螺旋の伝言




「喜多田(きただ)彰紘(あきひろ)君だね」
 電車を降りたばかりの彰紘は、ホームの中央付近で名前を呼ばれた。大学からの帰り、これからアルバイトに向かう、乗り換えの駅だった。
 振り向いた彰紘が見たのは、黒のサングラス、黒のスーツ、百七十センチの標準の少年が見上げなければならない長身の、二十代半ばに見える男だった。
 見ず知らずの不気味な大男に突然声をかけられれば、誰だって怯えるし、逃げたいと思うだろう。
 彰紘は黙ったまま男を見上げ、何か捕まるようなことをしただろうか?とここ数日の己を振り返った。
 一週間前に友人の弁当を食べたことは、サンドイッチを買って返したことで示談が済んでいる。
 三日前に英語のテストでカンニングしたことは、確かにいけないことだろうが、クラス全員がやっていることなので、自分だけが捕まるとは考えにくい。
 では昨日、家で母親が大切にしまいこんでいた煎餅を盗み食いしたことは……と考えて、自分のみみっちしさに悲しくなった。
 捕まえられるような悪いことはしていない。していないが、男として不甲斐ないような気もした。決して善良とは言えないのだが、かといって一端の悪さもできない。
 ここでおとなしく捕まって、そのみすぼらしい罪の中からどれかを……どれでも……告白するのは嫌だった。
 それに、目の前の男は警察の人間には見えなかった。こういう場合、テレビドラマでも、刑事はまず警察手帳を颯爽と出すものだろう。
 だから彰紘はくるりと回れ右をした。逃げるに限る。
 警察なら叱られて帰されるだろうが、暴力的な組織の男だとすると、命の補償はないかもしれない。
 脱兎のごとく彰紘は走り始めた。
「待ちなさい!」
 冗談じゃない。彰紘は必死で走った。帰宅ラッシュで混み合うプラットホームを。人込みに紛れれば、逃げ出せると信じて。
 人込みを縫うように彰紘は走る。ぶつかりそうになる人を掻き分け、階段へと向かう。階段を下りて地下鉄のホームを通り抜けて反対側の階段を上ればすぐに改札で、夜の街に出られる。人込みと路地を利用すれば、逃げ通せると考えた。
 黒づくめの男は背の高さを利用してか、彰紘を見失うことなく追いかけてくる。
 しつこい奴め。彰紘は心の中で罵りながら、あと一歩で階段にたどりつける……そう思った時、彰宏の足元で、軽い破裂音がした。そして沸き起こる悲鳴。
 今の音は何だろうと、彰紘はつい足を止めてしまった。
「こっちに来い!」
 ぐいと腕を引っ張られる。引っ張られた手の先を辿ってみれば、先ほどの黒ずくめの男だった。
「離せよ!」
 男は人込みより飛び出た頭で、悲鳴の方向を気にしながら、彰紘を引っ張って逃げようと必死だった。彰宏が見下ろすと、三、四人の男が手に黒い塊を持って、こちらに向かって、人をはねのけるようにして階段を上ってくるところだった。
 その男たちも黒っぽい服装だったが、日本人には見えなかった。白い肌に赤茶色の髪、口から出ている言葉は聞き取れない言語だ。
 男たちの持つ黒光りする拳銃を目にして、あちらこちらで更に悲鳴が上がっている。
「何、あいつら」
 信じがたい光景に、彰紘はパニックに陥っていた。
 男たちは真っ直ぐに彰紘を見ていた。拳銃を構え、今にも発砲しそうだったし、構えていない男は彰紘に向かって何か言いながら走ってくる。
 恐怖に足が竦んで動けなかった。弁当や煎餅を盗み食いなどしなければよかった。もうカンニングもしないと、彰紘は今更ながら心の中で懺悔を繰り返した。
「だからついて来いと言っている」
 固まったままの彰紘に天の声のような響きが聞こえた。男が彰紘を見ていた。いつの間にかサングラスは外されていた。その濁りのない、透明な水のように澄んだ、それでいて強い光のその瞳を見て彰紘はとにかく、この男についていこうと、腹を括った。

「で、あんた、誰。どうして俺のこと、知ってんの」
 男は駅員の制止を振り切ってホームの柵を乗り越え、タクシーに彰紘を押し込め、闇雲に走らせ、その後タクシーを二度乗り継いだ。そして二人は今、男が借りたレンタカーに乗っていた。
 この男はあの男たちのように突然発砲はしないとわかったが、だからと言って安全だとも限らないと彰紘は思ってた。
 いつ逃げようかと、彰紘はその機会をうかがいながら、男の素性を尋ねた。
「私はある人に、君を連れて来るように頼まれた」
「ぜんぜん答になってないだろ。俺はあんたの名前を尋ねたの。ちゃんと答えろよ。許さねーぞ」
「とにかく、今は安全な場所へ向かうのが最優先だ。私は君を、生きて連れて来いと依頼された」
 男は始終うしろを気にしながら、気まぐれに角を曲がったり、赤信号ギリギリで交差点を曲がったりするので、何度もクラクションを鳴らされた。
「だーかーらー、あんたは誰なんだってば」
「仲間と落ち合いたい」
「あんた、日本語通じるよね? 日本語喋ってるもんね? 俺の言ってることわかるよね? どうして質問には答えてくれねーの? どうせ聞いても無駄だろうけどね。でさ、安全な場所って、どこだよ」
 生きて連れて来いと言われたということは、その場所までは命の補償はしてもらえるのだろう。だが、そこから先は?
