レジスタントは背を向ける





逆らえない偶然を人は運命と呼び……


 ×××1995年夏×××

 燃えさかる炎の中で、二人の手が伸びていた。
 自分も必死で伸ばした。


 ×××2006年末×××

 クリスマスソングが喧しく流れる商店街の中を、帽子を目深に被り、マフラーで口 元を隠すようにして、一人の男が俯きがちに、だが真っ直ぐにある点を見据えて、足 早に歩いていた。
 両手はジャンパーのポケットに入っている。中で手を握りしめているのか、ポケッ トは丸く膨らんでいた。
 時刻は夜の十時を過ぎていた。けれど街は人で溢れていた。既に泥酔の色が濃い者 も多い。そんな人込みの中を早足で歩くのは苦労する。
 何度か人の肩とぶつかりながら、酔ってふらつく人を避けながら、彼の目は一人の 男の背中から外されることはなかった。
 少しずつ距離が縮まってくる。二人の間が短くなるにしたがって、彼の心臓の鼓動 も早くなっていく。
 緊張はしていた。しくじってはならない。こんなチャンス、二度とない。だから何 度もシミュレーションした。その通りにすればいい。
 男が彼の予定通り、交差点を曲がっていく。
 その先のマンションに入るためだ。
 彼は男をマンションのエレベーターホールで捉まえようと足を速めた。
 続いて自分も角を曲がろうとしたとき、向こうから曲がってきた誰かと正面からぶ つかってしまった。
「あっ……ああっ……あ、すみませんっ。すみませ……あーーー」
 ぶつかった相手はこの季節、珍しくない服を着ていた。
 赤の上下は衿、手首、足首が白いフェイクファーで、帽子も同じタイプのもの。サ ンタクロースだ。
 そのサンタクロースは謝りながらも、自分が落とした物を情けない顔で見ていた。
 服と同じ赤い箱が、サンタクロースを中心にバラバラと散らばっていた。中は多分 クリスマスケーキだろう。
 クリスマスイヴの今夜は、一番の書き入れ時なのだろう。
「悪い……」
 彼は謝りながらも、マンションへと入る男を見ていた。
 走れば間に合う……。ポケットの中でぎゅっと握りしめて、一歩を踏みこんだ。
「ああっ!」
 悲鳴に似た叫びがあがる。
 ぐしゃりと足の下で何かが潰れる感触がした。
 思わず足元を見た。
 黒いフレームの眼鏡が彼のスニーカーの下で曲がっていた。レンズは割れていくつ ものかけらになっていた。
「ああー、僕の眼鏡……」
 情けない声がその眼鏡を拾う。
「何? どうしたの?」
「やだー、これ、ケーキじゃない」
「あーあー、グチャグチャ」
 そんな二人のやり取りは人目を引いた。彼らの周りに人垣ができ始める。
 彼は焦ってマンションを見た。
 そこにもう男の姿はなかった。
 派手な溜め息をついて、彼はぶつかった相手に手を差し出した。
「眼鏡とケーキ、弁償するよ」
 サンタクロースは涙を浮かべた目を上げて彼を見、その言葉を聞いてにこっと笑っ た。
 その顔が妙に可愛くて、サンタクロースの衣装がとても似合って見えたのだった。


 ×××2007年睦月×××

 待ち合わせた駅前でぼんやりと立っていた彼は、背中をぽんぽんと叩かれてびくっ と肩を強張らせ、睨みつけるように振り返った。
 彼の背中をつついた少年は、笑いかけていた顔をそのままに、手も宙にとどまらせ たままで固まっていた。
「あー、悪い。びっくりしたから」
 少年は彼がケーキと眼鏡を踏みつけたあのサンタクロースのアルバイトだった。
 あのあと、ケーキは二つが駄目になっただけで、事故という事で弁償せずに済んだ。 眼鏡の方もいいですと少年は断ってくれたが、自棄になっていた彼は半ば強引に弁償 の約束を取りつけた。
 その時に少年の名前だけは聞いた。
 久慈竜之介と名乗った少年に、彼は「仰々しい名前だな」と感想をもらすと、怒る のでなく照れたように笑った。
 あなたの名前は?と問い返されたが、彼は答えにつまってしまった。
 名前を答えることにつまった彼に、竜之介は今度会ったときでいいです、とまた笑っ た。
「お待たせしてすみません」
 この寒空に薄手のジャンパーに、ヴィンテージでもないのに擦り切れたジーンズで、 薄汚れたスニーカーを履いているのに、口調だけは妙に上品で、そのギャップがおか しい。
「えっと……」
 何と呼んでいいのか、迷っているのだろう。もじもじとする様が面白い。
「あぁ、俺は佐藤太郎だ。よろしく」
「佐藤さん、今日はよろしくお願いします」
 偽名だと丸わかりの名前でも、竜之介は疑いもしなかった。丁寧に頭を下げられて、 戸惑ってしまう。
 態度や言葉遣いといい、少しばかり頭が弱いのではないかと、とても失礼なことを 考えながら、待ち合わせの場所から見えるチェーン系の眼鏡屋を目指して歩き始めた。

