For You 1
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思い出してはいけない ********** 誰かが「泣く声」で目が覚めた。 夢。 繰り返し見る、あの夢。 過去の、ほとんど自分では思い出せない記憶。 それが、なにかの暗示のように夢の中で蘇る。 目が覚めれば目に映る夢の全てが泡のように消えてしまうのに。 感覚だけが取り残される。 動悸が治まらない。 闇の中に引き摺り込まれるような不安。 汗が背筋を伝う。 吐き気が治まらない。 何故・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 堪えきれなくて、顔を手で覆った。 指先が凍り付くように冷たい。 何故自分は泣いているのだろう。 解らない。 何故・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「京・・・?」 突然聞えた優しい声に思わず驚き、そしてホッと息をつく。 その瞬間、身体に暖かな血が巡り始めるのが解かった。 京はその声の主を見つめた。 「どうした?」 問われても説明など出来ない。 自分でも解らないのだ。 あの事件以降、一人の夜に幾度も見た不安定な夢は、愛する人が傍にいても顕れるようになってしまった。 愛しい人の温もりを肌に感じれば、それだけで何も見ずに眠れたのに・・・ だが今、自分を包むのは息苦しさと、例え様もない後悔。そして自分の罪深さ。 漠然とした不安だけが押し寄せ、それ以上の事が解らない。 京に出来るのは、ただ首を横に振る事だけ。 額に落される優しい口付けで、身体の強張りが溶けてゆくのを感じる。 京は、優しく自分を抱き寄せる腕に身を任せた。 「大丈夫だから・・・もう大丈夫」 直接肌に染み込むような優しい囁きに安堵しながら、頭の隅で何かが違うと感じてしまう。 この腕の温かさは現実なのに。 安堵に満ちてゆく心は嘘ではないのに。 胸の傷は・・・・・・何故痛むのだろう・・・・・・・・・・・・ ********** 京を救け出したあの日以後、拓也は月乃家に留まり、過保護ではないかと思えるほど京の世話を焼いていた。 年末年始。家族が居ない家に京を独りにしてはおけないというのを大きな理由として、通院時と大晦日、正月1日以外は全て月乃家で2人きりで過ごしている。 拓也は最初、初めての家であることから勝手が解らず戸惑うことも多かったが、3日もすれば慣れた。 京の為に食事を作り、病院へ連れて行き、傷の手当てをし、恥ずかしがる京を言い含め着替えまで手伝うという手の掛けよう。 京といえば照れと恥ずかしさで常に赤面絶句状態だったが、こんな時間も初めての事だったので嬉しくないとは『嘘』でも言えない所。 限られた束の間の時間と解っていても、2人は幸せだった。 ―――幾つかの問題を除けば。 京の眠りが異常に浅いことに拓也が気付いたのは月乃家に戻った最初の晩だった。それが日々続いていることも同時に知る。 どんな夢を見ているのか解らないが、魘されては頻繁に目を覚ます。 うわ言は言葉を成さず、掠れて声にならない悲鳴を上げる。 目を覚ます度、苦し気に鳴咽をかみ殺し、それでも僅かに落ち着きを取り戻すと、すぐさま拓也の眠りを妨げてしまった事を青ざめた唇で詫びる。良いのだと、気にするなと優しく何度も言って聞かせたが、どうしても納得が行かないのだろう。自責に囚われる京に、拓也はせめて自分は大丈夫だと伝えるように、優しく抱きしめるしかなかった。 恐らく、あの事件の後遺症なのだろうと拓也は思う。 だからせめて厭な夢を見ない様に、こんな時ばかりではなく起きている間も優しく包んでやりたいと、拓也はそう願いそれを実行する。 もう一つ大きな問題があった。 京が食事を摂れずにいる。 決して好き嫌いがある訳ではない。だがまったくと言って良いほど体が食物自体を受け付けないのだ。 始めのうちは、折角拓也が作った料理だからと無理して口に運んでいたのだろう。 しかし、そのような事が長く続けられる訳もなく、すぐに京の身体は悲鳴を上げ、拓也の心配を増やしただけだった。 