 彰紘はどうせ答えてくれないだろうと諦めながら、男に質問を繰り返した。
「そうだな、このまま厚木に向かおうと思う」
「厚木って……千葉の?」
「………………神奈川だ」
 彰紘はむっとして……ようやく口を閉じた。
 身元もわからぬ男とのドライブは、不快の一言に尽きた。信号で止まるたびに逃げ出そうとすると、男は敏感に察知して、彰紘を引き止めた。
 途中で警察署や警官の姿は見えないだろうかと探したが、こういうときに限って全然見当たらない。
 酔うほどに進路を変えていた車は、男が厚木に向かうと言ってからは、曲がることも少なくなっていた。
 けれど、幹線道路を走ることはなく、高速道路にも上がろうとしない。
「厚木に行くんだったら、高速使ったほうが早いんじゃないの?」
 まともな答えが返ってくるとは思わないままに、気まずいドライブが嫌さに、独り言のつもりで呟いた。
「高速は駄目だ。あいつらが張っているだろう。大きな道路も駄目だ。外国人にはわかりにくい路地が一番安全だ」
 はじめて会話が成り立って、彰紘はむしろ驚いてしまった。
「まだ追いかけてくると思う?」
「必ずね」
 断定されて、彰紘は派手に溜め息をついてしまう。
「いったい俺が何したって言うんだよ、くそっ」
 助手席に座ったまま足を抱えあげる。
「君は先月、献血をしただろう?」
 また会話が成立しなくなった。
 けれど男の言葉に、彰紘は先月の出来事を思い出した。
「まあな」
 大学の夏休みが終わった日のことだ。
 まだ真夏のように暑くて、汗が噴出すように流れ出していた。
 目の前に差し出された団扇に思わず手を出してしまった。にっこりと笑う女の子のスカートの短さに、つい暑さも忘れそうになる。
 そして誘われるままに名前を書き、献血のバスに乗り込んでいた。
 バスは涼しかった。400ccの献血はあっという間に終わり、冷たいジュースを差し出してくれたのは、白衣を着たおばさんで、なんだか騙されたような気になった。
「君のDNAが、ある重要な研究を解く鍵になる、と思われる。我々は色々な機関で手に入れたDNAを調べていて、君の血液がそれに引っかかった」
「はあ?」
 日本語のはずなのに、言葉が通じないような気がする。というか、意味がまったくわからない。
「その研究は最近になって発見された古文書に記されていたもので、動物の遺伝子に関わる重要な研究だった。惜しむらくはそれが書かれた時代には遺伝子という言葉すら見つけられなかったために、神憑りの言葉として取り扱われ、預言書めいたものとして言い伝えられて、今まで陽の目を見ることがなかったんだ」
 ますますわからない。わからないなりに、何か重要なことを言われているだろうことはわかる。
「科学はいまや格段に進歩し、遺伝子治療も、遺伝子操作も可能になった。だが、そこで人類はある壁にぶち当たった」
「壁?」
 車は深夜の街を、狭い道を選ぶように進んでいる。まるで迷路のようだ。
 男は道をちゃんと知っているのだろうかと、ふと不安になった。
 厚木が何故安心なのかはわからないが、他に安全な場所も彰紘にはわからない。
「そうだ。解明が進めば進むほど、我々はある単純な疑問に返らなければならなかった。そこだけがどうしても解き明かせない。無視して進めば、またそこへ戻るというトラップのようだった。そこで注目されたのが、かの預言書だった。これを預言書ではなく、科学書だと解釈すれば、、我々は完成へとたどりつけると思われた。我々は歓喜に満ち、それを解明しようと躍起になった。なのに、単純な螺旋の記号がどうしても解析できなかった。全世界で完成を待たれている。我々はとても焦った」
「それと、俺が、何の関係があんの? まさか、俺、関係ないよな?」
 まるで次元が違う。
 彰紘はそう思った。
 難しい話だったが、男がわかりやすく説明しようとしてくれたおかげで、世界レベルの大変重要な研究だということはわかった。
