SELENE

 

 Yield to Temptation

 


 


<5>

 ゆっくりと停止したソアラが、静かにエンジンを止めた。
「ついたよ」
 静かに告げる声に京は黙って肯いたが、一向に車から降りようとしないので、拓也は戸惑ったような顔を見せる。
「具合悪い? 酔ったかな?」
 平気だという意味を含めて、京は拓也の顔を見つめ首を振った。何より、誤解されたまま離れるのは辛かった。
「拓也さん……」
 ハンドルを握ったまま難しい顔をしている拓也へ、京は呼びかけるように声をかけた。
「あのね」
 そう言ってしまってから、急に京は自分が何を言いたかったのか解らなくなり、言葉が霧散してしまった。
「ん?」
 焦らなくても良いと言うような、優しく促すような返事をしてくれた拓也の声に背中を押される。
「なんか……上手く、……言えないんだけど」
 捕らえ所のない本心。どうしていつも自分は、気持を上手に相手に伝える事が出来ないのだろうかと思う。この怪我は自分が寝ぼけた挙句、転んだために出来てしまったもので、拓也には何の責任も無い。だからそんな顔をしないで欲しい。たったそれだけの事が、どうして伝えられないのだろう。
 京はジレンマに振り回されるように視線を左右に揺らしたが、結局小さく息を漏らしただけで黙ってしまった。
「どうしたの?」
 拓也の優しい瞳が京を見つめ、指先がそっと頬に触れる。
 温度。拓也の体温が伝わる。甘く痺れる様な刺激が、小波のように肌の上を走った。
「あ……」
 瞬間、漠然としていたものが突然明確になり、京は今まで当たり前の真実と思っていた表面的な理由ではなく、無意識に見ないようにしていた『本当の理由』を見つけてしまう。
「京?」
 拓也に名前を呼ばれたことをきっかけにして、突然顔が赤面するのが解った。茹で上がったばかりの何かのように、頭から湯気が出ているかもしれない。
「や、……えと、だから」
 しどろもどろの京に腕を掴まれている拓也は、訳がわからないと、珍しく困った顔をする。
「京? どうして、そこで赤くなるの?」
「あ、あかい?」
「うん」
「え、ああ、……うー」 
 京が赤面する理由などそれほど多くない。今頭に浮かんでいるのは、とんでもなく恥ずかしい事実の記憶というもので、頭の中が文字通り焼き切れそうなだけだ。少し落ち着いて考えたい。家は目の前にある。だからそれは可能だ。でも、ここでなんの解決もないまま、拓也と離れてしまう事だけは、どうしても出来なかった。
「あの……ね」
 恥ずかしさともどかしさに唇をかみ締める。
「確かに拓也さんと……、その、……しな…ければ……、こんな事にはならなかったとは……思うけど」
 うまく言葉が選べず、こんなストレートな物言いしかできない。言いながら自分の語彙の少なさに心底がっかりしてしまうが、ここで止める訳にはいかなかった。
「ほら、悪いのは僕だ」
「悪くない。だって……これは今までも……何度かあった事で。今朝はたまたま色々な事が重なっただけだし」
 違う。言いたいことはこんな事ではない。
「うん。だからせめて僕に謝らせて。こんな怪我をさせてしまって……。京を大事にしたいと心から思っている事に嘘は無いのに、こうやって見えないところで無意識に傷つけてしまう」
 辛そうな声が痛い。
「違う」
 自分でも悲鳴のような声だと京は思った。
「まって、あのね……」
 京は覚悟を決めるように小さく息を詰め、そして震える息を吐き出すように言った。
「俺が拓也さんに黙っていたいと思ったのはね、心配かけたくないってのもあったけど、本当は……恥ずかしかったから…だよ」
「どうして? 怪我をしたことは別に恥ずかしい事じゃないだろう?」
「……恥ずかしいよ、こんなの。かっこ悪いし。いや、……でもその恥ずかしいっていうのとも意味が違うっていうか、部分が違うっていうか」
「……? 京、ごめん、意味がちょっと解らない。何故京が僕に恥ずかしいって思うの?」
「それは……俺が……、まだ全然駄目で……」
 昨日の酷い滝のような大雨は、巨大な雷を伴い、嫌でも京の過去の記憶を蘇らせ苛み苦しめた。解っていて尚、振り回される感情に精神が耐えられず、迫ってくる暗闇から逃れようと、縋る様に拓也を求めたのは京のほうだった。
 纏わり付いて離れない不安を、求めて止まないただ一人の人に抱かれる事で、忘れさせてもらいたかったのだ。
 ――拓也。
