SELENE

 

 Yield to Temptation

 


 


<1>

 無機質で単調な目覚ましコールが頭の上で鳴り響き、京はまだ閉じていたいと我侭を言う重い瞼を無理矢理抉じ開けた。
 顔にかかる前髪がやたらと鬱陶しく、仰向けのまま怠い腕を持ち上げ掻き揚げてみたが、思ったほどすっきりしない。しかめっ面ついでに、思わずため息とも唸りともつかぬ声が出てしまった。
――昨日雨だったしなぁ……。
 知らず、かったるいため息が漏れる。
 気の持ちようだとは解っているのだが、雨の日はどうしても調子が悪い。思い返すほどうんざりしてしまう体たらくだが、今の天気は見事な晴天。時間が来れば学校へ行かなくてはならない、あまりにも超日常的な現実が目の前に迫っている。
 仕方なく京は大きく息を吸い込み、少しでも身体を目覚めの方向へ向かわせる努力をしてみたが、ゾンビのような身体はまだまだ覚醒には程遠く、残念ながらまるで効果が無い。反対に、職務に忠実な目覚し時計は、恨めしいほど景気良く、部屋中に己の音を響かせていた。
「うるせー」
 とりあえず耳障りな目覚ましだけでも止めようと、無理矢理、且つ緩慢に腕を伸ばした。が、何故か途中ピタリと止まり、そのままの不自然な姿勢で京の身体は固まってしまう。
「……ア……ィテ・テ……」
 何処がどのように痛いと聞かれても返答に困る。全身を包む鈍い痛み。特に腰のあたりがどうしようもなく重苦しくて仕方が無い。
「うう……」
 京はなんとか這うようにしてアラームを止めると、そのままの姿でぱたりと突っ伏した。
「参っ……た」
 ネジの切れかかった人形のように、ぎこちなく重い身体。今日は体育があるのに。そう思った所で今となってはもう遅い。
 しかしこの手の痛みは今まで何度か経験しているので、京自身にとってはあまり焦る自体ではなく、……というか、原因は一つしか考えられないので、心配するとかしないとか、そういう次元ではなかったりする。
「はぁ……」
 大きく息をつき、月曜の朝っぱらから思い出すには赤面ものの『原因』を頭から振り払う。
 京は『何でもない何でもない』『気のせい気のせい』と呪文のように唱えると、なんとか気合を振り絞り、ギシギシと軋む身体を宥めながら静かに起き上がった。なんとか座る事に成功し、ほっと息をつく。
 基本的に、単なる筋肉痛だという事を証明するように、少し身体を動かせば大分動きは楽になる。ついでにシャワーでも浴びれば、かなりすっきりする事も解っているので、目下、京にとって最大の問題は、他人の如き寝ぼけた頭と、最近特に進んだような気がする近視のほうだった。
「やっぱコンタクトにしようかなぁ……」
 普段はかけていない眼鏡だが、最近では寝起きと授業中は欠かせなくなってきている。
 ぼんやりとした頭と視界。とりあえずどちらかだけでもなんとかしようと、ベッドの横に置いた筈の眼鏡に手を伸ばすと、遠近感が掴めず手先が何かにぶつかった。
「あ……?」
 反射で裏返した手の上にバサバサと落ちてくるのは、多分昨夜目を通したプリントに違いない。俊敏とは程遠い今の状態では受け止める事自体無理な話で、とりあえず差し伸べたてみただけの手は、勿論役立たずの木偶で、派手に散らばる沢山の紙は、ただ空しく床に広がっていった。
 しばらく呆然と状況を見ていた京だったが、やれやれと、既に本日何度目になるのか解らないため息を吐いた。
「はー……」
 面倒だと思いつつ、とりあえずベッドから足を下ろす。
「う?」
 京の足……の裏。フローリングの床とも紙も違う、妙に固い固形物の感触。
 これは何んだろうと頭が判別する前に”それ”はメキョとバキっの中間音を放った。
「あ……?」
 無残に踏み潰された物は一体なんだろう。嫌な予感がボケた脳裏を過ぎる。
「まじか……」
 京にしては、信じがたい程の速さで明瞭になってゆく頭と身体。
 慌てて拾い上げた物は、歪んだだけでなく見事にパーツごとに分解してしまった、かつて自分の眼鏡といわれた物体だった。
 誰が見ても再生不可能。ご丁寧な事に、レンズにはそれぞれ綺麗に同じようなヒビまで入る念の入り様。
「うう……壊れた……」
 口にするまでも無い状態なのだが、なんとなく言わずには居られない。
 朝っぱらから必須アイテムを壊してしまったショックは絶大で、京はなんとも物悲しい気分になってしまった。
「もういっこの眼鏡は……」
 長い事使わなくなって久しい、もう一つあるはずのメガネのありかを思い出そうとしたが、『どこかの引き出し』くらいしか記憶に無い。
 覚醒と共にずるずると引っ張り出される、本日の予定に大した物はなかったが、眼鏡が無くては授業はしんどい。授業といえば、この体調で体育の授業を受けなくてはならない事まで思い出し、憂鬱に拍車がかかった。
 なんだかもう、なけなしの気力まで削がれてしまった京は、この際学校をサボってしまおうかと、この上もなく軟弱な結論を選び取りそうになったが、午後から単位に響くテストがある事まで思い出してしまい、がっくりと膝をついた。
「俺のばか」
 こうなってしまっては仕方が無い。京はとりあえず使用不能になってしまった眼鏡を持って立ち上がった。瞬間、つるりと足が滑る。
「ぅぁ……」
 ヤバイと思った瞬間、京の足は落ちて重なった紙が横滑りするのに取られ、ひっくり返りそうになる。慌てて手を伸ばした机にも無残に振られてしまい、指先が空しく何も無い場所を引っ掻いた。
(うそー……)
 スローモーションのように流れる時間の中、やっと近視の視界が見せてくれたのは、見慣れた机の角。
「っ!」
 ごーんと言う音が、実際したかしないか解らないが、寺の鐘のようなその音が、京の頭の中に響き渡ったのは確かだった。



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