SELENE

 

 Yield to Temptation

 


 


<2>

 我ながら見事な頭突きだったと、妙に落ち着いた感想が浮かぶ中、傍にあった椅子が、横倒しになる京の身体に引き摺られ共に転倒する。机の上にあった本や資料も一緒に床へ散らばり、部屋の中は一気に酷い有様になってしまった。
「どうしたの?!」
 息子の部屋から、普段はしない大きな物音を聞きつけた母親が、慌てたようにやってきた。 
「転んだ……みたい」
 そう答えながら、ポタっと膝の上に落ちた赤い物をみて、確か鼻はぶつけてない筈だったと、やはりまだどこか呆けた頭が考える。
「はなぢ?」
「なにしてるの……、え? 京!?」
「?」
「やだ……血……」
 頭から血を流す息子を発見した母親は、かなり慌てた様子だったが、頓着なく傷口を傍にあったタオルで押さえた。怯まないのは流石母親といったところか。
「何してるの!」
「え、なにって?」
 沙耶は何度も傷口を抑え、そして見てはタラタラと落ちてくる赤い筋をそれしかないでしょうとばかりに京の腕を掴んで立ち上がらせる。
「止まらないわ、……病院に行かなくちゃ」
「なんで」
「何でじゃないでしょ!」
「……やだ」
「京!」
 怪我をしている事に気付いていない京は、何故自分が病院へ行か無くてはならないのか解らない。
「平気だってば」
「何が平気なの! こんなトコぶつけて血まで出して。早く着替えて、ほら!」
 母は強し。
 普段は大人しすぎるほど静かな母親だけに、この迫力には逆らえず、京は強引に車へと乗せられてしまった。
「大丈夫なのに……」
 まるで根拠の無い言葉だけが宙に浮く。
 朝一番の病院に連れて行かれ、場所が場所なだけに大げさになってしまう。
 京はただ周囲に言われるがまま、ウロウロと動くしかなかった。 
 思ったとおり、傷以外は特に何事もないと結果を貰ったが、治療が終った頃には、京はグッタリと疲れてしまった。
 洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、本日何度目かになるガッカリ感を味わう。
 寝とぼけて机の角にぶつけた額には、今、内出血と大きなたんこぶと裂傷が彩りを添え、でかいガーゼが覆い隠すようにトッピングされている。額に出来た傷とはいえ、生え際に近い場所だったので前髪を上げなければそんなに目立つ訳では無いのだが、止血とテーピングだけはどうしても必要で、見栄え大袈裟で仕方がない。
『無理な運動は数日控えてくださいね。あ、ガーゼは次の診察まで取っちゃダメですよ〜』
 にっこり笑うナースに罪は無い。自業自得とはいえ、何故病院のガーゼは何故こんなに真っ白なのだろうと恨むのが精一杯だ。


 体育をサボれた事だけはラッキーだったが、登校する京の足取りはいつに無く重かった。
 何故ならば、何があったのか絶対に勝也に聞かれるのが解ってしまうからだ。いや、正確には少し違う。単純に勝也に聞かれるだけなら構わないのだが、それが誰に伝わるのかが大問題なのだ。
 問われたら返す為の、何か気の効いた答えを必死に考えてみる。それが用意できればまだ心構え的には少しマシなのだろうが、そんな都合の良いものは幾ら考えても思いつかない。
 テストさえ無ければ、今日一日休めたのに。そうは思っても、悲しいかな学生の本分は勉学にあり、逃れる事は出来ない悲しい現実。
 懸命に考えたにも関わらず、何一つ、ぱっとした答えを導き出せぬまま、機械的に進んだ足は、憎らしいほど何も無く京を教室に運んでしまった。
「よう、どうした?」
 昼休み。午前の授業を休み、遅刻してやってきた京へ一番に声をかけたのは、やはり勝也だった。
「……別に」
「別にって事は無いだろう。その頭何だよ」
「……」
 なんとか誤魔化そうと勝也の顔を見て失敗した。口調は軽いが、表情が真剣で視線が痛すぎる。
「目立つか? なるべく小さくしてもら……」
「そうじゃなく」
 適当にはぐらかそうと思ったが、京が勝也に勝てる筈も無く、あっけなく軌道修正されてしまう。
「昨日逢った時はなんとも無かったよな?」
 どう答えようかと悩む。
 経緯を話そうにも、あまりに間抜けな自分が情けない。だが、答えるまでは絶対に解放してもらえないだろうし、これ以上心配かけるのも気が引ける。京は仕方なく白状する事にした。
「朝、部屋で転んだ」
「……ウソつくな」
 低すぎる声に、京は思わずびくりと身体を竦めてしまった。
 正直に話したというのに、何故疑い全開の視線が突き刺さるのか、納得いかない。
「ほんとだってば」
「だってそんな怪我、お前の部屋の何処で出来るって言うんだよ」
 そう言われても、事実なのだから仕方が無い。
「や、ホント。朝、……寝ぼけて、机にぶつけた」
 まだ疑いの目を向ける勝也に、京はどうしたものかとしばらく考える。
 ふと、唯一の証拠ともいえる壊れた眼鏡の存在を思い出し、鞄の中から取り出して見せてやった。
「これ踏んで……慌てた」
 正確には少し違うが、大よその筋としては間違いではないので、この際この答えで許してもらう。
 残骸と化した、見覚えのある『眼鏡だった物』を見て、勝也は一瞬驚いたような顔をした。
「完璧オシャカじゃん」
「うん」
 半信半疑ながらも、とりあえず信じるほうを選んだらしい勝也は、目に見えて肩の力を抜くと、一瞬間をき、なんとも微妙な表情を作った。その後、失礼にもぷっと噴出す。
「馬鹿だな」
「…………う」
 ようやく信じてもらえたのに、何か釈然としないのはどうしてだろう。
 京はついむっとしてしまったが、言い返す気力などとっくに失せていたので、黙って眼鏡をケースに仕舞い、なんとか気持ちの折り合いをつけた。
「しかし……。あーあーあーあー」
 勝也は京の前髪を指先で掬い上げ、時間と共にガーゼからはみ出し始めた内出血に眉を潜める。
「お前、これ痛く無いの?」
「あんまり」
 医者にも聞かれたが、見た目よりは痛くは無い。
「お前、怪我多いよなぁ。不注意って訳じゃないんだろうけど」
「でも、これは……」
 確かに今までの負傷は不可抗力ともいえるものが多かったが、今回のは完全に自分の過失だ。
「……コレ見たら、大騒ぎする人約一名」
 ポソっと聞こえる、一番の問題発言。
「ぐ……」
「オレしーらない」
「ええええ」
 思わず京は勝也の腕を掴んでしまう。
「協力……して」
「へ?」
 何も考えずに出た言葉だったが、続く懇願は意外とスムーズに出てきた。
「治るまで、……誰にも言わないで」



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