×××2007年 桜春×××

 商店街の通りに植えられた桜の蕾がピンク色に膨らみ始め、人々が重いコートを脱 ぎ捨てた軽装で歩き始める。
 それとなく竜之介に聞き出したところ、あの女は不定期に店を訪れるが、月末の土 曜日には必ずやって来るらしい。その時にはブリュレを買うというのも決まっている らしい。ブリュレがなければチーズ系のケーキを。
 張り込むのなら月末の土曜日がいいだろう。
 前回と同じ方法でいいだろうかと考えて、すぐにそれを否定する。
 あの時は厚いジャンパーを着ていた。だからアレを隠せた。
 けれど薄着になればなるほど隠すことは難しくなる。
 別に隠さなくてもいいじゃないかとも思った。
 ギラリと光る銀色の金属。それが自分の体内に食い込む恐怖を見せてやりたい。
 腹の奥底で冷たく黒い物がゾロリと蠢いた。
 彼は慌てて首を振った。
 休憩に下りてきた水飲み場で、水道の下に頭を突っ込む。
「佐藤、まだ冷てーだろ」
 バシャバシャと頭を振って水を払うと、「こっちまで濡れるだろっ」と怒声が飛ん でくる。たいして怒っているのではなく、休憩時間のじゃれあいのようなものだ。そ のまま水を掛け合い、仕事に集中していた頭を切り替えている。
 佐藤という名前にもいつの間にか慣れた。毎日呼ばれていると、こっちが本当のよ うな気さえしてくる。
 いかにも偽名臭い名前だったが、現場の人間は仕事さえきちんとしていれば、それ ぞれの事情には深入りしてこない。所詮は仕事の間だけの付き合いなのだ。
 気さくだが親密ではない。危険な仕事をしているのでお互いの仕事に関する信頼感 はあるが、それ以上でもそれ以下でもない。
 そんな割り切った付き合いが彼には都合よかった。
 例えば彼が逮捕された時に、噂に尾ひれをつけるような人間はいない。
 佐藤太郎と名乗っていた人間は、虚像でしかなかったと証言する人たちばかりだろ う。
 けれど……。
 竜之介は? 竜之介はどうだろう。
「佐藤さんはそんなことをする人じゃありません」
 真面目な顔で涙を流しながら言うのではないだろうか。
 それとも自分も騙されたと泣くだろうか。恨むだろうか。
 竜之介の泣く顔が唐突に浮かび、彼は顔を歪ませて、慌てて目をきつく閉じた。
 駄目だ……。駄目だ……。
 何も持たないと決めた。この世に未練を残すものは。
 誰を裏切ってもいいと決めた。奴より冷たい人間になると誓ったのだ。
 手段を選ばず、利用できるものは何でも利用する。
 目を閉じて思い出せ。
 あの熱、あの赤、炎の音を。
 伸ばした手の先で消えていった大切なものを。
 あの熱さを思い出すたび、心の温度が下がっていく。
 そう……それでいい……。
 再び目を開いたとき、目に映る緑は黒く濁っていた。

 月末に竜之介の部屋に泊めてくれと頼む。多分喜んでどうぞと言ってくれるだろう。
 その時までに必要なものを考えたけれど、ただ一つだけでいいと気がついた。
 隠れる必要などない。
 よく切れるナイフ。一つだけでいい。
 奴に近づくまで見つかってはいけないので、小さめの物がいい。小さくても、よく 切れるもの。
 狙うのは奴の首だけ。
 ジーンズの内側にナイフを通すループを作った。柄のところで止まるのを確認する。
 鏡に映して見ても不自然なところはなかったが、念のため丈の眺めのジャケットを 着ることにする。月末でも夜ならば、それを着ていてもおかしくはないだろう。
 黒い帽子を被る。目深に被れば、こちらの表情も隠してくれる。
「今度こそ……」
 鏡に映した自分に話しかける。
「今度こそ、しくじらない」
 ナイフを抜く。白い刃が光って、彼の頬を照らす。
 暗い目をした男が、恨めしげに自分を見ていた。





