SELENE

 

 Yield to Temptation

 


 


<3>

「俺やだよ。怒るとすげー恐いしあの人」
 『誰にも』の誰が誰にかかるのか解りきっている勝也の、あまりにもそっけない返事に、京は思わず眉を下げた。
「だから……、気付かなかったふりして……くれれば」
 珍しく目に見えるほど情けない顔で、たったそれだけで良いのだと哀願してみる。
「無理。同じクラスで、これだけ一緒に居て気付かないなんて変だろ?」
「うっ」
 ごもっともとしか言いようが無い。
「でも……」
 知られたら、事情を説明しなくてはならないが、こんな情けない話は勝也にするだけででも勘弁して欲しい。そして何よりも、怪我をした事自体、知られたくない。
「大体さー、それ一週間じゃ治らんだろソレ。週末どうすんの、逢うんでしょ?」
「それは……、そうだけど」
 内出血を散らす薬は貰っている。治らないまでも、ガーゼが取れれば少しは違うような気がするのは、都合良すぎるだろうか。
「あ、そだ、俺、今からタクちゃんに電話しよっかな〜」
「えっ? なんで?」
 脈絡の無い展開に、京は心底うろたえる。
「京が眼鏡壊したから作りに行くって言ってたよ〜って。どんな用事があってもぶっちぎり。大喜びで誰かさんを学校まで迎えに来ると思うな〜」
 何故かやたら嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「勝也……」
 点数稼ぎは出来る時にしとかなきゃ、などと楽しそうに笑う親友と呼ばれる友を、京はこんなに恨んだ事は無いかもしれない。
「頼む、やめてくれ……」
「えー? 怪我した事は言ってないじゃん」
「だから……」
 からかわれているのは解るが、どこまで本気か読めないのが辛い。なんとか止めようとしたその時、丁度授業開始のベルが鳴った。これ幸いと自席に向かう勝也の背を、京は恨めしそうに見送るしかなかった。


「勝也……」
 ここにいない友人の名が、思わず京の口から漏れた。遠く校門の向こうに見えるのは、紛れも無く誰の物か問うまでもない黒いソアラ。有限実行、勝也は拓也へ電話をしたらしい。
「まじで連絡することないだろ……」
 京はくるりと踵を返すと、校舎の中へと引き返した。思い切り気が引けるが、流石に今日だけは気がつかなかった事にしてしまいたい。
 下校生徒で混雑する昇降口で、京一人が逆行する。
「ダメだよ」
 開けようとした下駄箱の蓋が、見張るように傍にいたらしい勝也の手で、パタンと閉められた。
「怪我の事も言ったから」
「……」
 どうして、と京は勝也を睨む。
「なんで隠すの? いいじゃん、別にこんな事でお前の事怒ったりしないだろ?」
「……それは、そうだろうけど」
「じゃ、何んだよ」
「あんまり心配かけたくないって言うか」
 これまでも拓也には、通常では考えられないほど迷惑をかけている自覚がある。ましてや昨日の今日だからこそ、こんな自分の失敗で負った怪我などで、拓也を煩わせたくは無い。
 呆れた様に肩をすくめながら、勝也はやれやれとため息を吐いた。
「こう言う時こそ、上手に甘えたら?」
「……」
 それが出来れば今頃こんな所には居ない。
 友人の正当すぎる強い視線を受け止められず、何処を見てよいのか解らなくなった京は、自然と俯いてしまった。
「なぁ、なんでそこで遠慮するんだか解らねー。俺がタクちゃんだったら寂しいぞ?」
 『寂しい』という言葉に、京は咄嗟に外で待つソアラを見てしまう。
「あああああああああああ、面倒くさっ」
 言うなり勝也は強引に京の腕を取ると、問答無用、引っ張るように歩き始めた。
 力強い足取りでどんどん前へ進む勝也とは反対に、ヨタヨタと引っ張られて歩く京。下校時間という事もあり、目立つ二人に視線を向ける生徒も少なくない。京はさらに注目を浴びるだろう拓也の元へと連れられてゆく事を想像するだけで、居たたまれなくなる。
「ま、待てって」
「いーえ、待ちません」
 なけなしの抵抗も即座に却下され、真っ直ぐに黒い車へと引かれてゆく。
「おまたせー」
 当然の如く、京の姿を見つけ車から出て迎える拓也へと引き渡されてしまった。
「ちゃんと届けたからね」
「……ああ」
 感情の見えないいつもより低い拓也の声に、静かな怒りが含まれているような気がして、京は小さく身を竦ませた。
「京、乗って」
 助手席のドアが開けられ、さりげなく背中が押される。
 この期に及んで逃げる事など出来ないくらい、京にも解っている。これ以上周囲に注目されるのも耐えられなかったので、京は戸惑いながらも、大人しくいう事を聞くしかなかった。
「勝也、京を送っていくから少し遅くなるって母さんに言っておいて」
「解ったー。じゃあなー」
 京の心情とは裏腹に、にっこりと笑った勝也に見送られ、ソアラは静かに走り始めた。



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