第三章
海客は本来、こちらの言葉はわからない。しかし、仙人であれば海客の言葉を聞くことが出来るし、話す言葉は相手に通じる。 迪三郎は春官の一人にこの国の成り立ちについて学んだ。それはかなり異例のことであったが、迪三郎を拾ってきたのが延王であり、王自ら面倒を見てやれといわれて断れるものではない。 しかも、王が時間のある限り、海客の傍にいるので、春官を初め、周りの者たちは驚くと同時に、心配もしていた。 しかも真面目に仕事をしているとくれば、違和感は拭えない。単純な者たちは、城の中に、もしくは広い雁の国のどこかまで、尚隆を捜しにいかなくてもいいと喜んでいる。 だが、帷湍ははっきり不愉快を隠さずにいる。朱衡も割り切れぬ顔つきである。成笙にいたっては、事態を把握できずに首を傾げるばかりであった。 ただ六太だけは時折ふらりと出かけ、いつのまにか戻っているという生活をしていた。以前と同じに見えるが、すっかり口数が減っていると気づいているのは、あの三人だけであろう。
迪三郎は起きれるようになれば、尚隆の後につき従うようになっていた。閣議にまで出てくるようなことはなかったが、扉の外で警護の者たちにちらちらと視線を投げられながらも、じっと尚隆を待っていた。 そして迪三郎は憚ることなく、王を「なおたかさま」と呼ぶ。聞き慣れぬ発音であったが、この城の中でそれが王の倭名であることを知らぬ者はいない。 迪三郎をはっきり敵視するものまで現われるのに、たいして時間はかからなかった。 「主上」 朱衡が痺れを切らして尚隆に声をかけてきたのは、尚隆が迪三郎を拾ってきてから、二ヵ月がたった頃であった。朱衡の後ろには憮然とした帷湍と成笙が控えている。 「なんだ?」 朱衡はちらと迪三郎に視線をやって、軽く頭を下げた。 「申し訳ありませんが、内々のことにより、私室へお運びを」 「かまわぬ」 尚隆は迪三郎が運んできた杯を受け取って、注がれた酒を一気に飲み干した。 「いえ、お人払いを」 尚隆は迪三郎を見たが、迪三郎は黙って尚隆の答えを待っている。 「かまわぬ。ここで聞こう」 「ですが」 「言ってやればいいだろう。こいつがここで聞くって言ってるんだから」 「帷湍殿」 朱衡を遮り、帷湍が憎々しげに吐き捨てた。それを成笙が肘を掴んで窘める。 「話はそちらの方の処遇についてでございます。ここにおられては何かと話しにくく……」 朱衡は仕方なく本題を切り出した。そこまで言えば、尚隆も場所を変えるだろうと思ったし、迪三郎とて席を外すと思ったのだ。ところが。 「三郎がどうかしたか」 尚隆は少年のことを三郎と呼んでいた。朱衡が六太に聞いたところ、それは尚隆の幼名であるということだった。 「おい、聞きたくなければ出ていけ」 帷湍は尚隆を無視して、迪三郎に怒鳴りつけた。迪三郎は一瞬息を飲んで怯んだものの、わざとらしく視線を外してそれを無視した。 「貴様!」 帷湍が足を踏みだしたのを、かろうじて成笙が引き止めた。 「僕は尚隆様を主人と決めました。尚隆様の仰せしか賜わりません」 迪三郎は尚隆の足元に跪き、主人と呼んだ人を見上げた。尚隆は口角を上げて笑んだ。 「貴様はこの国の者ではないわ!」 帷湍の罵声はその場の者たちを竦み上がらせた。迪三郎に至っては主人の衣服の裾をぎゅっと握り締めたほどである。 「もう少し落ち着いてしゃべれぬのか、お前は」 尚隆だけは帷湍の声が届かなかったかのように平然としていた。それどころか、帷湍の激昂を楽しんでいる風でもある。 「傾国という言葉を知っているか」 帷湍は興奮を抑えて低い声で尚隆に問いかけた。 「知っておるとも。しかし、あれは美女に大して用いる言葉だな」 「そこまで知っていれば十分だ。その言葉、きっちりお前にくれてやるわ!」 「帷湍殿」 朱衡の制止は帷湍に届かなかった。届いたとしても、聞き入れられる状態ではなかったが。 「国を疎かにして、そのような余所者にかまけておれば、傾かずして、どうなるというのだ。聞かせてほしいわ」 「面白いことを言う。三郎が来てからは、下山もせず政務に勤しんでおるといのに。それとも俺の仕事は関弓の視察であったのか?」 