 運命の分かれ道はあのクリスマスの夜なのではなく、まさに今日この日だったこと に気がつくはずもなく、彼は一歩を踏み出したのだった。





 ×××2007年睦月×××

 眼鏡屋で壊れた眼鏡を差し出すと、それだけでレンズの度数がわかるらしく、フレー ムを選んでくださいと、妙ににこやかな店員に案内された。
 眼鏡は竜之介のものなので、彼はカウンターに椅子に腰掛けたまま、フレームを選 び終わるのを待つことにした。カウンターもショーウインドーになっていて、その中 には少し高価な腕時計が並んでいた。
 その中に文字盤が薄いブルーのペアウォッチがあった。オーソドックスなデザイン だ。どこでも見かけるような時計だ。なのに、その文字盤の色を見ていると、瞳の奥 がズキズキと痛む。
 吐き気までわいてきて、視線を外し右手で口元を覆った。
「僕、これがいいです。これにします」
 竜之介の大きな声がして、つられてそちらを見た。
 店員が少し不愉快そうに竜之介の手にしたフレームを見ている。
「決まったのか?」
 何か必死に言い募る竜之介と、苦笑いの店員の様子に、彼は割り入った。
「はい。これにします」
 竜之介が手にしていたのは、銀色のフレームの一般的なものだった。
「じゃあ、これで作ってください」
 本人の気に入ったものがいいだろうに、何を店員がためらうのだろうかと思いなが ら、それを店員に渡した。
「お客様の度数ですと、こちらのフレームでは強度に問題が」
 店員の説明では、竜之介の度数は思っていたよりも強いらしく、薄型のフレームで は歪んだり、掛ける時の負担が大きいらしい。
「これと同じで、強いものを選んでもらえばいいじゃないか」
 彼が提案すると、竜之介はでも……と言い迷った。
「こちらのフレームは一番安いもので、テスト用の軽いレンズでしたら問題ないので すが、実用には向かないのです。伊達眼鏡とかでしたらいいんですけどね。お客様が 持ち込まれたフレームもレンズとは合ってなかったんではないでしょうか」
 言外にだから割れたという口振りは、悪用すれば彼にとっては弁償から逃げられる ものだったかもしれない。
「あれは俺が踏んだから割れたんだよ。おい、えっと、そうだ、竜之介だ。お前、俺 に気を遣うことねーよ。好きなの選べよ」
 最初に選んだフレームは店員に突き出すように渡して、竜之介をもう少しいいフレー ムのコーナーへ連れて行った。
「でも、あれが僕の持っていたのと同じです。だからあれでいいんです」
 俯いて言われて、少なからず驚いてしまう。
 弁償すると言ったのだ。いくらまでと指定したつもりもない。ならば少しでもいい ものを選ぶ物なのではないだろうか。律儀に同等の物をと言われると、その正直さに 驚くと同時に、眩しくて目をそむけずにはいられない。
「どれでもいいです。軽くて丈夫なやつ、選んでやってください」
 この季節に薄いジャンパーを着て、擦り切れたスニーカーを履いていることからし て、とても裕福とは思えない。
 ならば取れるところから取ってしまえばいいのに、馬鹿正直に申告する。
 そんな人間は彼の周りにいなかった。
 店員が熱心に勧め、竜之介が困ったように彼を見た。店員に押し付けられるように して試着したフレームをつけた竜之介を見て、彼はそれにしてもらえと頷いた。