 ×××2007年 卯月×××


「お邪魔します。これ、お口に合うといいんですが」
 ケーキ屋への手土産にお菓子を持っていくわけにもいかず、彼は産地限定生産とい う焼酎を現場の仲間から譲ってもらい、それを西脇に手渡した。
「ほう、ありがとうございます。私は実は焼酎が好きなんです。嬉しいなぁ」
 実はこの前に遊びに来た時に、階段脇のケースに焼酎の空瓶を見つけていた。
「ゆっくりしていってくださいね」
 竜之介はまだ店の手伝いがあるので、彼は仕事に疲れたふりをして、竜之介の部屋 で休ませてもらうことにした。
 彼が月末の土曜日に泊まりに行きたいというと、予想通り竜之介は他に企みがある などとまるで疑いもせず、あっさり過ぎるほど「是非!」と喜んだ。
 昼過ぎに店に着いたのは、あの女がケーキを買いに来るのを確かめるためだ。る  ジーンズの上からナイフの輪郭を確かめる。
「藪……」
 憎い相手の名前を呟く。決して忘れない。
 彼から全てを奪った男の名前だ。
 だからあの男からも全てを奪ってやる。
 窓から通りをじっと眺めていると、夕方も近くなってきたころ、マンションから女 が出てくるのが見えた。
 彼はぐっと手を握り締めた。
 女は見られていることなど気づくこともなく、通りを真っ直ぐにこっちに向かって やってくる。
 彼の真下を通り過ぎて、角を曲がって見えなくなる。彼はそっと階段を下りた。
 ちょうど女が店に入ってくるところで、今日は西脇の妻が女の相手をしている。
「佐藤さん? どうしたんですか?」
 壁に張り付くようにしていた彼は、突然横からかけられた声に驚いて息を飲む。
「え、ごめんなさい」
 顔を顰めた彼に、竜之介は首を傾げる。
「お前、店は?」
「休憩……なんです。それで……」
 竜之介は手にペットボトルとコップを二つ持っていた。
「あ、そうか、悪いな」
 店の様子が気になりながらも、彼は階段を上がった。
「すみません、せっかくきてもらったのに、一人にして」
「いいよ、店が終わった頃に来ればよかったんだろうけれど、現場の方も昼は閉めち まうんで、他に行き所がなくってな。ここで昼寝させてもらえるのが一番助かるんだ」
 それはまんざら嘘でもないので、ほっとして言えた。
 二人で話をしながらも、チラチラと窓の外を眺めているが、女が通る様子はない。 ケーキの他にも買い物に行ったのだろうか。
 けれど買い物をするのなら、普通はケーキを一番最後にするのではないだろうか。
「佐藤さん、外に何かあるんですか?」
 ちらりとまた外を見たとき、竜之介が不思議そうに横に並んできた。ふわりと甘い バニラの香りがする。
「お前、いい匂いがするな」
 話を逸らすためだったが、その匂いにドキッとして、彼は気持ちをざわつかせた。
「今日ね、シュークリームを作ったんですよ、僕。それでカスタードクリームをつめ こむのもしたから、それでいつもより匂いがきついのかもしれません」
 ごめんなさいと謝りながらも、竜之介の声は嬉しそうだ。シュークリームを作れた ことがよほど嬉しかったらしい。
「ケーキ屋になりたいのか?」
「今はね、パティシエって言うんですよ。でも、街のケーキ屋じゃ、そんな言い方す るほどじゃないかもしれないですね。僕は小さな子供にも普通に気軽にケーキを食べ てもらいたいので、ケーキ屋さんでいいんですけどね」
 ニコニコと竜之介はそれこそ子供のように嬉しそうだ。
「この店の跡を継ぐのか?」
 西脇と竜之介は血の繋がりがなく、苗字も違うので養子縁組はしていないようだ。 けれど西脇に子供はなく、竜之介にも親はいない。一緒に暮らしているのなら、家族 のように情も湧くのではないだろうか。
「この店は西脇さんのものですから、僕はいずれ一人立ちしたいんですけどねぇ」
 コップのジュースを飲みながら、竜之介はのんびりと笑う。
「佐藤さんは大工さんになりたいんですか?」
 素直に聞かれて、彼は飲みかけていたジュースを喉に詰まらせてしまう。
「えっ、僕、変なことを言いました?」
 ゴホゴホと激しく咳き込む彼に、竜之介はオロオロとタオルを手渡す。そのタオル も甘い香りがした。
「あそこのビルの建築現場で働いてるのは、日払いのバイト代がいいからだよ。ただ のフリーターだよ。あそこのビルが建ったら、またどこか日給のいい場所を探してそ こへ移る」
 軽く受け流せばいいだけの話なのに、彼は何故だかチリチリとした焦りを胸に感じ て、腹を立てたようにぞんざいな口調で言ってしまった。ただの八つ当たりだ。
「じゃあ、あのビルが出来ちゃったら、佐藤さんは遠くに行っちゃうかもしれないん ですか?」
「あ? あぁ」
 藪の近くから離れるつもりはないが、目的を果たせたならば、それこそ世間から遠 く離れてしまう。ビルが出来上がるより早く、遠くに行ってしまうかもしれない。
「それじゃあ、あそこよりお給料が出るなら、佐藤さんはどこで働いててもいいんで すか?」
「いいけど、住み込みじゃなきゃ困る」
 適当に答えればいいのに、竜之介相手だとどうしてだか嘘が苦しくなる。
 素直で真っ直ぐな竜之介は、やはり彼には良くない相手なのだ。
「じゃあ、じゃあ、ここで働いて下さい。住み込みも出来ます」
「な、何を……。お前、ここはもう一人雇うほど忙しくもないし、儲かってもいない だろう」
 あまりにも唐突な竜之介の申し出に、彼は本来の目的も薄れ、女がいつ帰ったのか もわからない有り様だった。