 蘇る自分の声。
 どうして今まで忘れてしまっていたのだろう。どうして同じものとして考えられなかったのだろう。
 誘ったのは自分。あまりの身勝手さと羞恥で、頭の中の何かが焼ききれそうになる。そんな京の願いを拓也は聞き入れてくれた。その拓也が悪いなどという事があるだろうか。
「なのに、さ、……誘っ……たの…………欲しがったのは俺だったでしょ? だから、なんか、すごく恥ずかしくて……言えなくて内緒にしたかった……みたい」
 他人事のような締めくくりだったが、全てを言ってから、京は更に顔を赤く染めた。
 心配をかけたくないというのも本当だが、どちらかというと、後から気が付いた、こちらの理由のほうが正しい。
 思い出すほど浅ましい自分が恥ずかしく、しかも招いた結果は目を覆うばかりの情けなさに、居たたまれなくなる。もう何処かに消えてしまいたくなるのを必死に堪え、京は他に誤解を解く手段がないまま、途切れながらも懸命に言葉を綴った。
「拓也さんにさっき触られた時、ここ、痛かった」
 京は自分の額を指差す。
「お医者さんにも勝也にも……触られても、痛くも何とも無かったのに」
 京は拓也の手にそっと触れる。
「…………拓也さんだけが、俺にちゃんとした感覚を取り戻させてくれるのが嬉しくて……昨日も、ちょっと欲しがりすぎた」
「京……」
「拓也さんは、……俺がほんとに嫌がったら、……やめてくれるでしょ?」
「それは……」
「その逆も…だよね?」
 解ってもらえただろうかと、黒い瞳が伺うようにそっと拓也を覗き込む。
「だから、そういう事……なんだけど」
 いつもながら自分の説明には”落ち”が無いと、己の喋りの下手さに気が遠くなる。それでも少しは伝わっただろうかと京は拓也の言葉を待っていると、「うーん……」と、何かを考えるように押し黙ってしまった。
 奇妙で落ち着かない気分が後悔と共に押し寄せてくる。またしても京は、拓也が次に何を言うのか、それだけを待っている状態に陥ってしまった。
 これ以上説明することも出来ず、どうしようかと落ち着かない京を前に、突然拓也は何かを吹っ切るように髪を掻き揚げた。
「じゃあ、今回のは誰も悪くないっていう事……かな」
「え、でもこれは俺が……」
 咄嗟に否定する京の唇に、そっと拓也の指先触れる。
「京、これは二人の問題でしょ? どちらが悪いとか両方悪いとか、そんな風に思っても全然面白くないよ。だから二人とも悪くない。……これはそうだな、所謂若さゆえの暴走ってことで……いいかな?」
 真面目に言い切った後、突然ウインクして微笑んだ拓也に、気負っていた京は少し気が抜けたようになってしまった。
「でも僕は、京が苦しかったり怪我をしたりするのは嫌だよ」
 真剣な眼差しと微笑む声が優しく混ざり合い、京の耳元に届く。。
「だから……そうだな、色々。そう、我慢も含めて……僕も努力します」
 おどけたように言う拓也に、京は素直にありがとう、と小さく微笑み答えることが出来た。
 掠めるようなキスが瞼に一つ落ち、車のシートの上で繋いだ手に力が篭る。
「愛しているよ」
「……俺も」
 耳元で囁かれる愛の言葉に、京はようやく安心して身体の力を抜いた。
「京が僕を欲しいって言ってくれるの、とっても嬉しい」
 京の頬がまた熱くなる。それを見た拓也が、もっともっと欲しがって、と熱っぽい声で京を煽る。
「なんかもったいないね。もっとちゃんとキスしたいけど……、ここじゃ無理かな」
 いかにも残念そうな拓也の言葉に心が揺れたが、流石に家の前では止めて欲しいと答えるしかない。けれど、もう少し一緒にいたいと思っても良いだろうか。
「拓也さん、……今日はうち、母さんいるから晩御飯ある。もしよかったら一緒に……」
「でも」
「香那子さんほどじゃないけど、うちの母さんのご飯もまぁまぁいけるとおもうよ」
「あー」
 そういう事では無い、と言う様に、拓也は困ったように微笑む。
「今夜、父さん居ないのに?」
 あまり上手く出来たとは言いがたいが、少し甘え、拗ねたように京が言うと、僅かに間を置いた後、拓也は笑ってくれた。
「お父さんが居ても、僕は全然構わないけど」
 やせ我慢じゃないよ、と付け足しのように言った拓也が可笑しくて、京は久しぶりに声を出して笑った。






END

 





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