SELENE
Yield to Temptation
<4>
なんとも言えない沈黙が、狭い車内を圧迫していた。スピーカーから流れるBGMが、辛うじてぎこちない空気を宥めてくれてはいるが、残念ながらそれ以上良好な効果は期待出来そうもない。
程なくして、学校を出てから順調に青を表示していた信号が赤に変わり、車がゆっくりと停止した。
京といえば、車に乗せられてからというもの景色が目にはいる余裕などなかったが、勤めて前を見るのに集中し、拓也に何かを問われた時にはどう答えようかと、それだけを懸命に考えている状態だった。
正面を向いていても、拓也の視線を感じる。見なくても解ってしまう問いたげな視線に耐えられず、そのくせ自分から何かを言い出す訳にも行かず、京は困ったように目を伏せた。
運転席に座る人の身動きにあわせ、ゆっくりと空気が揺れると同時に車のシートが軋む音を立てた。
拓也が京へと触れようと、手を伸ばしてくるのだと解った。
「京?」
労わるような囁く声。
昼間、勝也にされたのと同じように、それよりももっと優しい指先が前髪に触れ、その瞬間、ピリ……と痛みが走った。
「……っ」
今まで少しも感じなかった痛みが突然京を襲う。竦むように逃げた身体は反射によるものだったが、それよりも湧き上がる戸惑いのほうが強く、京はどうしてよいのか解らないくらい強い衝撃を受けてしまい、自分でも信じられないほどうろたえた。
「痛い?」
静かな声が本人よりも痛みを感じているようで辛い。京は左右に首を振り、取り合えずといったように否定する。
「……大…丈夫」
「…………そう? でも……、あ」
拓也が続けて何かを言う前に信号が青に変わり、声は小さなため息に変わった。運転手の未練を少し引きながらも、車は何事も無かったように前へと進み始め、また少し前と同じような気まずさが車内を包み始める。
「眼鏡、どこで作るの?」
拓也の問いに、京は少し戸惑った沈黙の後、以前眼鏡を作った店名と簡単な住所をポツリと告げた。
眼鏡を作る所など、別に決まった店があるわけでは無いが、新しく探すのも面倒だった。前回作った場所ならば、顧客データーくらいは残っているだろうし、その分、煩わしい手間は省けるだろう。その店の名前を告げたのも、そんな理由だけだった。
「今回もそこでいいのかな」
「うん……」
「解った」
大よその場所でも知っているのか、それ以上情報を求めない拓也は、無言のまま車を走らせる。京が伝えた店は、電車では多少乗り継が必要な場所だったが、車ならば案外簡単に到着してしまうような位置にあった。
エントランスをくぐると同時に、愛想の良い店員に如才なく接客され、簡単な視力検査の後、やはり以前よりも落ちていた視力を数値で見せられる。必要以上に言葉少なく、親密と余所余所しさの間のような微妙な距離を保ちつつ、京は拓也と共に新しいパーツを選んだ。
時折言いようのない不安に襲われ、縋る様に拓也の顔を見てしまう。そのたびに視線が合い、柔らかく微笑まれるのに少し安心し、それよりもほんの僅か多い分だけ気持ちは沈んだ。
結局今回も、今までとあまり変わらないフレームレスのデザインに決まったが、特殊なレンズの為、出来上がりまで数日かかると告げられ承知する。
店を出ると既に外は暗く、駐車場へ歩く足取りは、昼間の時よりも更に重くなってしまっていた。
「京……?」
いつのまにか立ち止まってしまった京は、戻ってきた拓也に俯く顔を覗き込まれる。
「どうしたの?」
問われて、京は髪を左右に揺らした。
あれほど隠し事はしないと誓った約束を、京は破ってしまったのだ。
「拓也さん……怒ってる……よね」
当然の怒りを、解っていながら聞いてしまう。聞いてしまってから、謝罪のきっかけを求める自分の狡さに気づき、喩えようのない嫌悪が沸いた。
自分の不注意で怪我をした。黙っていたのは拓也に気を使わせたくない一心での行為だったが、理由はどうであれ、この事を隠そうとしたのは事実だ。それでも面と向かって問われれば、どうにか答えも出来ただろうが、京を迎えに来た時から、拓也はまったくこの話題には触れてこない。
きっかけが掴めず、取り付く島もないような状態で、どれだけの怒りが拓也の中にあるのか、京には想像もつかなくて、ただ申し訳なさだけが延々と積み重ねてゆくしかなかった。
「ごめんなさい……」
言い訳をする気は無い。そしてこの場合謝るのは自分のほうで間違いは無い。
だが、何故か拓也は心底意外だという表情で京を見つめた。
「どうして京があやまるの。謝らなくちゃいけないのは僕のほうでしょう?」
「……なんで…………?」
「京にこんな怪我させたのは僕のせいだ」
拓也が何を言っているのか、京には解らなかった。
「ちが……」
「違わないよ」
即座に否定されてしまい、京は続く言葉を詰まらせた。
「じゃあどうしてそんな風に僕に気を使うの? 勝也から京がいつどんな風に怪我したか、大体聞いたけど……、昨日の今日で、原因はどう考えても僕にあるとしか思えないでしょう?」
京は違うと、ただ首を振る事しか出来ない。
「京は……僕が気にすると思って、隠そうとした?」
「違う…… 拓也さんは何も……」
自分が思う真実ではなく、こんな風に誤解されたくないからこそ、拓也にだけは知られたくなかったのに。だからこそ尚更、理解できない言葉の中にあっても、たった一つだけ伝えなくてはならない気持ちがある事だけは忘れてはならない。
「そうじゃなくて……、……俺が怪我したのは自分のせいだよ」
否定を繰り返すしか出来ない京に、拓也はふっと小さく息をついた。
「京、全部自分が失敗した事にしてしまえばいいと思っている?」
「そうじゃないけど……でも、違う」
気持ちは喉のここまで出かかっているのに、形にならない言葉。
「ね…………、京、車に行こう?」
こんな所で立ち話もないと思ったのか、拓也は京の肩をそっと抱き寄せ車に連れてゆくと、助手席へと座らせてくれた。
拓也が運転席へと廻り発進するまでの、きっかけにはおあつらえ向きのわずかな時間を、京はただ呆然と過ごしてしまう。どこから話を始めてよいのか解らないまま、重苦しい空気が再び車内に充満し始めた。
「送るよ。……しばらく、ちゃんと治るまで無理しなようにしないと」
「…………うん」
流石に今日は早く帰って来いと母親から言い含められている。何も言わずとも、ここまで察してくれる拓也に、感謝しながらも、申し訳なさがその気持ちを凌駕してしまう。
痛々しそうに京を見つめる琥珀の瞳が、脳裏に焼きついて離れない。
このままではいけない。誤解を解きたいと切望しても気持ばかりが焦り、言葉にならず、時間は流れ落ちる砂のように過ぎてゆく。
気がつけば目の前に、家の門が近づいていた。
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