りて水道でタオルを濯ぎ、ツナギの上を脱いで身体を拭くと、汗が引いて
いって気持ちいい。
「佐藤、また来てるぞ」
声をかけられて振り向くと、現場の入り口に竜之介が立っていた。
店もお昼時は暇になるらしく、竜之介は西脇夫人に頼んで弁当を作ってもらい、自
分も少し長めの昼休みを取ることにしてしまっていた。
「いいな、弁当。あのくらい可愛けりゃ、男でもオッケーだよなー」
最初はからかい気味だった現場の男達も、毎日のように弁当持参で通いつめる竜之
介を見ているうちに、すっかり二人がそういう関係であると受け入れ、温かく見守る
という空気にまで達している。
「健気なのがいいよな」
「そうそう」
中には竜之介を応援する者までいる始末だ。
彼はそれらに肯定も否定もせず、竜之介と一緒に近くの公園へと移動する。
今月の末までだ。末の土曜日に決着をつける。
竜之介は利用されたと怒るだろうか。怒るに決まっている。
それでもいいと最初は思っていたはずだ。その時に自分の愚かさを嘆けばいいとま
で思っていたはずだ。
なのに、今はその考えに戸惑いを感じてしまう。
その戸惑いが怖かった。
だから今月の末こそ。
「明日の土曜日、泊まりに行ってもいいか?」
「はい!」
彼の頼みに竜之介は喜んで返事をする。
ちくりと感じる後ろめたさを押し殺し、彼は淡々と食事を終え、後は寝たフリをす
る。
木陰で横になると、汗も引いて心地好くなり、本当に寝てしまう時もあった。
そんな弛んだ自分の気持ちに、彼は思い出せと念じる。
あの熱さ、あの痛み、あの苦しみ。
目蓋の裏に映る木漏れ日が炎の揺らぎに切り替わっていく。
……父さん……母さん……姉さん……。
逃げろと父親の手が彼を追い払おうと動く。
……嫌だ……一緒に……
伸ばした手は届かない。
……嫌だ……嫌だ……イヤダー!!
「太郎さん、太郎さん」
揺り動かされてはっと目が覚めた。
「太郎さん、大丈夫ですか? うなされてました」
心配そうな竜之介に覗き込まれて、彼はタオルで顔をゴシゴシと擦る。
「……何か言ってたか、俺」
変なことを口走らなかっただろうか。
「いいえ、何も。ただうなされていました。いやな夢でしたか?」
「覚えてない」
彼は不機嫌を装い、起き上がった。
「もう行くわ」
「はい。じゃあ、明日。待ってますね」
感じた胸の痛みは無視をして、ニコニコと笑って手を振ってくれる竜之介に背を向
けた。
翌日。
女が夕方にケーキを買いに来たのを確かめて、夜を待った。
歓迎してくれる三人に不機嫌な態度で接し、疲れているんだとばかりに早々に床に
就いた。
酷い男と思われてよかった。むしろ嫌な奴だったと思って欲しい。
夜中に二階の窓から抜け出し、男がやってくるのを店の影で待つつもりだった。
だから布団に入っても眠るつもりはなかった。ずっとイライラと浅い眠りの日は続
いていたが、それ以上に気持ちは張り詰めていて、寝ないで抜け出す自信すらあった。
けれど布団に入った途端、どうしても目蓋が重くなってしまい、腿を抓ったり唇を
噛んだりしても、意識が飛びそうになる。
これでは駄目だ、顔でも洗おうと起き上がろうとするのだが、腕に力が入らなかっ
た。
そしてはっと気がつくと、既に陽は高く、昼も近い時間になっていた。
布団の上に座り込み、目頭を揉んでいると竜之介が上がってきた。布団の脇に座る
とふわりと甘い匂いがした。
「お前……俺に何か飲ませたか?」
起き抜けに感じるこの気分の悪さ。一時期飲んでいた薬の副作用に近いものを感じ
た。
「あの……ごめんなさい。太郎さん、最近昼寝が多いし、よくうなされているので眠
れないのかなって思ってて……それで、西脇さんがたまに飲んでいるっていう催眠導
入剤を……」
終わりだ……。絶望が彼を押し潰した。
「ごめんなさい」
しゅんとして頭を下げる竜之介に、彼は明るい声をかけた。
「いいさ。ありがとう。夢も見ないほどよく眠れた」
上目がちに覗き込んでくる竜之介は、仲間が言うように、確かに健気で一途で可愛
い。
けれどもう駄目なんだ。
