再び車内は沈黙し、車は彰紘のまったく知らない場所を走っていた。
 気まずい静けさと軽い振動、昨夜のゲームで睡眠不足だった彰紘は、まぶたが重くなってきた。
 眠ったりしたらどこへ連れていかれるのかわからない。そう思うのに、身体が左右にゆっくり揺れそうになる。
 がくりと首が前に倒れた時、タイヤが軋みをあげて車は急停止した。
「な、なんだよ」
 彰紘ははっと目を覚まして、辺りを見回した。
 運転をしていた加賀が、険しい表情で前を睨みつけていた。
「どう……したの?」
 あまりに加賀が厳しい顔をしているので、不安に鼓動が早くなる。
「待ち伏せされていた。……この先からは一本道だから」
「ええっ……何も、見えないけど」
 彰紘がダッシュボードに身を乗り出すようにすると、加賀は肩を掴んで後ろへと勢いよく引っ張った。どしんと背中がシートにぶつかる。
「何すんだよっ!」
 彰紘は声を上げて抗議したが、加賀は車を急発進でバックさせた。
「いい加減にしろよ、てめー」
「シートベルトを外せ。車を止めたら飛び降りて、とにかく真っ直ぐ走れ」
 さらに抗議をしてやろうと口を開けた彰紘だが、加賀の真剣な表情に言葉を飲み込んだ。その時、前方に眩しい光が灯った。
「真っ直ぐ走って、少し広めの道に出たらタクシーを拾え。タクシーに乗ったら、10分だけ待て。10分待っても、俺が来なければ、この場所に行ってもらうんだ。いいな。今のように無防備に身を乗り出すな」
 加賀は運転しながらも、胸ポケットから一枚の紙片を取り出して、彰紘に押しつけた。
 対向車のヘッドライトが彰紘を照らし出す。
「伏せるんだ!」
 叫び声に思わず身を伏せた。びしっという音とともに、伏せた背中にパラパラと何かが降り注いでくる。
 彰紘はようやく、自分の身に降りかかる危険を悟った。
 怖い。恐ろしいという気持ちが、身体を固くさせる。
 ガクンと車が止まると同時に、激しい振動と耳を裂くような音が彰紘を襲った。
「出ろ! 走れ!」
 加賀の叫び声が聞こえなければ、しゃがみこんだまま、動けなかっただろう。身体を押し出され、車外に転び出る。
「行け!」
 何も余裕はなかった。震えて竦みそうになる足を前に出せたのは、死にたくないという恐怖から、一歩でも遠ざかりたいという、動物の本能だったのかもしれない。
「振り返るな!」
 その声と同時に、パシンと足元で何かが爆ぜる。ホームの時と同じだと感じた。多分、拳銃の弾丸が、彰紘の足元に当たったのだ。
 後ろではタイヤの擦れる甲高い音と耳を劈くような衝撃音がした。
 加賀は無事なのかと気になったが、振り返れなかった。命令されたのもあるが、誰かが自分を追って来ているかもと思うと、怖くてできなかった。
 言われたとおりに真っ直ぐに走ると、目の前に広い道路が開けた。土地勘が無いので、道路の名前はわからなかったが、道路に出て、車が走ってくる方向に向かって走った。
 外灯の明るさが嬉しくもあり、怖くもあった。自分の姿が、追っ手にはよく見えているのではないかと心配になった。
 タクシーはなかなか来ない。テレビドラマのように、うまくは行かないものなんだと妙に悟ったことを考えてしまう。
 せめて派出所でもあればいいのにと泣きたくなった。
 けれど信号を一つ分走ったところで、空車が来るのを捕まえられた。
「あそこ信号のところで10分だけ待ってください」
「10分ですか? ちゃんと走らせてくれるんでしょうねぇ?」
 のんびりした運転手の声にいらっとしながら、彰紘は窓にくっつくようにして自分が走ってきた通りを見詰めた。
 タクシーのラジオは軽やかな音楽を流していて、途中に入るMCも楽しそうだったが、今は彰紘の気持ちを苛立たせるだけだった。
