厄介ごとをおろして軽くなったテールランプを見送って、彰紘はこれからどうするのだと、隣に立つ加賀を見上げた。
「歩こう」
「ええっ?!」
 二人は神社の門前に立っていた。
 辺りに灯りはなく、大きな石の鳥居がなければ、これが神社だともわからなかっただろう。
「で、でも、歩くなんて、あいつらが追いかけてきたら、逃げられないじゃんか」
 車ならスピードを出せるし、振り切れるかもしれない。
 けれど徒歩となると、逃げ切れない。走りにも自信がない。
「大丈夫だ。地図にない道を歩くから」
「えー! そ、そんなことよりさ、迎えに来てもらおうよ。ほら、防弾ガラスのついた車とか、あんたの仲間は持ってないの?」
「あるにはあるが、仲間が動けばこっちまであいつらを連れてくることになる。だから、落ち合うポイントまで、何とかたどりつくのが一番安全な方法なんだ」
 彰紘の同意を待たずに加賀は歩き始める。仕方なく彰紘もその後を追う。
「でも、ポイントって言っても、厚木はやめにしたんだろ? 他にも行くあてはあるのか?」
「何ヶ所か決めてある。本当なら君を大学の敷地内で捕まえて、安全に厚木まで行く予定だったんだが、君は今日、講義を休んだだろう? 探すのに手間取っているうちに、相手に動きをつかまれてしまったんだ」
 大学を自主休講したことを責められているようで、彰紘はぐっとつまった。
「そ、それはちょっと野暮用で」
 本当はただ単に、裏庭の木陰で昼寝をしていただけだが、決まりが悪くなってそっぽを向く。
 加賀の言った地図に乗っていない道とは、神社の横から裏へと回り、そこから林の中を掻き分けていく道だった。
 もちろん私道だろう。舗装もされていず、落ち葉が積もり、足元は覚束ない。
「それよりさ、携帯電話で仲間に連絡取ったら? せめて近くまで来てもらえば、すげー楽になる」
「まさか、君の携帯は電源が入っているのか?」
 ほら会話が全然別へ飛ぶよ、と彰紘ははあと溜め息をつく。
「入ってるに決まってるじゃん。あ! バイトに休むって連絡入れてないよー!」
 彰紘は突然思い出して、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。遅くなってからでも、いいわけの電話だけでも入れておかないと、くびになりかねない。
「なっ、何すんだよっ!」
 電話をかけようと携帯を開いた途端、横から手が伸びてきて取り上げられてしまう。彰紘の怒りも気にかけず、加賀は携帯の電源そのものを切った。
「急ぐぞ」
「ちょっ、ちょっと待てよ。何すんだよ。携帯返せよ。いい加減にしてくれよ。俺、もう嫌だ。帰る!」
 疲れていた。携帯を見て、ようやく時間の感覚が戻ってきたというのもある。
 夕方から一日、この男に振り回されて走り回っていた。そのうちの半分は、殺されるかもしれないという恐怖の中にいた。
 真夜中の時間に、灯りもない道を躓きながら歩かされ、食べ物も、飲み物も、ほとんど口にしていない。
 彰紘を連れ回す男は言葉が足らず、納得のいく説明も一度もされていない。
 疲れと、加賀に対する怒りが、容量を越していた。そこへ訳も言わずに電話を取り上げられて、ぷっつりと緊張の糸が切れた。
「君は危険なんだ。それはもうわかっているだろう」
「かんけーねーよ、俺はっ。帰る。明日だって、学校もバイトもあるんだよっ」
「それはしばらく諦めてもらう」
「バカ言ってんじゃねーよ」
「君こそバカなことを言ってる場合じゃないんだ」