彼はそのまま現場に戻り、荷物をまとめ、驚き引き止める監督達に頭を下げて、仕
事を辞めた。
竜之介の前から姿を消すために。
×××2007年 曇空×××
「え……辞めた?」
いつもと同じようにお弁当を持って現場を訪れた竜之介に、彼の元仕事仲間たちは
気の毒そうに、彼はもういないと教えた。
「今朝来たら、もう辞めていたんだよ。俺らもびっくりで……」
顔を見合わせて、どうしたものかと首を傾げる。
「佐藤さんはどこに……」
「君も聞いていないの?」
彼らのほうも、竜之介が知らないことを驚いているようだった。
「はい……」
困って頭を掻く男達は、一人が監督に聞いてきてあげるよと走っていく。
「喧嘩でもしたか?」
慰めるように肩を叩かれて、竜之介は首を横に振った。
彼は朝、笑ってくれたのに。ありがとうとさえ言ってくれたのに。
それを信じたのが間違いだった。
「ダメだな。監督も知らねーってよ。あいつ、元々誰とも喋らなかったしな」
「……そうですか……」
がっくり俯く竜之介に、男達は慌てて声をかける。
「あのさ、俺たちって、建築現場を移っていくもんなんだよ。やっぱり、短期で稼げ
るしさ。あいつもまた建築現場に言ってるんじゃないかなと、俺は推察するわけよ。
あちこちの現場には、前に一緒に働いたことがある奴とかも多いし、だからさ、何が
言いたいかって言うと、昔の仲間に佐藤のことしらないか、聞いといてやるよ」
「本当ですか?!」
竜之介は嬉しそうに顔を上げた。
「あ、あぁ。任しといて」
ドンと男達は胸を叩いた。
仕事現場を変わった。
あいつが唯一油断する愛人が住んでいるマンションの近くで、こんな現場には珍し
く人間関係も良好な場所だったのに。
次の仕事をゆっくり探している余裕などなかった。どこでもいいからと飛び込んだ
のは、あいつの事務所に近いパチンコ店だった。
住み込みで働けるのはありがたいが、狭く臭い部屋で寝起きするのも、労働基準法
を無視したような長時間労働もきつかった。
けれど「臥薪嘗胆」という言葉がある。
自分はいつしか甘い気持ちになっていたのだと、彼は己を責めたてた。自己批判す
るには彼に適した場所でもあった。
勤務時間は長いが、朝がゆっくりできるのはありがたかった。
相部屋の同僚はギリギリまで寝ているので、彼が朝早くに出かけても気づかない。
彼は以前に知りえた情報を元に、あいつが出社時間を変えていないことを確かめた。
しかし、奴に油断はない。奴が最も警戒しているのが、事務所への出入りなのだ。
それがわかったから、愛人の元へ通うのを知った時は喜んだのだ。
だが仕方ない。
今のこの状況はすべて自分の責任なのだ。
そう考えると、決まって竜之介のことを思い出す。
無垢な笑顔。自分に向ける疑いのない眼差し。真っ白な心。
自分が手放さざるを得なかったものを、同じような境遇の中で、持ち続けていた少
年。
竜之介が眩しかった。
利用するだけのつもりだったのに、慕われるとそのような自分でありたいと、迂闊
にも思ってしまった。
今もあの時の自分が失敗だったとは思いたくなかった。
もうすぐ終わらせる人生の中で、一瞬だけきらめいた輝きを、大事に仕舞い込んで
持っていくのも悪くないだろう。
「仕事、変わったのか?」
カウベルのマスターは彼の前に今夜もまたピンク色のカクテルを差し出した。
二週間に一度の店の定休日に、彼はカウベルのドアを潜った。
平日の夜に訪れた彼に、マスターは不思議そうに尋ねてきた。
「これ、なんていうカクテル?」
マスターの質問には答えずに、反対に質問をする。
「お前がバカなことをやめたなら、教えてやるよ」
彼はおかしそうに笑った。
「なんだよ、それ。だったら、ずっと教えてもらえねーままじゃん」
「そうかな? 俺は、そんなに遠いことだとは思わないけどな」
意味深な発言をして、マスターはグラスを磨く。
「ちなみに、それはうちのオリジナルカクテルだから、他の店で探そうとしても出て
こないぜ。メニューにも載せてない」