尚隆が声をたてて笑った。帷湍は顔を真っ赤にして拳を震わせている。 「お前がそいつを大切にするのを、不満に思うものもいるというのだ。海客を城の奥深くかかわらせるなど、前代未聞のことだ」 「ほう。俺も、六太も、海客には違いないがな」 帷湍は血走った目で尚隆を睨んだ。 「主上。海客と胎果ではそもそも」 「何を言っても無駄だ! こいつは聞く気などないのだ。四百年もつき従ってきた自分が情けないわ!」 朱衡を遮って帷湍が叫んだ言葉に、その場が静まり返った。 「どうして?」 重い空気を破ったのは、火種になっている迪三郎だった。 「尚隆様がこの国の王なのに、どうして臣下のあの人があんな無礼な口をきくのですか」 尚隆は苦笑する風に、喉でくっくっと笑った。 「昏君を王などと崇められるものか!」 「尚隆様は立派に政を為されています。そうでなければ四百年の歴史は築けません。先ほど僕を不満に思うものがいるとおっしゃいましたが、僕が来てから尚隆様が城内にいてくださると喜ぶ方もおられます」 よどみなく答える少年は先程まで尚隆の膝元で震えていたものとは思えなかった。 「一本取られたな、帷湍」 尚隆の揶揄に、帷湍は主人を一睨みして部屋を出ていった。 「お前たちも下がれ」 朱衡と成笙は顔を見合わせた。朱衡が頷いて、二人は揃って出ていく。 音もたてずに閉じる立派な扉は、朱衡の手にはひどく重かった。
第四章
六太の様子がおかしいと、朱衡が顔色を変えて飛び込んできたのは、尚隆と帷湍たちが諍いをした数日後のことだった。 さすがに放っておけないと思ったのか、尚隆は六太の部屋へ足を運んだ。ただし、迪三郎を従えてであるが。 尚隆の後に迪三郎が続いて入ってくるのを見て、帷湍はあからさまに顔をしかめた。迪三郎の方は帷湍たちを見もしない。 「どうだ」 六太の手を取って脈を測っていた黄医が、尚隆に向かって叩頭する。 「今のところ、大事はございませんかと」 「そうか」 尚隆の声に、六太が薄く目を開けた。 「そいつは嫌だ。血の匂いがする。まだ恨みが抜けていない。近づくな」 六太がそう言って顔を背けるので、尚隆は軽い笑い声をあげた。 「おいおい、三郎が来てからもう三月になるぞ。そういつまでも匂う訳がないだろ」 「そいつが匂いを引きずっているんだ。頭が痛くなる。出ていってくれ。尚隆、お前もだ」 「離れろというのか。麒麟が、王に」 尚隆は六太が横になっている榻の端に腰かけた。榻が軽く軋む。 「主上、血の汚ればかりはどうしようもございません。どうぞ、迪三郎殿をこの場から」 朱衡の小さな声を尚隆は聞こえなかったふりでやり過ごし、六太を覗き込んだ。 「お前なんか王じゃねえ」 「選んだのはお前だぞ」 「あんなのは気の迷いだ」 ぷいと横を向く六太は、成長を止めた、十三の子どものままのあどけなさを残していた。 「これは困ったな。麒麟が俺を王でないというのなら、誰が王なのだろう」 少しも困った様子はなく、尚隆は笑う。 「お前ごときが王でいられるなら、誰でもなれるわ」 帷湍は口にするのも鬱陶しいように言った。 「ならばお前がなるか?」 尚隆の問いに、帷湍は口を固く閉ざして答えなかった。 「朱衡、お前はどうだ?」 自分の名前が呼ばれて朱衡は気まずくて俯いた。 「成笙」 成笙は天井を見上げて、時が過ぎるのを待っている。 「返事がないのは肯定の意味か? ならば、ここで試してみるのも一興だな」 「試す?」 尚隆の提案に、皆は怪訝な顔を見合わせた。 「ここに雁の麒麟がいる。簡単なことだろう? 麒麟は王以外には額ずかぬ」 「まさか……」 朱衡の声が震えていた。 「何を考えている! いい加減にしろ。お前は恐いんだ。台輔が失道ではないのかと。だからおれたちまで巻き込んでそんなことをしたがるんだ。つきあえぬ!」 帷湍が出ていこうとするのに、待てと鋭い声がかかった。振り返ると、声よりも鋭い視線が帷湍を竦ませた。 「つきあえないとは言わせぬ。誰でも王になれるといったのはお前なのだからな。俺は三郎の手前、この勝負、引き下がる訳にはいかないのだからな」 「そちらの方は関係ございません。