斜陽
序章
眼下に立ち昇るいく筋もの煙を見て、少年の側に立つ同志が喉を震わせ、男泣きに泣いた。男たるもの、簡単なことで泣くものではないと、小さい頃から教えこまれ、自分もそれを承知していたはずなのに、少年も、今それを止める術を知らなかった。 緑の大地に整えられた田畑。戦が起こるであろうという噂は知っていたけれど、まさかこの緑の大地にまで押し寄せてくるとは思わなかった。正義はこちらにあったのだから。いずれ、こちらが都に攻め入り、わが主人をその極みへと押しやるはずであった。 そしてその椅子に座るべき人物は……。 「お先に御免!」 誰かが脇差を抜いた。それに遅れまじと、次々に仲間が膝を着く。一面に血の匂いが立ちこめた。 少年はその匂いに酔ったのか、ふらふらと後ずさった。 駄目だ。そんな声が頭の中でこだました。あの人の側へ行く。行かなくては。死ぬのなら、あの人の隣で。 少年が踵を返したその時、ぐっと足首を捕まれた。 「ひぃっ!」 遮二無二捕まれた足を振った。ぬるっとその手が滑って、身体が自由になる。 「許してくれっ」 少年は後を振り向かずに走った。たった一人。それが志に背くことになると十分知りながら。
走れ! 走れ! 木の根に足を取られ、窪みに転げ、少年は走った。 城は炎に包まれている。遅れればあの人は一人で逝ってしまう。 死ぬのなら一緒だ! そう誓った。 細い枝が少年の頬を打つ。下生えの草が素足を傷つける。それでもかまわずに彼は走った。早く行かなければ、あの人の自刃に間に合わない。彼は死ぬためだけに走ったのだ。あの仲間たちと、少し時を違えるだけだ。これは裏切りではない。 あの大きな幹を飛び越えれば森を抜けるという所で、少年は爪先に鋭い痛みを感じて前につんのめった。咄嗟につこうとした手が空をつかんだ。 え? と思う間もなく、彼は落ちていった。このままどこへ行くのだろう。 彼は果てしなく落ちていく間、薄れゆく意識の中で絶望的に考えていた。 もう間に合わないのだと……
第一章
虚海。その東の果てに幻の国があるという。 男は時折、誰にも知られぬ様にして、一人で最東の地にやってきていた。足元を虚海の青い波が浚う。 黒い髪を高い位置で無造作に一つに束ね、鋭い瞳は地平線のその先を射るかのように見つめている。腰に下げた大振の刀に軽く手を置き、波の音を聞くともなしに聞く。固く結ばれた口元には、いつも男の周りの者を嘆かせるあの人を喰ったような笑みは、今はない。 今男の傍に、彼の半身がいたなら「帰りたいのか」と問うただろう。 男は即座に「否」と答えることが出来る。 出来るが……。 男はそう考えて、苦笑した。早く自分の「在るべき場所」に帰ろう。今頃はまた目を釣り上げて、小言の中身を考えている者が待ちかねているだろう。 ふっきるように目を海岸線に沿わせたとき、その黒い固まりに気がついた。 「なんだ、あれは……?」 男は急いで、だがしかし油断しないで、それに駆け寄った。近づくに従って、それはかなり大きな物だとわかり、十歩程を残すに至って、人なのだとはっきりした。 上下とも黒い服を着ていた。そして、黒い髪。 腰には、この国では見かけない細い刀。 「おい」 昨日、国の南東を駆け抜けていった小さな蝕。あの程度では海客は来ないと思っていたが、それは甘かったようだ。しかし、その流人はぴくりとも動かない。 「駄目だったか……」 海客のうち、半数以上は遺体として流れつく。そもそもこの雁の国に海客がやってくることの方が珍しいといって良かった。 男はそれでも、せめて手厚く葬ってやろうと思って、流人の肩を持って起こしてやった。そこで初めて、それがまだ少年で、生きているとわかった。額や頬に、後れ毛が濡れて張りついている。身体は冷えきっているが、目蓋が微かに動いた。 「おい、しっかりしろ」 肩を少し揺すってやると、少年は小さな呻き声と共に、薄く目を開けた。 「なお……た…か……さま……」 生気のない顔を嬉しそうに微笑ませて、少年は尚隆に向かって手を差し出した。驚く尚隆に届かず、手がぱたんと落ちる。 「おい! お前!」 少年は尚隆の腕の中で、安心しきったように眠っていた。