 レンズも最初のものよりは、目の負担が軽く、傷もつきにくく、軽いといういいレ ンズに変えてもらう。
 思っていたよりも金額は倍近くになったし、彼の収入から考えればそれはかなりの 痛手ではあったが、どうにでもなれという気持ちだったので、気前よく出した。
「あの、差額分は、僕が払います」
 財布を握り締める竜之介に、彼はいらねーよと突っぱねた。
 きっとあの中身も薄いに違いない。
「でも……」
 はっきりしない竜之介は、はぐらかそうとすれば簡単だった。それ以上言わせない ようにすればいいだけだ。
「出来上がるのに少し時間がかかるんだってさ。食事に行こうぜ」
 ついてこようがこまいが構わない調子で店を出たが、竜之介がついてくる確信はあっ た。やっぱり竜之介はついてくる。
「お前、その眼鏡で見えるのか?」
 商店街の中の蕎麦屋に座った彼は、メニューを渡しながら尋ねた。
 すぐにも弁償しなければならないのかと思ったら、前に使っていたのがあるからア ルバイトが終わってからでいいですといわれ、そうすると正月休みも重なって、今に なってしまったのだ。
「遠くの細かいものは見難いんですけど、大丈夫です」
 メニューを異常に顔に近づけて言うのではあまり説得力はなかった。
「佐藤さんはどんなお仕事をしているんですか?」
 蕎麦が出来る待ち時間に、空白の時間が落ち着かないのか、竜之介が聞いてくる。
 佐藤と呼ばれて、あぁ自分のことなのだとワンテンポ遅れる。
「今は建築現場で働いてる。新しく建てている駅ビル」
「あ、知ってます。いっぱいお店が入るって言ってました。すごいな、あれを建てて るんですね」
 目をきらきらして言われて、彼は苦笑する。
「ただの作業員だよ。俺が建てているわけじゃない」
「でもビルができていくんですよ。すごいと思います」
 何がすごいのかわからず、彼はやはりこいつは少しバカなのだと思った。
 実際のところ、工事現場で働いているのは、日雇いで住み込みが可能だったからだ。 そういう条件のところを点々としてきた。
「お前は? 学生なのか?」
 ケーキを売っていたのはアルバイトだといった。年もまだ若いし、高校生くらいに 見える。
「昼はアルバイトして、夜間高校に行ってます」
「へー」
「あ、そうだ。甘いもの平気ですか? 今度ケーキ食べに来て下さい。僕、あのケー キ屋さんの2階で住みこませてもらってるんです」
 ドキッとした。
 あのケーキ屋の2階。
 場所を思い出すと、心臓の鼓動は倍速になった。
「甘いものは好きだな。売れ残りとか、食べさせてもらえたりするのか?」
「はい。残らない日とかもありますけど、平日だったらわりと残りますよ」
 ニコニコと笑う竜之介には邪気がない。
 別に騙しているわけじゃない。彼は心の中で言い訳をする。
 甘いものは好きではないが、食べることに抵抗はない。
「じゃあ、今度食べさせてもらいに行こうかな」
「ハイ。是非」
 少しは人を疑え。出会ったばかりで、素性も知らないやつを家に呼ぶな。
 心の中に浮かんだ忠告は、闇の中へと押し込んだ。
 別に……騙しているわけじゃない。
 蕎麦をふーふー言いながら啜る竜之介の曇った眼鏡を見て、わずかな胸の痛みにも 気づかないふりをした。