あんな事のあった後だ。しばらくは仕方がない事なのかもしれないと拓也は長期戦を覚悟する。 体力が落ちる一方の体は怪我の治癒をも遅らせ、日に日にやつれてゆく京からは目に見えて表情が消えてゆく。辛い筈だ。病院の点滴と処方が無ければ寝込んでいても不思議はないだろう。 それでも話し掛ければ嬉しそうに微笑み応える姿が痛々しく、拓也はやるせない気持ちを笑顔の下に押し隠すことを覚えた。 京の全てを引き受ける覚悟を決めたのだ。 その手に取り戻した愛しい恋人を、二度と再び手放さないと心に誓ったあの時から。 ********** 冬の合間の小春日和。 拓也は京を連れてドライブへと出た。 海を見下ろす高台。 車を止めて外へ出る。 寒くない様、沢山着込ませた京が妙に着膨れて歩き難そうだったので、拓也が支えるように手を貸してやると、少し照れたように頬を染める。 いつもならば恥ずかしげに拒むそれも、周りに人気もないせいだろう黙ってその手を受け入れ、そのままゆっくりと見晴らしの良い場所へと2人で歩いた。 風は穏やかで、日差しは優しい。 展望台にも人影はなく、岬の先端にあるベンチに2人並んで座った。 2人とも何も話さない。 波が岩に砕ける音だけが、ただ響いてくる。 広がるパノラマを黙って見ている京に表情は無く、なにを考えているのか解らない。 真っ直ぐな黒髪が風に微かに靡き、ピアスの蒼が太陽に反射した。 瞬もせず、ただ黙って海を見詰めるその姿が、何故かものすごく遠い。 こんなに近くに居るのに。 抱き寄せれば、確かな温もりを腕の中に取り込めるというのに。 「京・・・・・・・・・・・・」 拓也は知らずに名前を呼んでいた。 ゆっくりと拓也に向けられてゆく目の前の横顔。 光の消えていた瞳に僅かに力が入るのが解る。 冷えた頬に手を添えると、京は、はんなりと微笑んだ。 「・・・・・・・・・・・・寒くない?」 口を衝いて出た言葉はこんなもの。 「平気・・・」 そう言いながら、京は差し出した手に頬を擦り寄せる。 自分を見詰める視線は真っ直ぐで迷いは無い。それだけが救いかもしれない。 頭を引き寄せ胸に抱き込む。 「拓也さん?」 「僕が寒いから、こうさせてて・・・」 訳も無く哀しかった。 いや、訳は分かっているのだ。それを今、これ以上考える事を頭が拒否しているだけなのだ。 止まってしまったような時間。切り取ってしまったようなこの空間が優しい。 どのくらいそうしていただろう。突然京が小さな咳をした。傷に響いたのか、咄嗟に息を詰める様背を丸め胸を押さえている。 「京!」 「ん・・・だ、いじょうぶ・・・・・・・・・」 「いや、もう風邪をひく。そろそろ帰ろう?」 拓也は京が落ち着くのを待ち、そっと手を取ると静かに立ち上がった。 ********** |
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抱きしめる細い身体は愛しい者。 貫き、揺さ振り、それに応える熱い内も、愛する者の大事な一部。 滲む汗。潤んだ瞳。掠れた嬌声。甘い体臭。組み敷いた細い身体。爪の先、髪の先まで....全てを愛しているのに。 「京・・・」 「拓也・・・あっ」 「京・・・」 「んっ・・・あ・・・」 「京・・・」 「あぁ・・・た・・・く・・・・・・やぁ・・・」 「京・・・・・・愛してる・・・」 紗のかかった瞳から止めど無く流れる涙を唇で吸い取り、濡れた筋を追いかけて滑らかな耳に辿りつく。コリという感触を歯に感じながら耳朶を優しく甘噛むと、彼の襞が痛いほど締め付けてきた。 ゆっくりと腰を動かしながら、吐息に融かした彼だけに聞える声で、鼓膜に直接愛を伝えると、熱い内が細やかに震える。 感じている。快感に咽び泣いている。それなのに・・・ 普段からは想像も出来ぬほど貪欲に自分を欲しがる唇に応え、深く舌を絡めると、更に奥へと己を刻む為、細い足を高く掲げた。 膝が肩に付くほどに。震える身体を押さえつけ・・・深く・・・深く穿つ。 「京・・・っ・・・」 呼ぶ声に、キスで濡れた唇が自分の名を象った。 