「尚隆、海客を拾ったって?」 衝立の向こうから元気な声が響いた。続いてひょいと金色の髪が現われる。まだあどけなさを残した少年の、小さな身体とはいえ、膝裏までもその髪は伸びていた。 「そう言うお前はどこへ行っていたのだ?」 人の悪い笑みを湛えた尚隆は、つかつかと入ってきた六太を見やった。 「俺ー? 俺はちょーっと、そこまで」 六太の答えに尚隆は笑みを深くした。 「その分だと、朱衡に搾られてきたな」 「人のことを言えるのかよ」 頬を膨らませる六太に、尚隆は声をたてて笑う。 「で? 海客って、そいつ?」 六太は賓客を迎える間を陣取って、榻の上で眠りこけている人を覗き込んだ。 「まだ子どもじゃねーか」 六太の眉が寄せられる。そういう六太も外見は十三の子どもの形をしている。齢は四百年を重ねるが、その姿から誰もが彼を子どものように扱ってしまいがちである。 「子どもだから蝕から逃れられぬというものでもなかろう」 言葉尻に微かな険を感じて、六太はそっと自分の主を盗み見た。 六太は人であっても、その本性は人ではない。麒麟というこの国の神獣である。 この世界には十二の国があり、雁州国は世界の東北に位置する。一国に一頭の麒麟が生まれ、麒麟は王を選ぶ。 十二国の虚海の果てには蓬莱という国があるといわれている。尚隆と六太はその蓬莱で生まれた。 六太は麒麟として連れ戻され、尚隆という王を選び、荒廃の最中にあった雁の国を緑の山河に復活させた。 「任せろ」といい、血を忌む六太に「目をつぶっていろ」といって、尚隆は国を治めた。「もういいぞ」といわれたのはいつのことだっただろう。雁州国は富み、荒廃の影はこの国のどこにも見えなくなった。 「朱衡に、何か謂われた?」 六太はからかいの色をにじませて尚隆に尋ねる。多分、叱られたのは自分の方が後である。朱衡は怒り心頭というふうではなかった。その前に尚隆にぶつけたのだろうと想像できた。 「なに、いつものことだ」 尚隆はそれでも瞳の曇りを隠さず、とうとうと眠る少年を見つめた。心なしか、顔色が戻ってきているように思われた。 六太はつられて少年を見たが、すぐに目を反らせてしまった。 「尚隆、ちょっと」 尚隆は袖を引かれて、立ち上がった。彼の下僕が何を言いたいのかわかっていたが、それは確かめたいことでもあった。 完全に部屋の外に出たところで、六太は掴んでいた袖を離し、出てきたばかりの扉を見つめた。 「あいつ、血の匂いがするんだけど」 それは六太にとっても久しぶりに嗅ぐものだった。 「それも、生半可じゃねーぞ。すげー怨訴がかかってる」 平和な国には決して存在しないもの。 「やはりな……」 「何か知ってるのか?」 六太は目を細めて彼の主を見上げた。 「いや。ただ、気になることがあってな」 「気になること?」 「まあ、目が覚めればわかるだろう」 尚隆は眉をあげて六太を見た。 「匂いが消えるまで、しばらく近寄るな」 部屋の出口に立つ小臣に目が覚めたら知らせるように言って、六太の頭を軽く叩いて内殿へと促した。
「どうするつもりだよ」 ここまでくれば城内の誰にも聞かれないというところで、六太は尚隆に詰め寄った。 「さあ、どうしたものやら」 相変わらず、何も考えていないのではないかと思える返事をして、尚隆は窓際の椅子に腰掛けた。 「あんな匂い、とてもじゃないが普通じゃねーんだぞ」 「六太。それがこの国に何の関係がある? あいつは海客だぞ」 そう言われて、六太は詰まった。 「まさかお前まで海客は災いを運んでくるなんて言うんじゃないだろうな。だったら、雁の国はその最たる国ということになる」 唇を噛んで六太は身を翻した。 尚隆は血の匂いがしなかった。倭の国で戦火の上がらぬ所などなかったあの時でさえ。雁の国を滅ぼし尽くす王だと思いながら、それでも六太は知っていた。この者なら、自分の背負ったものを預けられると。自分の苦しみを分かち合ってくれると。 だが……。