どうか、台輔のお体のこともお考えくださいませ」 朱衡の取り成しにも、尚隆は耳を貸さなかった。 「六太。さあ、叩頭しろ」 尚隆は立ち上がり、榻に寝たままの六太を見やった。六太はすっかり顔色をなくしていた。 「主上。お叱りなら、わたしたちが受けます」 「俺は六太に言っておるのだ。さっさとしないか」 強い視線に捕らえられ、六太はゆっくりと体を起こして、榻を下りた。 「台輔、ご無理なさらなくても」 朱衡の気遣いに、六太は力なく首を振った。 「尚隆がそう望むのなら、おれは逆らえないから」 青い顔をして答える六太に、朱衡はいたたまれず顔を反らした。 尚隆の正面に膝を折り、手をついた。そのまま頭を下げる。ついと差し出された足の甲に、六太は自分の額を押し当てた。 瞬間、六太は背中をびくんと震わせた。頭を上げて主人を見る六太の顔は、驚愕に塗られている。 「わかったか。間違いなく、俺が王だ」 尚隆は周りで俯いて立つ臣下たちに言い放った。 豪快な尚隆の笑い声を聞きながら、皆は雁の終わりを感じていたのだろうか……。
第五章
緊張を孕んだ城内に、胡乱な噂が囁かれていた。 一つに延麒の失踪。城内で台輔の姿を見かけなくなった。お加減がお悪いと聞く、いやただの病ではあるまい、失道ではないのか。主上は何をしておられるのか。 一つに主上はあの海客に権をお与えになるおつもりではないか。片時も側を離されず、この頃では平然と朝議にも御供させておられる。 どちらにしても、雁にとって良い噂とは言えなかった。
「松平容保公は降伏された。会津を初めとする奥羽軍は蝦夷まで追いやられ、完全に破れた。容保公は今は謹慎されているが、お命まで落とされることはないだろう」 迪三郎と尚隆が夕食を摂っているところへ、六太が入ってきた。事務的な口調で事実を告げる六太に、迪三郎は茫然として、箸を落としたことにも気づかなかった。 「生きて……いる?」 信じられないといった様子で、迪三郎は自分と同じくらいの年の金色の髪をした少年に歩み寄った。 「嘘だ。だって、城は燃え落ちたんだ」 「会津の少年兵達が見た煙は城の火じゃなかった。会津白虎隊士二十名は飯盛山で自刃した。これはおれが説明しなくても、お前が一番よく知っているよな。あの場所から逃げてきたお前は」 「違う!」 迪三郎が六太の衿を掴んだ手を、六太の後ろに控えていた成笙が引き離した。迪三郎は帷湍に羽交い締めされながら、違う、違うと言い続けていた。白い頬を涙が途切れることなく流れていく。 「僕は……、僕は尚孝様と一緒に死ぬために山を下りたんだ。あの城の中で、容保様の影武者をさせられている尚孝様はきっと、城明け渡しと共に自害させられると思ったから、一緒に死にたかっただけなんだ。みんなを裏切ったわけじゃない! 死ぬのに、時間と場所が少し違うだけじゃないか!」 帷湍から逃れようと、迪三郎は肩を激しく揺すった。 「帷湍、離してやれ」 「しかし」 尚隆が頷いたので手を放してやると、迪三郎は尚隆にしがみつき、声を上げて泣きだした。 「尚孝様。尚孝様・・・・・!」 泣き叫ぶ迪三郎の頭を大きな手が撫でた。それは迪三郎にとって、とても懐かしいものであった。 「俺はお前の尚孝ではない」 優しくかけられる声に、迪三郎は強く首を振った。 「尚孝はどんな主人であったか、そなたの目を見ていればよくわかった。だから、それらしく振る舞おうともしたが、どうやら俺には性に合わぬな」 尚隆は頭を撫でてやりながら、淋しそうに笑った。 「それらしくしようとすればするほど、皆とそり合わぬようになっていく」 「尚孝様は一生懸命やっておられた。京都で病死された容保様に替わり、城主としての務めを果たされたのに、周りが、周りが戦争をさせたんだ。決して朝敵なんかではなかったのに!」 「あの国は、時に人の命より、家を大事にしたがるから……。一つの名前を万の民よりも大切にしたがる」 「それは当たり前のことです!」 尚隆の険を含んだ言葉に、迪三郎は抗議した。 「俺はそうは思わぬ。民の命は、俺の命よりも重い。玉座は民の命によって保たれておるのだ」 「尚孝様だって、戦争をしたかったわけじゃない! 