文月小夜&SELENE

Luminarie 

 

 カーステレオからは軽快なリズムが聞こえてくる。ボリュームを適度に絞ったジャズは、二人の会話を邪魔することもなく、快適な空間を作り出している。
 拓也の愛車、ソアラは東名高速を100キロ近いスピードで西へ向かって走っている。
 京は流れゆく景色に時折目をやりながら、これから二人が向かう神戸について、ガイドブックを膝に、楽しく話をしていた。
「あ、海だ……」
 静岡県に入り、由比海岸の傍を走り始めると、京の目は海に釘付けになった。その様子に拓也がクスリと笑う。
「あ……、ごめん」
「いいよ。海が見えるのは、ここだけなんだけどね」
 拓也が視線をちらりと投げてくるのに、京は照れくさそうに笑う。
「こんなに海の近くを走るんだ」
 高波が来ればかぶりそうなほど。京にとっては馴染みの深い海も、よく知っているからこそ、海の怖さもわかっている。
「この道が防波堤の役目もしているかもね」
 言って拓也は、反対側の斜面を指差す。そこには民家がちらほらと立っている。
「いいなぁ……」
 ついぽろっと出た本音に、拓也はとうとう声を出して笑った。
「海の近くだけは外せないね」
 拓也は笑いながら、左手を伸ばし、京の頭をぽんぽんと叩いた。
「外せないって?」
「二人の家」
「あ……」
 京は頬を染めて俯く。その愛らしい様子に、拓也は左手をずらし、京と手を繋いだ。
「拓也さん……」
「その前に、大きな壁があるけどねぇ」
 拓也はむしろ面白がっている様に、首を傾けながら、器用に片手でハンドルを切る。
「大きな壁?」
「そう言えば……、昨日京のお父さん、いつにも増して視線が怖かったなぁ。僕も気をつけていたつもりなんだけど」
 23日、拓也は二人の旅行出発より一日早く、京の自宅を尋ねた。その日から京の家族が海外に出かけることになっていて、彼があの広い屋敷に一人になってしまうからだ。
 両親に挨拶をして、出発を見送ったのだが……。京の父親の不機嫌のオーラは、隠しようもなく拓也に伝わってきた。
「旅行に行くって、言ってあったんだよね?」
「うん……」
 京は上目使いに拓也を見て、小さく息をついた。
 年末の家族旅行へは一緒に行かず、拓也と旅行へ行くと告げた日、普段は鉄壁の無表情である父親が、見事な程不機嫌な顔を披露した。
 理由は解っている。だが、他の日ならまだ譲れても、12月24日にかかる日程の旅行だけは、どうしても聞き入れる訳にはいかない。
 京が日本に帰って来てから、毎年恒例だった家族旅行。参加は決定だと告げられ、自分のチケットまで目の前に出されたが、京は頑として譲らなかった。
 その結果が、昨日の父親の態度、拓也への視線の冷たさである。
「ごめんなさい……」
「京が謝る事じゃないだろう?」
「そうだけど……でも……あんな……」
 拓也の挨拶を一切無視しただけでなく、遠くから睨むようにしていた父の姿を思い出す。
 京の父親は、息子とは似ても似つかずガタイが良い。初めて会う人間は勿論の事、周囲の人を圧倒的に威圧できる空気を持った人間だ。
 いざとなれば拓也のほうが『強い』のは解っていても、彼が京の父に力で抵抗するとは考え難く、拓也の名前が出るだけで、拳を震わせる近衛を見れば、京の不安はより深いものになる。
「良いお父さんだね」
 拓也の微笑んだ声に、京は小さく一つだけ肯いた。
 解っている。誰よりも何よりも自分の身を案じ、そして慈しんでくれた両親。
 父は先代から引き継いだ建築会社を、一人息子に継がせる事を特に希望せず、後継者を優秀な社員から選んだ。
 その後その選ばれた社員が、たまたま姉と恋愛関係になり、結婚し、養子となったが、それはあくまで幸運な結果であり、そうでなければ会社は近衛の代で他人のものになってしまった筈だ。
『自分の好きな事をしなさい』
 アメリカからの帰国を決めた時、父にそう言われた。
 その言葉の意味にどれだけ深い想いがあるか、京に解らぬ訳は無い。
 流石に、京が拓也の手を取ることは、予想外の出来事だったらしいが……。
「なんともないよ。京と幸せになる為ならどんな事でも平気」
「拓也さん……」
 穏やかで優しい声が京にはたまらなく嬉しい。
 京は周りの人々大切にされている自分を感じ、その全てに心から感謝した。
「僕は京の父親にならなくて良かったなぁ」
 拓也は苦笑いで答える。
「俺の?」
「そう。だって、誰かに京を渡すなんて、……できないよ。だから、お父さんには本当に、申し訳ないと思ってる」
 京は繋がれた拓也の手をぎゅっと握りしめた。
 言葉の出なくなった京に、拓也は微笑みかけ、そしてその手を握り返した。