六太が出ていくのと入れ代わりに、朱衡が入ってきた。 「主上、海客の様態はいかがでした」 尚隆は雲海の水面を眺める目を戻しもせずに、笑いを含んだ声で答えた。 「俺に聞かなくとも知っているのではないか?」 「知っておりますが、主上が熱心でおられるので、お聞きしたまでです」 「何をつっかかっておるのだ」 尚隆は面白そうに堅物な臣下を眺めた。 「滅相もございません。ただわたしは、主上がなぜ東の果てまで出向かれたのか、それが知りたいのです」 「臣下が皆冷たいものだから、故郷が恋しくなってな」 「は?」 「四百年も真面目に王をやってきたのだから、俺でなくとも誰かが真似てくれればいいものを、いつまでたってもあれも駄目これも駄目といっては俺をいじめるのだ」 それほど真面目なときがこの四百年の間で幾日あっただろう。真面目な日を数えるほうが早いのではないだろうか。 「主上」 「朝議をさぼれば、写経だ、暗記だといわれるし、出れば何もいうなと言われるし」 出れば以前決まったことを蒸し返し、何か新しい案を言うのかと思えば正統な理由で否決したようなことを言って、それが面白いと自分で笑ったりするのは誰であったか。 「恐れながら、主上」 「近頃は冗談を言っても誰も笑ってくれぬ。この笑いの絶えた城で、どのような温情のある政をせよというのだろう」 尚隆はあからさまな泣き真似をする。 「主上」 「人のことを主と呼びながら、同じ口で召使といったりするのだ、誰かは」 「それはわたしのことでございますか」 「違ったか?」 「生憎、わたしではございません」 「では帷湍だったか」 「帷湍でもございませんでしょう」 「では成笙しかおるまい」 「成笙のはずがございません」 「そら、そうやっていじめる」 大らかといえば大らかだが、真面目なところがないといえば、こんな不真面目な王もいないだろう。朱衡はため息をついて、本日の閣議の内容を奏上した。 朱衡が巧くはぐらかされたと気づいたのは、その日の夜であった。
第二章
目覚めると、既に夜のようだった。薄闇の中、蝋燭の頼りない炎が揺らめいていた。 どこかに落ちていったはずなのに、床に寝かされていて、それが粗末なものではないとわかって、少年は不安になった。まさか敵に捕われたのだろうか。いや、それなら捕虜として妥当な扱いではない。 首を巡らして、妙な感覚が襲ってきた。見慣れない建物、それは曼陀羅に描かれていた異郷のようである。広い室内はふんだんに玉や金糸銀糸の布製の領巾、磨かれた大理石の床。 とうとう自分は西国浄土にきたのだと思い、それが一人であることに涙を流した。 「なおたか…さま」 答えてくれる人はいないと知りながら、口にせずにはいられなかった。なのに……。 「呼んだか?」 衝立ての向こうから低い声がして、長身の男が姿を現した。少年は声がしたことに驚き、目を見張ってその姿に見入った。 「俺を、呼んだか」 少年は黙って首を振った。 「ここが何処だかわかるか」 言葉を失くしたように首を振る少年に、尚隆はゆったりと笑って、榻の横に椅子を運んで座った。 「名前はなんという」 「斎藤迪三郎と申します」 迪三郎は身分の高そうな相手の形に、緊張して答えた。 「俺は小松尚隆だ」 「なおたかさま?」 「お前の呼ぶ者と同じ名前らしいな」 尚隆は気の毒そうに笑って、迪三郎に水の入った椀を渡してやった。迪三郎は痩せた手で受け取り、こくこくと喉を鳴らして飲み干した。