彼がメニューに手を伸ばしたのを見て、マスターはわざわざ教えてくれた。
「別にいいよ、どうでも。おかわり」
バカらしくなって、彼はメニューをポンと投げた。
「今度はどこの現場だ?」
明日も仕事ではないのかと、心配してくれているとわかっても、素直に受け入れら
れない。
「現場じゃないよ。パチンコ屋の住み込み」
「どうしてそんな……」
眉を顰めるマスターがおかしくて、彼は笑った。
「親もなし、保証人もなし、住まいもなし。そんな二十歳の男を即日で雇ってくれる
ところって、どっかあると思う?」
「うちで働けばいいじゃないか。ここに住所を決めれば、働き口も……」
「どうせ、年末にはつかまるのに?」
唇を歪めて笑う。
マスターはそれ以上何も言わなかった。
店内には優しいピアノのメロディーが流れている。
タバコの煙も、酒の臭いも、酔客の訛声も、そのメロディーを邪魔しているとしか
思えない。けれど彼には生きている証拠のように思われた。
「もう……やめろよ。半年前に失敗したのは、やめておけっていうお前のりょう……」
それ以上は言わせないために、グラスを割れんばかりにテーブルに叩きつけた。
割れてもいいと思った。何もかも壊れればいいと思った。
「もう来ない」
「おい!」
彼はテーブルに札を、これも叩きつけるように置いた。
逆鱗を持つ人間は弱い。
地雷を持つ人間は脆い。
わかっていながら、それを大事に抱え込む。
「……!」
呼び止める声も無視して、彼は店を飛び出した。
まだ駄目だ。
いや、まだ大丈夫。
自分の中に、触れられるだけでまだ血を流す傷口がある。
まだ痛みを放ち、疼き続ける傷が。
その傷を忘れようとしていた自分の甘さが恨めしかった。
×××2007年 水無月×××
派手な音楽が流れる店内の、狭い通路を泳ぐように歩き回る。
勝っている者は目の前の機械に夢中で、負けている客は腹いせなのか店員に突っかかって来ることも多い。それを適度にかわせるようになれといわれたが、それは想像していた以上に忍耐を要した。
しかしそれも、あいつのことで耐えた以上の屈辱ではない。建築現場ではからずも鍛え、日に焼けた彼の身体を見て、怒鳴りつけてきた客が、少しずつトーンダウンしていくのはむしろ痛快でもあった。
愚痴も言わずに黙々と働く彼に、店主はいい人材を拾ったと喜んでいるようだったが、彼の待遇が少し良くなれば、それにつれて仕事仲間達からは虐めに似たやっかみを受けるようになってしまった。
それでも彼は平気だった。
自分のすべき努力をしないで、努力した者が手にした待遇をやっかむような輩の言うことなど、道端の虫の鳴き声よりも気にならなかった。
休憩時間に裏口で缶コーヒーを飲んでいると、目の前に立つ影があった。地面に座っていた彼は、目の前に立った影を重石きり見上げなくてはならなかった。
「佐藤太郎って、どう考えても偽名だよな」
彼よりも若く、それこそどう見ても高校生にしか見えないアルバイトの男だった。制服の胸につけた名札には「藤田」と書かれている。
「本名だよ」
「別にどっちでもいいんだけど……」
「何だよ」
はっきりしない物言いをする藤田をじろりと睨む。梅雨空の雲は重く厚く、今にも雨を降らせそうで、不快なほどに湿度を高くしているのだ。それと同じようにうじうじとするなら、話しかけたりしないで放っておいて欲しい。今度こそ誰とも馴れ合ったりしないのだと心に決めていた。
「佐藤太郎っていう奴がいるかって、カウンターに客が……」
「いないって言えよ」
誰が自分を探してるのだろう。心の中に浮かんだ一人の影を、そんな馬鹿なと打ち消す。
竜之介とパチンコ屋など、最も結びつかない。本当に彼が来ているとしたら、こんな不健康な場所からはさっさと追い出したい。
「佐藤がいるのを見たって言ったから、呼んできますって言っちまったよ」
うんざりして顔をしかめると、藤田もむっとして唇を尖らせた。
「俺はもう知らないからな。お前に言ったからな」
ぷいと背中を向けて店内へと戻っていく。
彼も仕方無しに立ち上がった。
