×××2007年如月×××
カランカランとうるさく奏でるドアを潜ると、カウンターの向こうにはいつもの仏頂面が、氷を削っていた。
今時、店のドアにカウベルをつけるなんて、と思うのだが、このバーの名前がカウベルである限り、そのことに異議を唱えられるものではないことは、彼にも重々わかっていた。
「何だ、もう捕まったのかと思ってたよ」
不愉快そうな顔つきは不愉快だからではなく、マスターの地の顔だから、直しようがない。
「俺が捕まったなら、ニュースで流れているはずだろう」
年末に永い別れを誓ってこの店を出た。それなのに一ヶ月で戻ってきてしまった。
もっと早くに来なかったのは、自分が情けなかったという理由だけでしかない。
不機嫌なままカウンターに座った彼の前に、ピンク色のカクテルが置かれた。
「しくじった馬鹿に、俺からの奢りだ」
マスターは横を向いたまま、煙草に火をつけた。
紙を焼く微かな音が聴こえる。
「もう……未成年じゃないしな」
あの日、あの夜を越え、彼は二十歳になった。
それまではどれだけ頼んでもアルコールを出さなかったマスターが、今夜はオーダーもしないのにカクテルを出してくる。
「もうバカなことはやめろ。これは神の采配だ」
紫煙を静かにたちあげながら、マスターは諭すように告げる。
「無神論者のくせに」
彼は顔を歪ませて笑う。
「神などいない。それはお前こそがよくわかっていることだろう。けどな、運のツキだっていう言葉はわりと信じるんだ。お前の運は尽きた。あいつにツキがあった。その流れは変えられない」
カクテルを一気に飲み干して、グラスをカウンターにダンと置く。その勢いのまま立ち上がった。
「神さまなんかいるもんか。あいつに味方する悪魔はいるだろうさ。だけどな、俺の運だって尽きちゃいない。確かに俺はしくじった。だけど、捨てる神あれば拾う神ありだ。俺はまだツイテる。まだ諦めちゃいない」
眉間に深い皺を刻み、マスターは斜交いに彼を睨んだ。
「どういうことだ?」
「あいつを見張るのにいい場所を見つけた。二度としくじらない。じっくり喰らいついて、逃がさない」
思いつめたような彼に、マスターは表情を険しくする。それは嫌悪というより、深い心配が刻まれていたが、反発でしか対抗できない彼には、相手のどんな感情も読み取れない。
「他人に迷惑をかけるな」
彼の頭に、呑気な笑顔が浮かぶ。
「利用されたことすらわからないようなボケた奴だよ」
マスターは灰皿に煙草を押し付け、もみ消した。
「それに、もうお前は成人してしまった」
彼はふっと笑う。
「だから?」
カツカツと扉まで歩き、ドアに手をかけて振り返った。
「名前が出ればいい。俺の名前を聞けばいい。俺に能力がないと言った奴らに、俺は自分の名前で、その愚かさを突きつけてやる」
狂気を孕んだ凄絶な笑みを浮かべ、彼はドアを開けて、真冬の町へと出た。
「ム……!」
彼を呼ぶ声は、ドアに遮られ、背中にすら届かなかった。
CLOSEDのプレートをドアにかけ、店のガラスケースを丁寧に拭く。
寒い時期はケーキの売り上げはあまり伸びないが、フォンダンショコラのように温めて食べるケーキを取り扱うようになって、よくなってきている。
今夜もケーキは売り切れで、竜之介も自然に笑顔が浮かんでくる。
「そういえば佐藤さん、あれから来てくれないなー」
携帯は持っていないという。住んでいるのも工事現場のプレハブだというし、竜之介から連絡を取りようがない。
工事現場は聞いていたので、今度の店の定休日にでも行ってみようかと思いついた。
要領が悪く、同世代よりも格段におっとりしている竜之介は、友人らしい友人がいなかった。
両親は竜之介が幼い頃亡くなり、両親が昔世話を焼いていた西脇夫妻が竜之介の境遇を知るまで、施設で過ごしてきた。
施設ではどこでも邪魔にされ、部屋の隅でみんなの様子を眺めて一日の過ぎるのを待っているだけだった。
周りの子供たちは、竜之介をバカにする存在でしかなかった。