 東名から名神、阪神高速を乗り継ぎ、ソアラは神戸市内を走る。
 街はもうどこもクリスマス一色だった。
「予定より少し遅くなったかな。異人館……は明日にしようか。車をホテルに置いて、ルミナリエに行こう。お腹、空いてる?」
 カーナビを設定しながら、拓也は京に話しかけた。
「まだ大丈夫。夜景観ながら、がいいな」
 京の答えに、拓也は同意して、進路を二人の泊まるホテルへと変更した。

「ここ……?」
 拓也が車を乗り入れたのは、異人館の一つかと思うような洋館で、けれどどこにもホテルらしき看板や表示はなかった。
「そうだよ」
 車は既に開けられていた門を潜り、砂利を踏みしめながら、高い樹木に挟まれた道を徐行していく。
 すると、ゆっくり右にカーブしたところで、建物のエントランスが現われた。
 車の影が見えたところで、洋館の玄関が開き、スーツを着た男性が出てくる。
 車が停まると、彼はまず助手席のドアを開けてくれる。京は運転席を見て、拓也が頷くと、ゆっくり車を下りた。拓也もキーをつけたままソアラを降りる。
「三池様ですね。お待ちしておりました」
 低くよく通る声で出迎えられる。荷物を彼に預けると、ボーイが出てきて、ソアラを移動していく。
 フロントはごく普通のホテルのように見えた。
 チェックインを済ませると、そのまま彼が部屋までを案内してくれた。
「ありがとう」
 拓也が部屋の中でキーを受け取ると、彼は恭しく礼をして部屋を出ていった。
「拓也さん……、ここ、高いんじゃないの?」
 ホテルとして看板を上げていなくて、ここまでの徹底したサービスを考えれば、京にだって、このホテルが普通のホテルでないことはすぐにわかった。
 ごく限られた人達しか利用できない、何かの会員専用のホテルとか。
「さあ。どうだろう」
「どうだろうって、どうやってリザーブしたの?」
「ああ、それはね、正也なんだよ」
「正也さん?」
「うん、正也がアルバイトで知ったこのホテルに招待されていたんだけど、あいつ、今オーストラリアだろ? だから、権利を譲ってもらったんだ。ここまでいいところだったとは驚きだけど」
 拓也は不思議がる京に説明しながら、窓のカーテンを開いた。
「…………すごい」
「100万ドル、……いや、もっとだね」
 六甲の山腹にあるらしいこのホテルの、南向きの窓を開けると、眼下には神戸市街の夜景が広がっていた。
 日が沈み、これから夜の色が濃くなり始めるこの時間にも、既に街のイルミネーションは瞬いていた。
 それは夜の海に沈み込んだ宝石たちが輝いているようにも見えた。
 異人館のライトアップ。街路樹の装飾。そしてクリスマスを迎えた街の電飾は1年を通して最高の華やかさだろう。
「…………綺麗」
 京の口から漏れた一言は、拓也の口に消えた。

 

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