 だとすれば、彰紘には関係がないはずだ。
「我々は何が不明の原因かと同時代の似た文書を探し、そしてその螺旋を解くにはある人物のDNAが必要なのだとわかった。DNAの塩基はたったの四種類だ。けれどその組み合わせは天文学的数字になる。とてもじゃないが、研究だけでそれを作り出すことは不可能だった」
 男の説明は続いた。
 あれだけ聞きたいと思っていたことなのに、今は聞きたくなくなっていた。
 じわりじわりと締め付けられるように、逃げ出せない自分を感じていた。
「とあるパターンだけはわかっていた。それだけでもと調べた結果、そのパターンがモンゴル系の人物に見られるパターンで、しかも非常に珍しいものとわかった。もしかしたら、現代人の中にも、そのDNAを持つ者がいるかもしれない。我々はあらゆる機関を通じて、可能な限りのサンプルを集めた。そしてやっと見つけた」
「嫌だ……聞きたくない」
「君のDNAがそれを解く鍵になるようだ」
 聞きたくないといった彰紘に、男は宣告した。
 とことん、言葉が……いや、意思の疎通ができない相手だと彰紘は唇を噛んだ。
「だったら、血でも、髪の毛でも、なんでも持ってけよ。俺を捕まえる必要なんてないじゃん」
 自分の与り知らぬところで、急流に呑み込まれていくような気がして、彰紘は本当の恐怖を感じた。
「ところが、必要なのはDNAだけではなく、同時に君の心拍や脳波も必要なんだ。他に必要なものも出てくるかもしれない。だから、我々は君が必要なんだ。それに、どこからか情報が漏れて、反対勢力が君を狙っている。彼らに君を奪われれば、地球は最後だ。君の保護と警護。それが私に課せられた使命だ」
「そ、その、地球規模の危機って……何? 俺って、そんなに危険な存在なのか?」
「どのような事象にも表と裏は存在する。君は、原子力爆弾のそもそもの発見はなんだったか知っているか?」
「知ってるわけねーじゃん。俺は日本の総理の名前も知らないバカだよ。大学だって、名前を書けば白紙でも合格させてくれるバカ大だし」
 彰紘の恐怖が嵩じた開き直りに、男は呆れたように息を吐き出した。
「原子……陽子と中性子の発見は正しい方向に使えば、人類は莫大なエネルギーを手に入れられ、発展することは間違いがなかった。けれど、悪しき方向に使えば、人類を滅ぼす悪魔の兵器となる」
 難しい科学の話をするのに、男は時折文学的な表現を使う。
「原爆が日本に落とされたことは……知っているな?」
 男は急に不安になったのか、彰紘に確かめてきた。
「そっ、それくらいはさすがに知っているよ。俺だって、小さい頃は、それなりに勉強もしてたんだよ」
 安心したのか、男はふっと笑った。
 その表情に、彰紘もほっと一息つく。
「でもさ、俺がバカなのは正真正銘なんだって。そんなバカのDNA使ったりしたら、その研究、失敗しねぇ?」
「DNAの配列と頭の良し悪しは関係ない」
 難し過ぎるこの説明で最低限わかったことは、この男から逃げ出せたとしても、危険はちっとも減らないらしいということだ。
「他に質問は?」
「何が質問かもわかんねーや、もう。それに、あんたがいい人がどうかも、わかんないし」
「私はナスダの加賀京一だ。信用してもらうしかない」
 やっと男の名前を聞くことはできたが、名前を聞いただけでは、男の素性はわからなかった。
 だからナスダってどこの地名だよ、と訊こうとしたが、さっきの千葉・神奈川のこともあるので、彰紘は黙った。
「本当に、総理の名前を知らないのか?」
 ぶすっと黙っていると、加賀が尋ねてきた。
「知らねーよ。俺の生活にはかんけーねーもん。あ、でも、都知事の名前は知ってる。あ・お・し・ま」
「………………石原だ」
「えー? 湾岸署じゃなくて、西部警察かよ」
 溜め息と共に、しらけた沈黙が車内に充満した。



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