クリスマスイヴの夜、ケーキを運んでいた竜之介は通行人にぶつかった。
罵声を浴びることを覚悟した竜之介だったが、かけられた声はとても穏やかな謝罪で、しかも壊れてしまった眼鏡まで弁償するという申し出だった。
そして本当に彼は眼鏡を作ってくれ、それまでのものより竜之介の体のことを思いやってくれる高価なものだった。
優しい人だ。
その人が時折見せる暗さは気になったが、それでも近くにいたいと思った。
閉店はしたけれど、電気をつけたままの店内で、竜之介はコマコマと掃除に勤しんでいた。
秋からずっとこの付近を下見に通っていたので、ケーキ店のことは知っていたが、中で働いている人について考えることなどなく、じっくり見たこともなかった。
よく働くその姿を、通りの向こうから見つめていると、自分の心の醜さを嫌でも感じてしまう。
あいつに近づくのは危険なのかもしれない。
自分の醜悪さを思い知らされる。
あんな風に笑いたかったと、苦しくなってしまう。
ただ憎しみだけを抱いてここまで歩き続けてきた自分を、ひどく可哀想に思えてしまう。
復讐だけを誓って生きてきたのに……。
あの夜、名前のないまま、死ねるはずだったのに……。
×××2007年早春×××
朝の水道水はまだ手を刺すほどに冷たいが、工事現場で働くのに、上着は必要ないくらいには日中は暖かくなってきた。
それでも高層ビルの建築現場は、風が強く、耳を切るように冷たい時もあった。
下から送られてきたセメントを流し込んでいると、昼のサイレンが鳴る。これから一時間の昼休みになる。
「佐藤、もう終わるか?」
主任に声をかけられて、彼は終わります!と大声で返事をした。
強い風で乱れた髪を手で直しながら、足場を降りていく。
近くのコンビニに行く連中と一緒に弁当を買いに行くことにする。
遮音用のスチール塀を出たところで、現場の中を覗き込もうとしている男とばったり会った。
「あ、佐藤さん!」
不安そうに背伸びをしていた顔がぱっと喜びに変わる。
「竜之介……」
どうしてここに? と戸惑っていると、竜之介は彼の様子など気にすることもないようで、ニコニコと笑顔いっぱいで歩み寄ってきた。
「あの、お弁当持ってきたんです。えっと、今日は、お店が休みで」
そういう竜之介の手には、大きめの紙袋があった。
「おっ、差し入れかー。いいな、佐藤」
「可愛い女の子じゃないのが佐藤らしいよな」
どっとわく笑い声とからかいの声に、殴るふりをしてから、彼は竜之介を近くの公園へ連れて行った。
日溜りの中は三月の初めでもかなり暖かく、公園に植えられた桜の木もまだ固くではあるが蕾をつけている。
そんな暖かな場所を選んで、小さな子供を連れて、同じように弁当を広げているグループもあった。
「あの……迷惑でしたか?」
公園に着くまで黙り込んだままの彼に、竜之介がおどおどと声をかける。
彼は一瞬辛そうに顔を歪めて、すぐになんでもないというように笑った。
「迷惑じゃないさ。昼飯代が浮くなら助かる」
ベンチの端と端に座り、間に弁当を広げる。
「西脇さんが作ってくれたのか?」
コンビニの弁当では食べられないような、和食中心のおかずが綺麗につまっていた。ご飯の方も、普通のおにぎりと稲荷寿司が並んでいて、見ているだけで食欲をそそる。
その綺麗な詰め方と、男が二人といえどもちょっと食べきれなさそうな量に、手を伸ばしかねた。
「奥さんが作ってくれました。佐藤さんのところに行きたいと言ったら、作ってくれたんです」
邪気のない笑顔に、ちくりと胸が痛む。
「どうして俺のところに……」
「佐藤さん、あれから来てくれないですから、どうしたのかなーと思って。やっぱり、僕なんかじゃ……迷惑ですか?」
急に俯いて言われると、ますます良心の呵責を感じる。
近づきすぎるのは危険なのではと感じていた。あまり馴れ馴れしくしすぎても警戒されるかもと、そんな計算が働いたのも事実だ。