 通りの向こうは見えない。自分が走ってきた距離も、思い出せないくらい必死で走った。
 向こうの車は一台に見えた。何人乗っていたかはわからない。
 けれど、駅のホームでも拳銃を平気で撃つような奴らだ。加賀一人で防ぎきれるのだろうか。そして加賀の身の安全も心配だった。
「お客さん、どうします? もうすぐ10分ですよ」
「えっ! もう?」
 逃げる時間はこれでもかというほど遅く、待つ時間はこんなにも短い。
 10分たてば走らせろと言われていたが、これから一人になるのかと思うと、今まで以上の恐怖が襲ってきた。
「どこへ行きますかー?」
 彰紘の様子など気にもかけないように、運転手はギアをローに入れ、ハンドブレーキをおろした。
「あ、あぁ……」
 どこへ行くのかと聞かれ、彰紘は紙片を握りしめていたことを思い出した。
 あまりに強く握りしめていたため、それはくしゃくしゃになっている。
「あの、ここへ」
 震える手で取り出した紙を広げていると、ドアの窓がノックされた。
「お連れさんですか?」
「開けないで!」
 思わず叫んでいた。
 タクシーのドアを開けようとする運転手を必死の形相で止めていた。
 追っ手が来たのだと、そう思い込んだのだ。
 運転手はびっくりして手を止めている。
 彰紘は怯えるように両腕で頭を抱えて、シートにしゃがみこんで、恐る恐る窓の外を見た。
「あ……、あぁ……。加賀さん!」
 ぴたっとドアにへばりついて、彰紘はタクシーに乗っていることも忘れて、ドアを開けようとノブに手をかける。が、ドアは開こうとしない。
「開けてもいいんですね」
 怒ったような運転手の声に、彰紘はこくこくと頷いていた。
 ドアはあっけなく外に向かって開く。ドアにつられて道路に落ちそうになるのを加賀が受け止めてくれた。
 加賀は素早く車に乗り込むと、荒い息の合間から、運転手に彰紘の知らない地名を告げた。
 タクシーが出てからも、何度か後ろを振り返る。
 厚木ではない地名に、彰紘は不安気に加賀を見た。手は震えるほど強く、加賀の腕を掴んでいた。
「あ、……あいつらは……」
 彰紘が小さな声で尋ねると、加賀は「もうおっては来ない」とだけ答えた。
 ちゃんと答えてもらえたことにほっとしながらも、何故追ってこないのか、どうして追ってこれないのかが気になった。
「追ってこないんなら、もう厚木に行っても、大丈夫なんじゃ……」
「奴らは一組だけじゃない。このまま厚木に向かうのは危険すぎる。どこでどうはられているか、わかったもんじゃない」
「じゃあ、じゃあさ、警察に行こうよ。あいつらも、警察まではこないよ」
 彰紘にとって警察は、今や一番安心できる場所のように思えた。
「駄目だ。警察では君を守りきれない。そんな道理が通用する相手じゃないんだ」
 彰紘は顔を歪めた。もうどうしていいのかわからない。ぽんぽんと加賀が握り締められた手とは反対の手で、ぎゅっと力をこめている彰紘の手を安心させるように叩いた。
 まだ加賀の手を握りしめていたのだと気がついて、彰紘は慌てて手を離した。
「お客さん、厄介ごとは困りますよ。騒ぎが起こるようなら下りてもらいますよ」
 運転手は迷惑そうに話しかけてくる。
「大丈夫です。最初に言った場所で下ります」
 加賀の硬質な声に、運転手は渋々といった様子でアクセルを踏み込んだ。一分でも早く、彰紘たちを下ろしたくなったのだろう。
 それは二人にとってもありがたいことだったので、それからは口を閉じることにした。



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