首も尚隆が掴めば折れてしまいそうなほど細い。 「ここはお前の住んでいた国ではない」 「何処なのでしょうか。極楽とも思えません。私は生きている」 迪三郎は改めて室内を見渡した。ますます困惑してしまう。生活様式がまるで違うのだ。 「ここは雁の国。雁の他に十一の国があって、それぞれ王が治めている。極楽というのが死者の逝く国のことなら、ここはそんな所ではないな。皆ちゃんと生きている」 「帰れるのでしょうか。会津に」 縋りついてくる目は、覇気を失くして、帰ったとしても生きていく気力に欠けていることは見て取れた。 「可哀相だが、帰れぬ。ここで生きていく方法を探すのが善かろう。お前の他にもそんな者たちがいる。お前の国から流されてきた者たちが」 「帰れない? 帰れないのですか!」 迪三郎は思わず、尚隆の袖を掴んで叫んでいた。 「どれほど遠くても、私は帰ります。この足を潰してしまってもかまいません」 必死の形相の迪三郎に向かって、尚隆は静かに告げた。 「人は虚海を渡れぬ」 「虚海?」 「この世界を虚海という海が取り巻いている。その東の果てに蓬莱、お前の住んでいた国があるという」 「それなら!」 泳いででも渡ろうとする迪三郎を落ち着かせようと、尚隆は肩を押さえてやった。 「虚海の果てを見たものはいない。果てなどないとも言われている。それに、俺は虚海を渡ってきたから知っている。人は、虚海を、渡れない」 「貴方が渡ってきたのなら!」 「俺は人であって人ではない。この国を治める延王だ。王は神に籍を置く。既に人ではなくなって、四百年たつ」 迪三郎の瞳が絶望に塗り替えられていった。 「この世界で生きていく道を探してやろう」 尚隆の穏やかな言葉も、迪三郎には届いていないようだった。 「何のために、何のために仲間を見捨てたのだ。こんなことになるのなら、皆と一緒に腹を詰めたものを!」 迪三郎は沸き上がる怒りを自分の両拳にこめ、膝を叩いた。「何のために」となじりながら。 「それはなおたかという者に、関係があるのか」 尚隆の問いに、迪三郎は泣き崩れた。 「お許しください。私は貴方の傍で死にたいために、武士の魂を捨てました。切腹し、互いに喉を突く仲間から、一人逃げ帰ったのです。お許しください」 迪三郎は膝に顔を埋めて、泣きながら懺悔をした。そこにいる尚隆に許しを求めながら、いつまでも「お許しください」と泣いていた。
興奮した迪三郎を落ち着かせ、ようやく眠ったところで、尚隆は部屋を後にした。 「革命だ」 長い廊下を曲がったところで、六太が待ち構えていて一言、そんなことを言った。 「まさか」 「莫迦。雁のことじゃねえ。蓬莱だ」 尚隆は可笑しそうに、唇に笑みを掃いて、眉を上げてみせた。 「ほほう。行ってきたのか」 「お陰で身体がふらついてかなわねえ。酷い血の匂いだった」 「鎮圧されたのか?」 「革命が? まさか、革命は成功した。それを認められない莫迦たちが抵抗してる。けど、革命軍の方が優勢で、もうすぐ蓬莱に新しい権力ができる」 「そうか……」 尚隆はため息をついて歩き始めた。六太が後をついてくる。 「幕府軍の総大将は、死んだのか」 「さあ、わからねえけど、戦が続いているってことは、死んじゃいねーんじゃないの?」 「……」 唇を軽く摘んで尚隆は何やら考え込んでいた。 「あいつ、どうするんだ?」 六太は珍しい尚隆のそんな姿に、胸にわだかまるものを感じていた。何故だかわからないけれど、あの少年をここに置いておきたくない。それは一種の予感とも言えるものだった。 「しばらく置いておくしかなかろう」 尚隆の答えに、六太は眉を寄せた。それは物思いにふける尚隆の目には触れなかった。
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