間をあけすぎても、今更と思われるのではないかと心配もしていたが、彼の杞憂は空振りだったらしい。
それにしても……。
「お前って、絶対他人にいいように利用される奴だよな」
本音を漏らしてしまう。
実際に自分が利用しようとしているにもかかわらず、そんな心配をしてしまう。あまりにも無防備なのだ。
「僕なんか利用しようにも、利用されるだけのもの、何も持ってませんから」
さっぱりとした明るい笑顔。
「世の中、悪い奴が多いんだぞ」
俺のように……。
「そんなことありません。いい人の方が多いです」
信じられない台詞に、眩暈すら感じる。あまりにもバカ、……いや、愚かだと思う。
「ふーん。ま、気をつけろよ。ハンコだけは誰かに聞いてから押せ」
「僕、ハンコなんて持ってませんから」
同じ言語を話しているのに、微妙に会話がかみ合わないのを感じる。
竜之介はクスクス笑い出す。
「何が可笑しい?」
「だって、佐藤さんがそんなこと言うなんておかしいです」
「どうして」
「ぶつかってきた相手の眼鏡を、今までのよりいいものを弁償するなんて、そんないい人、いませんよ」
稲荷寿司を掴もうとしていた箸先が揺れる。
何も知らないくせに。腹立ちがふつふつとこみあげてくる。
その俺がお前を利用するだけのつもりで近づいたのだと知ったら、どんなふうに傷つくのだろうか。
「迷惑じゃなかったら、また遊びにきて下さい。西脇さんたちも、佐藤さんのこと、待ってるんですよ」
「ほんとに遊びに行ってもいいのか?」
太陽の光がきらきらと竜之介の顔に降り注ぎ、とても眩しかった。
「はい! 是非! 本当にきて下さいね」
「……あぁ」
他人なんて、利用すればいいだけじゃないか。
どうせ俺のことを恨むようになるだけだ。あんな奴、親切にしてやって、バカだったと悔やむだけだ。
それを見て、せせら笑うだけの非道さを持ち合わせていたはずだ。
「僕は佐藤さんとお友達になりたいんです。はじめての、お友達なんです」
本当にお前はバカだ。
彼は心の中で、胸の痛みを無視して、それだけを繰り返していた。
×××2007年弥生×××
竜之介の住んでいるケーキ屋に入ると、元気の良い声が出迎えてくれる。
「いらっしいま……あ、佐藤さん!」
他に客がいないからか、竜之介は嬉しそうに来てくれたんですねと、ガラスケースの向こうから店内へと出てくる。
「あら、いらっしゃいませ」
竜之介の声を聞きつけたのか西脇の妻が出てきて、彼に笑顔で挨拶をしてくれる。
「竜之介さん、休憩してください。また夕方忙しくなったら呼びますから」
「ありがとうございます」
素直に喜ぶ竜之介だが、彼は少し気後れしてしまう。そんなに歓迎される客ではないのだ。そもそもケーキを買うつもりもないのだから。
「いいんですか?」
「はい。竜之介さんはいつも休み時間も関係ないくらい働いてくれますから」
居候させ、働かせやっているというのに、竜之介に対する態度は、どこかへりくだったような彼女の態度に、何かしら違和感を抱くが、その理由を聞いてもどうしようもないのだと、踏み入りそうになる自分を押し留める。
「あ、先日はお弁当をありがとうございました。とても美味しかったです」
心のこもった家庭料理を食べたのは何年ぶりだろう。
あの日の夜、薄い布団にもぐりこみ、寒さに耐えながら漠然と考えていたら、不覚にも泣きそうになってしまった。
慌ててその甘い考えを心の奥に封印しようとしたが、ギリと爪を噛んで、いや違うと思い直した。
俺は忘れちゃいけない。それを失くした悔しさを。
俺の手から奪い取ったあいつを、絶対に許してはならないのだと。
爪を噛み切り、舌に差すような痛みを感じながら、忘れない……と誓った。
「いいえ、平凡なお弁当でごめんなさい。ずっと現場で寝泊りしてらっしゃるとお聞きしたから、たまにはあんなものでも召し上がっていただけるかしらと思ったもので」
「とても美味しかったです」
それは心のそこから言えた。
嘘で固めた自分の中に、ぽつりと芽生えた暖かい場所。