 ×××2007年 新緑×××


 ここで働いてという竜之介の言葉には、酷く驚きながらもそんな馬鹿なと一笑に付 す事で強制的に終わらせた。
 けれども竜之介は諦めることができなかったのか、西脇夫婦にも彼がここで住み込 みで働けばいいのにと言い出した。
 彼は当然西脇夫婦が断るだろうと思っていたが、予想に反して西脇は自分も年を取っ てきて、力仕事が辛くなってきたので、手伝ってもらえるなら嬉しいと言い出したの だ。
 断るのに四苦八苦した。
 竜之介が風呂に入っている間に、西脇と少し話をした。
 西脇はいずれ竜之介にはしなくてはならないことがあり、自分もそれを手伝うつも りであること。その時のために、竜之介が心から頼れる人が一人でも多く欲しいこと を打ち明けてきた。
「しなくてはならないことって、なんですか?」
 あのぼんやりした男に何ができるのだろうかと、彼はそちらのほうが心配になった。
「今はまだ言えません。竜之介さんは人懐こそうでいて、実はとても人見知りが激し いんです。その彼がこんなに心を開いている貴方に、これからもそばにいて欲しいと 願うのです。今すぐには考えられなくても、もし本当に今の現場が終わって、次の仕 事を探すときには考えてくださいませんか」
「人を雇う余裕が、この店にあるとは思えません」
 小さなケーキ屋だ。それなりに繁盛はしているが、もう一人増やせば、それこそ赤 字になるのではないだろうか。
 しかし西脇は心配ないのだと言った。
 彼はそれでも、考えられないと答えて、その話を断った。
 結局、藪が女の所に来たのかもわからないまま、竜之介と布団を並べて寝た。
 竜之介は何が嬉しいのか、ニコニコと色んなことを話し、言葉が途切れたなと思っ たら、すやすやと眠っていた。
 そっと布団から抜け出し、窓のカーテンを薄く開けて、斜向かいのマンションを眺 める。
 藪の女の部屋がどこなのかはわからない。藪が来ているのかもわからない。
 ここにいると、このまま忘れてしまいたくなる。忘れてしまって穏やかな日常に幸 せを見つけ出すのもいいんじゃないかと思ってしまいそうになる。
「馬鹿だよ、俺は」
 彼はぎゅっと唇を閉じ、窓を塞いだカーテンを握りしめる。
 春の夜はまだ少し肌寒かった。

 それからも竜之介は彼の仕事が休みになると泊まりにきて下さいと、邪気のない笑 顔で誘ってくる。
 月末の土曜日ならば泊まる価値があるが、それ以外ならば面倒なだけだと自分に言 い聞かせて、適当な用事を作って断っていた。
 桜が完全に散り、青葉が匂うようになって、彼はその日も竜之介の誘いを断って、 一人で出かけた。
 緩みそうになる気持ちを引き締めるのには、この場所へ来るのが一番だと思ったの だ。
 斬新なファッションビルの前で、彼はそのビルを通り越して、過去の風景を眺めて いた。
 派手なだけで少しもお洒落ではない洋服やアクセサリーを売る店が並んでいる。訪 れる若者達も元の顔色や髪の色もわからないような奇抜なファッションをしている。
 デニムと綿のジャケットを着ている彼はここではかなり浮いた存在らしく、あから さまに迷惑そうに見られながらも、彼は動けずにいた。
 若者達の誰一人として、かつてここに幸せな一家が住んでいたことなど、知るよし もないだろう。
 ただただ幸せだった。
 両親に愛され、未来が輝いていることを疑いもしなかった。
 将来は何になりたいの?と優しい母親に聞かれ、パパのようになりたいと元気よく 答えた。
 あの日は永遠に帰らない。
 あの日の自分が、自分の目の前に立っているような錯覚を覚える。
 不思議そうな目で、首を傾げて、暗い顔の大人を見つめている。
「やめろ……。見るな……」
 苦しい。苦しい。……苦しい。
 悪いのはあいつなんだ。
 すべての原因はあいつなんだ。
 胸に憎しみの炎を燃やす。
「絶対に許さない……」
 けれどそれは、こんなにも言い聞かせなければいけないことだっただろうか……。





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