 彰紘が来た道を引き返そうとすると、加賀が慌てて腕を掴んで引きとめた。
「どうせ、バカだよっ! だけどなっ、バカだって、バカなりに、普通の生活を送る権利ぐらいあるんだぞっ! てめーにそれを奪う権利があるって言うのかよっ! 訳のわかんない実験だか、研究だか知んないけどなっ、それは俺にはぜんっぜん、かんけねーんだよっ!」
 捕まれた腕を振り回す。それでも加賀は手を離しはしなかった。
「君が怒るのもわかる。けれど、本当に今は危険なんだ。携帯の電源が入っていた。やつらはその電波からこの場所を探し当てる。だから、一刻も早く移動して欲しい」
「こんな安い携帯、GPS機能なんてついてねーよ」
 言葉で説明されれば、そのことについては納得ができる。けれど、相手の事前の予定のままに振り回されることは、不安と苦痛でしかなかった。
「GPSがなくても、調べようと思えば調べられるんだ。相手は警察よりも高度の追跡機能を持っている。明日は学校もバイトも無理だ。奴らが君の命を狙っている限りは」
 説明しながらも、加賀は彰紘を引きずるようにして歩いた。
 仕方なくついていきながら、彰紘は不満を口にした。
「いつまで狙われるんだよ。つまんない大学だけど、留年なんてしたくねーんだよ」
「研究が終わるまで。もしくは君が無関係と判明するまでだ。早くて一ヶ月ほど、長ければ一年くらいかかるかもしれない。はっきりした数字を今出すことはできない。けれど、大学は留年しないように、手配は整えるつもりだ」
 彰紘がキレたからか、加賀は以前よりは説明を惜しまなくなった。
 道なき道は右にカーブし、左に曲がりながら、上ったり下ったりとダラダラと続いている。
 夜目にも慣れてきて、大きな石などは避けられるようになってきた。
 加賀は鍛えているのか、長い道程を歩いて息が上がってきている彰紘に比べて、少しも息を乱すところがない。
「加賀さんってさ、エリートなんだろう? そんなすげー研究に関わっててさ」
「そう思われているだろうな」
 気のないように返す加賀に、彰紘はおかしそうに笑った。
「大学って、やっぱ国立? あ、もしかして、外国の大学?」
「両方だ」
 迷いのない加賀の足取りは、この道を知っているのだろうかと思われた。
「へー、やっぱすげーんだな。でもさ、そんな天才が、俺みたいなバカ大の大学生を護衛すんのってさ、ものすごーく嫌なんじゃないの?」
 思いっきり嫌味をこめて言ってやる。
「仕事に、嫌も好きもない」
 簡潔に答えられて、彰紘はぎゅっと唇を閉じた。悔しそうに前を歩く背中を睨みつけるが、加賀は気がない。
「大変だよね。バカの機嫌を取ったりしないといけないのが、仕事なんてさ」
 自分が何に腹を立てているのかわからずに、イライラをぶつけると、加賀がぴたりと立ち止まった。
「なんだよ、急ぐんじゃないの?」
「自分の事を、バカバカと言うのはやめにしないか?」
「はー? だって、あんたと比べると、本当にバカだもん。あんただってそう思ってるだろ?」
 加賀はしばらくじっとその場に佇み、何事かを深く考え込んでいるようだった。
「君は、中学に入るまではとても優秀な生徒だっただろう? 中学に入ってから、荒れ始めた。それはどうしてなんだ?」
「なっ……なに、それ……」
 加賀の発言に、彰紘は言葉を失って、呆然と立ち尽くす。
「悪いけれど、調べさせてもらったんだ。君という人物を知らずに、君を守ることはできない」
「守ってなんて頼んでねーよ!」
 彰紘は加賀を突き飛ばすようにして走り始めた。それを慌てて加賀が追ってくる。