周りがそうさせたんだ」 迪三郎は掴んでいた尚隆の服を離し、後ずさった。 「時の流れに逆らってはならない。新しい権力が必要とされるなら、それを押し上げてやるのも臣下の努めだし、城主はそれを受け入れなければならない」 「義は会津にあった!」 「革命というのはそういうものだ。決してどちらが悪いのでもない。相手にも義はあるし、尚孝たちにも義はあったのだろう。だが、何を犠牲にしても、民の命は犠牲にしてはならなかった」 「詭弁だ! お前の言うことは全部詭弁だ。この国には寿命がないから、そんな風に言えるんだ!」 胸を掻き毟って叫ぶ少年は、戦に参加するにはあまりにも子どもすぎた。それほどまでしてなぜ戦わねばならないのか。尚隆の臣下たちにもわからなかった。 「俺なら戦わぬ。諸手を上げて降伏する。その後でも義は通せる。そもそも、戦いでしか通せぬ道ならば、通すべきではない」 「なぜ今になって尚孝様を愚弄するんだ!」 「民を犠牲にして、臣下を犠牲にして、その上に自分の命の安全を図ったからだ!」 尚隆は目を見開いて怒号した。居合わせた者たちが身を竦ませるほどに。 「少年兵達でさえ自刃した。六太の調べによれば、城下の者たちも掠奪から逃れるために自害したという。なのに、あいつはどうした。幽閉されながらも、家の再興を待っているという。そんな馬鹿な話があるか! 皆の命と引き替えに、己れの命を差し出してこそ、城主と呼ばれる位置にあるのではないのか。影武者といえども、影武者だからこそ、その命、民の元にあるべきだったのだ!」 迪三郎はその場に崩れ落ちた。床を叩いて泣いた。その手に血が滲んでも。
「刀を貸してください」 さんざん泣いた後で、迪三郎は顔を上げて、尚隆に請い願った。 「自害するのか」 「はい」 その瞳が澄んでいるのを見て、尚隆は腰の刀を渡してやった。 「主上!」 「尚隆! 何を!」 皆が引き止めるのを、尚隆は片手で制した。 「六太、出ておれ」 「駄目だ。死なせない」 六太が右手を上げると、沃飛が姿を現した。 「死なせてやれ。これ以上はいつまでも苦しめるだけだ」 「仲間を裏切ったときから死ぬことだけを考えて生きてきました。僕がいつまでも血の匂いをさせてきたのは、それを諦められなかったからです。これ以上生きる延びるのは、地獄です」 迪三郎に告げられ、六太は身を翻して部屋を飛びだした。使令の姿も消えた。 「尚孝様は、真面目すぎたんです。何事も、鷹揚に構えることができなかった。同じ名前なのに、ずいぶん違った。あの方に、尚隆様のようないい加減さがあれば、会津も変わったかもしれないのに」 「随分な言われようだな」 皮肉を返す尚隆だが、その目は真剣だった。瞳の中の悲しみを知って、迪三郎はそれだけでも救われる自分を知ったのだった。
終章
「いろいろすまなかったな」 国の東の果て。虚海のその向こうには蓬莱という国があるという。 尚隆は昇ってくる陽を見つめながら、傍らに立つ自分の半身に詫びた。 尚隆の足に額ずいた時、体の中を衝撃が駆け抜けた。それは言葉では言い表せないものだったけれど、それで主の真意を汲み取ったことに間違いはない。 そのまま蓬莱に行き、迪三郎の残してきた悔いを確かめてきた。 「あのまま、あいつの望むように振る舞ってやれば良かったのに」 尚隆は軽く笑った。 「あいつらは俺が遊んでいれば文句を言うが、真面目にしていても何かと煩かったな」 「お前のは中庸がないからな」 とうとう尚隆は声をたてて笑った。 「命だけは助けてやりたかった」 不意に六太が沈んだ声で呟いた。 「あいつは死ににきたんだ。あのままあの国に留まっておれば、あいつの一番見たくないものを見なければならなかったからな」 六太は黙って尚隆を見上げた。 「この国では惜しんで見送ってもらえる王はいない。王が倒れるとき、それは即ち、国が傾いているときだからな。寿命がないというのも、一種の地獄だ」 遠くを見つめる尚隆の目に、炎が灯る。 六太はいつまでも、暁の陽に染まる、端整な横顔を見つめていた。
了
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