堪えきれなった。 「京・・・愛して・・・る・・・っ」 京の頬を伝う快感とば別の意味で流される涙を唇で拭い、拓也は達したばかりのそれを引き抜こうと身を動かす。しかし、京はそれを嫌がり脚を腰に絡めた。 「京・・・?」 「・・・や・・・・・・」 「達けなかったろう?・・・してあげるから・・・」 「や・・・っ・・・このまま・・・が・・・いい」 「でも・・・辛いだろう?出してあげるよ」 京は拓也に縋りつき、厭だと首を振る。 「離れないで・・・」 消え入りそうな不安に満ちた声。一人が怖いのだと言葉少ない声ではなく全身が訴えている。 「大丈夫・・・何処にも行かないよ」 「たく・・・や・・・・・・」 抱いて欲しいと愛しい者が胸の中で泣いた。 求めるのならばいくらでも与えてやりたい。 何者にも渡すつもりはない。それが、京を捕らえて離さない心の傷だったとしても。 「大丈夫。傍に居るから・・・」 「たくや・・・ごめ・・・さ・・・い・・・」 幾度めかの情交の後、眠るというよりは気を失うように意識を手放した京から、拓也はゆっくりと身を離した。 傷の癒えない身体は無理をすれば簡単に熱を帯び、痛みばかりではない苦痛が全身を苛む事は本人が一番知っている筈なのに。 溺れる者のように縋りつく、細い身体。 求め、求められて。そして肌を合わせ。 その度に、京の心の傷がまったく癒えていない事を思い知らされる。 何度肌を合わせても。 どれだけ愛を紡いでも。 彼は達けないのだ。 「京・・・・・・」 拓也はぐったりと力が抜けている京の体をそっと抱きしめ、せめて今夜だけでも彼を苦しめる悪夢が訪れない様にと願った。 ********** |
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「眠ってない……?」 京を消毒に連れてきたついでに、拓也は思い切って医者に相談をもちかけてみた。 拓也の兄、洋也の知り合いである、的場という外科医は、拓也の言葉に眉間に深く皺を寄せる。 「どんな感じだ?」 「うなされてますね。けれど言葉にはならずに、揺り起こしてやっと起きるという感じです。あんなことがあった後なので、仕方ないのかなとは思っていたんですが……」 拓也が言い澱むと、的場は片眉を上げてその先を促した。 「毎日、酷くなっていくような気がして。こういうのは普通、だんだんと治っていくものでしょう?」 「いや、一概にそうとは言い切れないが……」 「けれど、食事も満足には摂れていません」 的場はうーんと唸って、腕を組んだ。 「ゆっくり話を聞いてみるか。それでも落ち着かないようなら、いいカウンセラーを紹介するから。下手に周りが気遣って治そうとするより、専門家に任せてみるのも大切だぞ」 「ええ、お願いします」 拓也が頭を下げると、気にするなと的場は笑って、京の待つ診察室へと消えた。看護婦が診察室から出てくる。二人きりで話をしようとしてくれているのだろう。 拓也は固いソファに座り、長い息を吐いた。 「どう? 調子は」 「いいです」 京の短い返事に、的場は苦笑する。 「とてもそんな風には見えないけどな」 それには返事はない。 「前にも言ったと思うけど。傷の深さや大きさより、身体自体の免疫力が下がってるんだよな」 今度はこくんと頷くだけ。 「身体がだるいとか、どこか痛むとかは?」 ゆるゆると首が横に振られる。 「少しね、話をしようか」 「……拓也さんは?」 不安げに揺れる瞳に、的場は優しく微笑む。 「大丈夫、外で待ってるから」 「……でも」 「大丈夫だよ。今、君の家で、拓也君と過ごしているんだって?」 京は少しだけ顎を引いた。 「やっぱり家の方が落ちつくかい?」 瞳を伏せがちにして、京は何かを求めるように視線を動かす。 「……もう、治療は終わりですよね?」 「まあ、まあ、たまにはゆっくり話そうよ」 「……でも」 京は診察室のドアを見る。その向こうに立つ誰かに助けを求めるように。 「大丈夫だよ。拓也君はそこで待ってるから」 そう言われても、京は落ち着けないようだ。 こんなことなら、傷口を見られてもいいから、傍にいてもらえば良かった。 ********** 拓也はまだ新しいリノリウムの床の模様を目で追っていた。 単純な作業はどうしても、今診察室内で交わされている会話の事を考えてしまう。 どんな苦しみも取り除いてやりたいと思いながら、自分には何も出来ない。ただ、パニックに陥った京を抱きしめるだけ。そんなことしかできない自分に腹が立ってもいた。 「拓也、ちょっと」 突然的場に呼ばれ、拓也ははっとして顔を上げる。 手招きされて、拓也は立ち上がり、室内へ入った。 「京?」 「拓也さん……」 京は震える手を拓也に伸ばす。それをしっかり握り締めて、拓也は的場を恨めしそうに見上げる。 「とりあえず、今日は帰った方がいい」 それを聞いて、京はほっと息をつく。 「今夜、連絡入れるから」 拓也は頷いて、京を連れて部屋を出ていった。 「拓也……、お前になら、出来るのかもな……」 的場は溜め息をついて、白衣を脱いだ。 ********** 「大丈夫?」 車を運転しながら、拓也は優しく問いかけた。 的場の診察が終わってから、京は来た時よりも顔色が悪くなったくらいだ。こんなことなら、的場に話すのではなかったと悔やまれる。 「大丈夫」 ヘッドレストに頭を預けて、京は白い顔を、それでも笑おうとしている。 その表情にいたたまれなくなる。 感情を、どんなことでもいいから、ぶつけてくれればいいのに、と。 どんな内容でも受けとめる。受けとめてみせる。その覚悟はもうできているというのに。 「少し眠っていいよ。家まで、少しかかるから」 「うん」 そう言って、京は目を閉じる。けれど、眠れないだろうことは、拓也にもわかっている。 何がそんなにも京を苦しめるのか、その正体を掴めず、拓也は自分が歯がゆくて仕方ない。 なるべく優しい振動を……。 京の眠りを誘うような、優しい、ゆりかごのような揺れを……。 拓也は慎重にステアリングを操作した。 |
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京の家の前まで戻ると、門扉のところに座り込む人影があった。 「遅かったじゃん。大丈夫?」 人影は立ちあがり、人懐こい笑顔を満面に浮かべた。 「勝也……」 京の顔が少し綻ぶ。その微笑みを見て、勝也を呼び寄せて良かったと、拓也はほっとする。少し気分を変える必要があるのかもしれないと思って、おそらくは、京が一番寛げる相手として、弟を呼んでみた。 「お袋がさー、これ、持ってけって。前に京がうちに来た時、好きだったってさ」 勝也は脇においていたペーパーバッグを差し出す。 「ありがと」 京がそれを受け取ろうとするのを、拓也は横から手を伸ばし持ってやる。予想した通り、そのカバンはかなりの重量があった。 「中に入って食べようか」 「うん」 拓也が笑いかけると、京は目を伏せて頷いた。 「あ、俺のスリッパ、こっち」 玄関を入るなり、勝也は『自分用』のスリッパを取り出し、京よりも先に入っていく。 「おい……」 拓也は制止する暇もなく、京は京で、それが当たり前のように振舞っている。 「レンジであっためるでしょ?」 拓也が袋から取り出したおかずを勝也は勝手知ったる他人の家という感じで、レンジで温め始める。 苦笑しながら、拓也は食卓の用意を始める。 「タクちゃん、俺の茶碗と箸はこっち」 「はあ?」 拓也が並べた客用の膳を片付け、勝也は『自分用』のそれを取り出す。 「どうしてお前のが、べつにあるんだ?」 「ここ、俺んちみたいなもんだもん」 「お前、ヒロちゃんとこでも、確か自分用のとか置いてなかったか?」 「あるよ、もちろん」 「あっ、ここにも自分用の歯ブラシ、置いているんじゃないだろうな?」 「えっ、あったらだめなん?……」 拓也が絶句していると、京がクスリと笑う。 「食べよう、食べようー」 その場をごまかすように、勝也が箸を取る。 京も珍しく、食欲旺盛な勝也につられるように、箸を動かした。 …………けれど、京の自我は、その日を境に、確実に崩壊していくのだった。 拓也は目の前で壊れていく京を、…………ただ悲しく見つめることしかできなかった。 |