「彰紘君!」
「嫌なんだよ! やめて欲しいんだよ! こんなことに巻き込まれるなんて迷惑なんだよ。いい加減にして欲しいんだよ! 挙句の果てに、過去までほじくられて。それでどうぞなんて身体を差し出せる奴がいたら、会ってみてーよ」
 彰紘は自覚できないままに泣いていた。
 涙が零れるまでは泣いていないが、腹立たしさや悔しさや、やりきれなさに胸が詰まる。
「すまなかった。君を追い詰めるつもりじゃなかったんだ」
 ずんずんと歩く彰紘に、加賀は難なく追いついてくる。相変わらず足元は悪く、突き出た石が彰紘の足を遅くする。
「あんたたちみたいな頭のいい奴にはわかんねーかも知れねーけどっ! バカにだって血は流れてるし、バカなりの楽しい人生があるんだよっ。俺、あんたに迷惑かけたことねーだろ? だからあんたも、俺のこと、ほっといてくれよ」
「何度も言うようだが、君には危険が迫っている。安全が確保されるまで、我々と一緒にいて欲しい。君と、君の家族の安全を、私達に責任を持って守らせて欲しいんだ」
 彰紘は家族という単語を聞いて、ぴたりと足を止めた。
「俺の家族?」
「そうだ。君を呼び出すために人質に取られる危険性も考えられる。だから、今日のうちに保護させてもらっている」
「何もかも用意周到だね。それで? 親父やお袋はなんて? どうぞどうぞって、俺を差し出したんだろうな」
 彰紘はハハハと笑った。楽しそうな笑い声なのに、表情は相変わらず泣き出しそうだ。
「私はまだご両親にはお会いしていないが、担当の者に聞いたところでは、息子の身体を実験に差し出すことはできないと仰っているそうだ」
 加賀を通して聞く両親の言葉に、彰紘は立ち止まったまま項垂れた。悲壮な顔つきで、じっと足元の小石を見詰めている。
「嘘だ……」
 ようやく呟いたのは、そんな一言だった。苦しそうに、足元に捨て去るように呟いた一言は、加賀の表情も曇らせた。
「私は嘘は言わない」
「俺なんてさ、親の期待を裏切ったどうしようもない息子だよ。そんな駄目息子が世界の役に立てるなら、あいつらは喜んで俺を差し出すよ」
「自分を卑下するのはよしなさい」
「あんたに何がわかるって言うんだよ。あんたは親の期待を裏切らなかった超エリートなんだろう? そんな奴に落ちこぼれの気持ちがわかってたまるかよっ!」
 彰紘はどんっと加賀の胸を叩いた。そしてずんずんと地面を睨みつけるように俯いて歩き始める。
 とりあえずは彰紘が歩き始めたことで、加賀もほっとしたのか、後をついてくる。
「あいつらに捕まったら、俺、殺される?」
 歩調を緩めて、彰紘はポツリと尋ねた。
 ずっと二人で歩いていたためか、恐怖心は少しばかり薄れてきていた。こんな山道のような悪路が、見つかるとは考え難かった。
「わからない。殺される可能性は高いが、もしかしたら、身代金の要求になるかもしれない」
「いくらくらい? 俺んち、金なんてねーけど」
「10億、いや、50億はいくかもしれないな」
 何気なく言った加賀の数字に、彰紘は心底驚いた。
「そっ、そんなべらぼうな。俺、死ぬまでに1億円だって稼げねーよ、きっと」
「違う」
 上擦った彰紘の声に、加賀が落ち着いて訂正する。
「そうだよな、億なんてありえねーよ」
「私が違うといったのは、単位だ。相手は日本人ではない。君の価値は50億ドルだ。無傷で返してくれるなら、我々はそれくらいは黙って差し出す」
 1ドルって何円だっけ? 50億ドルなら、何円になるの?