近いうちに、そこも真っ黒になるだろうけれど、今だけは暖かいままでもいい。そんな気がしていた。
「じゃあ、今夜は晩ご飯も食べていらして下さい。頑張って作りますから」
「いや……でも……」
夜まではいたい。あの窓から見える、夜の通りを確かめてみたいという気持ちはあった。
「是非。遠慮なさらないで」
「佐藤さん、一緒に食べましょう」
竜之介にニコニコと頼まれて、恐縮しつつも……という態度で、厚意に甘える姿勢をとった。
しかしそれは、あまり演技が必要なことではなかった。
彼は演技をしているのだと自分に言い聞かせ、竜之介と一緒に二階に上がっていった。
窓から見える通りは上から見ていたのでは、歩く人の顔は見えなかった。
それでもあいつが通れば、見逃さないだけの自信はあった。
今日は土曜日。週末を選んだのは、明日が休みなら、あいつがここを通るかもしれないと思ったからだ。
そんなことも知らずに、竜之介たちは彼を歓迎してくれた。
「佐藤さん、寒くないですか?」
窓を開けて覗き込んでいる彼に、竜之介が心配そうに声をかけてくる。
「あぁ、悪いな。すぐに閉めるよ」
暖かくなってきたとはいえ、まだ暖房無しでは少し肌寒さを感じる。
「ケーキ、貰ってきちゃいました。これ、来月から出す新作なんです。今日は試食ですって。できたら感想を聞かせてください」
薄いピンク色の花びらの形をしたゼリーをのせた春のケーキ。その形と色、微かに香る桜の匂いは、女性の心をくすぐるだろう。
「いいんじゃないか? 甘すぎないし、口当たりもいい」
スプーンですくって口に入れると、和風の香りに包まれるような気がする。
それは日本人に郷愁を感じさせる薫りだった。
「伝えてきますね。西脇さん、自信なさそうだったから、喜びます」
ケーキを食べ終えた頃、階下が賑やかになってきたようで、竜之介は手伝いに行ってきますと腰を上げた。
「ゆっくり寛いでてくださいね」
残された言葉にちくっと小さな痛みを感じる。
階段を降りる音が聞こえなくなって、彼はまた窓際へ寄った。
まだ明るいうちから奴が通るとは思えなかったが、それでもと下の通りをじっと見つめる。
商店街へと入る道だからか、昼の人通りはけっこう多い。
夜には帰宅する人たちで、また人通りが多くなることを彼は知っていた。
その時、マンションから出てくる人影を見て、彼は一瞬身体を強張らせる。
目を眇めてじっと見つめる。
春向けの明るいジャケットを羽織って、長い髪を今は一纏めにしている女性。手に持っているのは小さなカバンだけで、近くへ買い物に出るのだろう。
通りを渡って、彼の立つ窓の真下を通っていく。
もしかして……と、彼は階段をそっと降りた。
ドアの影から店内を窺っていると、その女性がちょうど入ってくるところだった。
「いらっしゃいませ」
竜之介の明るい声が聞こえる。
対する女性の声はくぐもっていて、聞き取れなかった。
「今日は暖かいですよね。……すみません、ブリュレは売り切れちゃったんです。
……こっちもお勧めですよ」
親しげな竜之介の声に、腹の底に溜まった黒いものが蠢き始めるのを感じる。
「いつもありがとうございます。……今お包みしますね」
彼女が常連なのが、竜之介の態度と言葉遣いから察せられる。
「ありがとうございましたー」
女性は出て行く。彼もまた足音を忍ばせて二階へと戻る。
すぐに窓から覗くと、彼女がマンションへと戻っていく姿が見える。
いっそ車に轢かれでもしてくれないだろうかと、不穏なことを願う。
けれど、彼女がケーキを買っていったのなら……。
そう……。やはり、今夜、奴は来るのだ。
土曜日。毎週ではないけれど、月に2、3度はこうして通ってきていた。
今もまだ切れてなかった。
マンションに消えていく女性の影を見つめながら、今度こそは……と、彼は拳を握り締めていた。
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