休憩室の監視モニターからカウンターの様子を眺める。端のほうに所在無げに立っている男に見覚えがあった。
つい先日まで一緒に現場で働いていた仲間だ。けれど名前までは思い出せない。つまり、その程度の知り合いというだけだ。
このまま誰かに自分はもう帰ったといってもらおうかと思ったが、それだと次には別の人が来るかもしれないと考えて、重い気分を引きずってカウンターへと出た。
「佐藤!」
やはりという顔を見て、別の誰かを出せば見間違いだったとあきらめてくれたかもと知れないと、いまさらながら後悔した。
顎でしゃくるようにして外へ出た。
「何か用? 出る台とかは、俺も知らないんだけど」
わざと話を空惚ける。
「何言ってんだよ。どうして急に辞めたりしたんだよ」
肩を掴まれたのを邪険に振り払う。
「そんなの説明しないといけないほど、仲良くしてたつもりはないけどな」
「そ……だけど、お前……」
「用がないんなら、もう来ないでくれよ。呼び出されたりしたら、迷惑なんだよ」
突き放すように言うと、男は悲しそうに顔を歪めた。
「じゃあな」
「あの子、必死で探してるんだぞ!」
ピクリと肩が震えた。
「どの子?」
「竜之介君だよ。毎日現場に来て、佐藤さんを見かけませんでしたかって。自分でも色々と現場を歩き回ってるって」
あのバカ……。
「ほら、前の現場で一緒だった北口、あいつが佐藤をここで見かけたって言ってたから、竜之介君に教える前に確かめようと思って」
ペラペラとよく喋る藤田を黙らせるために襟首を掴み上げた。
「いいか、俺がここにいることは誰にも言うな。黙ってろ。誰かに聞かれたら、人違いだったって言え」
きつい視線で睨みつける。
「だ、だけど……」
それでも男は抵抗してきた。
「俺が言わなくても、あの子はきっと自分で調べに来る……」
やりそうだ。頼りなさそうな外見からは想像もできないほど、竜之介は真剣になるとそのことに取り組む傾向があった。
腹立ち紛れに突き飛ばすと、男はたたらを踏んで尻餅をついた。
「辞めたりしたら……お前がここを辞めたりしたら、あの子は明日からパチンコ屋も回り始めることになる……」
彼は唇を噛んで目を閉じた。
姿を消せば終わると思ったのに……。本当の名前さえ知らない、行きずりの相手ではないか。
どうしてここまで……。
「別れるなら、ちゃんと別れてやれよ」
「付き合ってもいないのに、どうやって別れるっていうんだよ」
イライラして、つい本当のことを言ってしまう。竜之介のことになると、こんな風にイライラしてしまうのだ。他の奴にからかわれたりすると、余計に。
「付き合ってない?」
「あぁ、付き合ってなんてないさ。周りが勝手に言ってただけだろ。それがうざったくて消えたんだよ! なんなら、お前が慰めてやれば?」
「え?」
彼は胸の痛みに気づかないふりで、男に向かってにやりと笑ってやった。
「お前こそ、どうなんだよ。俺を見かけたって言うだけで、わざわざ確かめに来たんだろう? 竜之介のために」
引きつる男の顔を見て、彼は耳元に顔を近づけて悪巧みを吹き込んでやる。
「佐藤に似ているだけだった。あいつは酷い奴だった。俺が大切にしてやるって、優しく慰めてやれば? 竜之介は単純な奴だから、簡単に落とせるぜ?」
真っ赤な顔でうつむく相手にむかむかする気持ちを抑えて、じゃあなと置き去りにした。
やはりここも辞めようか……。
いや、愛人の家も駄目、事務所も駄目となると、あとはあいつの自宅しかない。
どんな手段を使ったものか、相手は高級住宅街に住んでいて、張り込んだり待ち伏せしたりはできない。そんなことをすればすぐに通報される。
誰にも狎れ合うべきじゃなかった。こうして人と関わることで、どんどん追い詰められ、手段を失っていく。
切り詰めて切り詰めて、最低限まで切り詰めれば、働かなくてもあと少しは潜伏して過ごせるだろう。
…………金がなくなった時が決行の時。
彼はふっと笑って、支給された制服を脱いだ。
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