 とてもではないが、計算できそうになかった。頭の中は真っ白で、思考は停止している。
「うそ……だろ?」
「すぐには信じられないかもしれない。本来なら、これは君を速やかに安全な場所に招いて、じっくり時間をかけて説明し、研究に協力してもらうよう要請する予定だったんだ。相手の組織がここまで執拗に、人目も気にせずに、君の命までも狙うとは考えられなかった」
「俺、本当にわからない。何でこんなことに巻き込まれたんだろう。献血なんて、しなきゃよかった」
 頭を抱えてしゃがみこんだ。もう動きたくなかった。
 できる事ならこれが夢で、すぐにも目が覚めて欲しいということしか、考えられない。
「とにかく、急いで安全な場所へ行こう。そこでゆっくり考えてくれればいい」
「考えるも何も、そこへ連れて行かれたら、俺は実験台みたいになるんだろう? 断れるわけないじゃんか」
「誤解させていたのなら謝る。君にはもちろん、拒否権もある。君の意思を無視して、君の身体を使ったりしない」
 今の言葉に嘘はないだろうかと迷った。
 彰紘を連れて行くためだけに、都合のいいことばかりを並べているのではないだろうか。
「そんなこと、信じられない……」
「私が、今、君と約束する。君を守って、安全な場所に連れて行く。君が望まない実験はしない」
 ゆっくりと周りの空気が薄くなっていくような感覚。闇が色を失いつつ、紺紫、オレンジ、黄色から白へと変化していく。
 夜が明けようとしていた。
「そんなこと、勝手に約束してもいいわけ? あんたは確かに偉い人なのかもしれないけどさ、俺を迎えに来たってことは、わりと下っ端なんじゃねーの?」
 心配そうに尋ねると、加賀は唇に淡い笑みを浮かべた。
「君のことは私に一任されている。君の保護、君の説得、君の健康管理、君へのアフターケア。全て私の責任となっている。私が承諾しなければ、君に注射一本打つことはできない」
 きっぱりと告げる加賀を伺うように見上げた。
「それで? あんたにはどんな得があるわけ? いくら貰うわけ? 危険手当もついてるの?」
 彰紘は笑った。所詮、加賀も仕事だから仕方なくここにいるとしか思えなかった。
 どれだけ自分の意見が尊重されると言っても、そんな場所で嫌だと言い続けることなどできないだろう。
「私もその研究の一員だ。得たいものは研究の完成だ。それ以外にはない」
「結局、あんたもそれだけなんだ。俺が拒否したらどうする? みんなに責められても、俺を庇えるのか?」
「できる」
 加賀のきっぱりした返事に、彰紘は首を横に振った。
「行きたくない。昨日に……違う、もっと前、献血する前に戻りたい。そしたら、絶対絶対献血なんてしない。病気になっても、血液検査もしない。戻してくれ……。戻りたい」
「お腹、空いてないか?」
 気の抜けるようなことを言われ、彰紘は顔を上げた。
 けれど尋ねられると、確かにお腹は空いていた。昨日からほとんど食べ物を口にしていない。飲み物だって、途中で一度、缶コーヒーを飲んだだけだ。
「この道を抜けると、住宅街に出る。コンビニぐらいはあるだろう。君は疲れているんだ。本当ならゆっくり寝かせてやりたいが、ここでは危険なんだ。だから、腹に何か詰めれば、その弱気も吹っ飛ぶさ。私は本当のことしか言わない。君の許可無しには、誰にも君に指一本触れさせない。どんな時も君の意思を尊重する。約束しよう。だから、安全な場所で、君を保護させて欲しい」
 手を差し出された。
 疲れきって駄々をこねた彰紘を、大人だろういい加減にしろと突き放すこともできたはずだ。面倒だと思ったら、あいつらのように脅して連れまわすこともできたはずだ。
 けれど最初こそ強引だったが、彰紘の安全のため以外の行為は全て丁寧で、無理強いはしていない。言葉遣いも、相手をバカにすることもなく、紳士的に対応してくれる。
 差し伸べられた手が頼もしく見えて、彰紘も手を伸ばした。
「俺が嫌だって言ったら、絶対に、何もしない?」
「しない」
 力強い言葉。澄んだ瞳に嘘は見えない。
「俺のこと、守ってくれるの?」
「必ず」
「俺が、これから断るためにそこへ行くと言っても?」
「もちろんだ。だが、道中に説得くらいはさせてくれ」
 加賀はそう言って微笑みを浮かべた。
 朝陽がさし昇り、木の葉の朝露に反射して、キラキラと光った。
「じゃあ、いく」
 彰紘は加賀の手を頼りに立ち上がった。





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