 ×××2007年厳冬×××

 竜之介がアルバイトをしているケーキ屋は、商店街の角地に当たり、大通りにも面 している一等地と呼べるいい店だった。
 高価な眼鏡を新調してもらったからと、竜之介は一度ケーキを食べにきて下さいと 誘ってくれたので、二月に入ったばかりの平日の夜、仕事が終わった彼は、そのケー キ屋を訪ねた。
 場所はしっかり覚えている。下見も兼ねて、何度かその通りを歩いていた。
 店が閉まるのは午後七時。多少遅くなることもあるが、平日なんかだとその通りに 終われることが多いらしい。
「いらっしゃいませ。あ、佐藤さん、来てくださったんですね」
 白いエプロンと白い帽子を被った竜之介は、ガラスケースの向こうから嬉しそうに ニコニコと笑って、彼を出迎えた。
 展示用のガラスケースの中は、もうほとんどケーキが残ってなかった。
「あ、ちゃんと除けてありますよ。はじめて来て頂くのに、余り物をお出しするなん てできませんから」
 特にこだわっていなかった彼は、妙に真面目な竜之介の態度に戸惑ってしまう。
 ケーキなどどうでもよかった。彼の本当の目的は、竜之介の部屋だったのだ。
「どうぞあがって下さい。こちらです」
 カウンターを回ると、店のプライベートスペースになる。キッチンの脇に階段が見 えた。
「西脇さん、佐藤さんです。佐藤さん、この店のオーナーの西脇さんと奥さんです」
 白衣の上下を着た50歳くらいの男性と、竜之介と同じ白いエプロンをつけた40 代後半の女性が、彼を見て頭を下げた。
「竜之介さんがお世話になったそうで、ありがとうございます」
「狭い店ですがゆっくりなさってください」
 竜之介の方が住み込みの店員であるだろうに、妙に丁寧にもてなされて、彼はかえっ て居心地の悪さを感じた。
 階段は暗く急だったが、店の二階は日当たりの良さそうな清潔な空間だった。
 廊下の向こうには生活用のキッチンも見えた。
「こっちの部屋を使わせてもらってるんです。どうぞ」
 店の間取りから考えて、こっちであればいいのにと願っていた東側に、竜之介の部 屋はあった。
 まだ俺はついてるのかもしれない。彼は内心で喜びの拳を握る。
 下から見上げていた窓に近づく。
「カーテンを開けてもいいか?」
「でも、寒いですよ?」
 心配そうに言われたが、気にせずにカーテンを開いて窓も開け、斜向かいに聳え立 つマンションを見た。
「今ストーブをつけますね。すぐに暖まると思いますから」
 暗い目を外に向けていた彼の背中に竜之介の声がかかる。
 彼は窓を閉めて、部屋の真ん中に置かれたテーブルに座った。
「いらっしゃいませ」
 西脇の妻がケーキとコーヒーを運んでくれた。
「お食事は?」
「済ませてきました。お気遣いなく。すぐに失礼しますので、皆さんがまだでしたら、 遠慮なく食べてください」
「私達はいつも遅いですから。竜之介さんにお客様なんて珍しいですから、是非ゆっ くりしてらしてください」
 面映いような歓待に居心地が悪くなってくる。しかし、ここで彼らの心象を悪くす るわけにはいかない。
「ありがとうございます」
 にっこり笑顔を作る。
 西脇の妻が去り、テーブルの上にはケーキが五個も置かれていた。
「どれを食べますか? 残りは持って帰ってくださいね。うちのケーキは新鮮で材料 もいいですから、明日もまだ食べられますから」
「お前が作ったみたいだな」
 彼が笑って冷やかすと、竜之介は本当に自分が作ったように、西脇のケーキの自慢 をする。
「お前、ここの息子じゃないよな? すごく可愛がられているみたいだけど」
「はい。僕は西脇さんの息子じゃないです。昔、お世話になったご夫婦なんです。お 子さんがいらっしゃらなくて、子供のように可愛がってくださってるんです」
 照れたように笑う竜之介に、何故かチリチリとした苛立ちを感じる。
 幸せそうな奴を見るのは苦しい。
「お前の両親は?」
「あ……、亡くなりました。僕が小さい頃に。それから西脇さんが迎えに来てくれる まで、施設に入ってました」
 一瞬の暗い表情の後、また竜之介はニコニコと笑う。
「悪い、辛いこと聞いて」
「いいえ。あんまり覚えてなくて。施設でもみんな優しかったし、西脇さんも優しい し、僕は幸せです」
 胸を引っ掻いていたような苛立ちが、吐き気に似た腹立ちに変わるのを感じる。
 呑気そうに言う竜之介に怒りさえ感じるのは何故だろう。どうせ他人の人生なのに。
 施設暮らしが楽しいわけがない。暗い感情の坩堝だ。誰よりも先に抜け出したいと 願っていた場所でしかない。
 竜之介くらい鈍そうであれば、苛めも妬みも感じなかったのではあるまいかと、意 地悪な感情が噴出してくる。
「佐藤さんは? お父さんとお母さんは?」
「俺も一緒だよ」
「え?」
「俺の両親も死んだ。ずっと前に。俺も施設育ちなんだよ。お前と違って誰も迎えに は来てくれなかったがな」
 養子に迎えてもらえるのは、小さな子供たちだった。当時10歳になっていた彼は、 年齢制限のギリギリまで施設で過ごすしかなかった。
「ごめんなさい……僕……」
 しゅんとしてしまった竜之介に、少しだけ苛立ちが消える。
「いいさ、別に。もう昔のことだ」
 彼はさばさばとした風を装い、気に入ったケーキを皿に取り分けた。
 甘いものは好きではなかったが、ここはとても気に入ったという態度を見せておい た。
「いいな、一人の部屋って。俺もさ施設育ちで相部屋だったしさ、今も現場で下宿み たいなもんで、雑魚寝なんだよな。足もゆっくり伸ばせやしない」
 羨ましそうに言って、うーんと伸びをする。
 竜之介の部屋は、机と椅子、ベッドと洋服箪笥があり、こうしてテーブルを出せば 広いとは言い難い。けれど清潔に整えられていて、彼が西脇夫婦に大切にされている ことが伺える。
「だったら、また遊びにきて下さい。あ、そうだ。休みの前とか、泊りにもきて下さ い。是非。僕、お友達とそういうの、したことがないんで、やってみたかったんです」
 お前、ちょろすぎ。
 簡単に引っかかる竜之介に、してやったりと思いながら、その素直さに危うさも感 じていた。





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