× × × 序章 × × ×

 

 少年は高岫山の頂上から見渡せる、二つの国を眺めていた。

 これから春を迎えるというのに、一方の国は芽吹く緑もなく、茶色の地肌を曝している。

 この国には、ここ長く、長命の王が起ったためしがないという。

 少年は十五。彼が生まれると時を同じくして王が斃れた。

 麒麟が王の選定に入ったと訊いたとき、彼は世の中の仕組みを理解できるくらいにはなっていた。

 しかし、今だに新王は即位していない。

 そして今また、安闔日が近づいている。国の誰もが今度こそはと期待していると同時に、大きな不安も抱えている。本当に王となるべき人物が、その中にいるのだろうかと。

 少年は左から右に目を転じた。

 何もかもが違う。緑の大地に、整えられた里。五百年以上にわたり、一人の王が善政を布けば、こうも変わるのだ。

 そして少年は真正面、青海の向こうに霞む山を見つめた。

 あそこに麒麟が居る。

 睨むようにして見つめ、両手を握りしめた。

「待ってろよ!」

 口にすれば闘志が湧いた。

「門は待ってくれぬぞ」

 突然背中から声をかけられ、少年は驚いて振り返った。

「うわーっ!」

 まさしく目と鼻の先に、大きな虎の顔があった。その黒真珠のような淡い輝きを放つ目と、目があってしまい少年は尻餅をついた。

「驚かせるつもりはなかったのだが。すまぬな」

 あまりに近すぎて気づかなかったが、すう虞の隣に、長身の男が立っていた。詫びている言葉を裏切るように、楽し気にニッと笑っている。

「これ、あんたの?」

 指を差せば腕ごと喰われる気がして、少年は顎で目の前の獣をしゃくった。

「乗せてってやろうか?」

 男の台詞には少しも気負ったところがなかった。すう虞を持っているような人物が、気軽に人を乗せてやろうなどというとは思っても見なかった少年は、好奇心に負けて、素直に頷いた。

 男はその返事に声を上げて笑い、少年を起こしてやった。そのまま脇を抱え、大人しくその場に伏せている騎獣の背中に乗せた。

「どこまで行く?」

 男は少年の後ろにひらりと跨がり、手綱を取った。虎は優雅に立ち上がる。

「令乾門!」

 元気よく叫んだ少年がいう場所に、男はビクリと手を震わせた。

「何て……、言った?」

「令乾門」

 先程の元気とうってかわって、少年はぼそぼそと口の中で呟いた。

「まさか……、昇山か?」

 男は尚も信じられぬ顔で、うな垂れた少年の項を見た。

 男が片手でも捻り潰せそうな細い首。抱えあげたときの感覚からいえば、胴もかなり細い。とても軽くて、彼の国の貧しさに耐えかね、国境を越えようとしているのだと思った。

「昇山じゃねぇ、麒麟に会いに行くんだ」

「同じじゃないか」

 男は呆れて、振り返って叫ぶ上気した幼い顔を見つめた。

「同じじゃない。俺は、会いに行くだけだ」

 むきになって叫ぶ少年に、男はそれ以上詮索はせず、すう虞を飛び上がらせた。

 遠ざかる大地に、少年の身体がぶるっと震えた。

「悪いが、令乾門までは送ってやれぬ。が、烏号まで送ってやる。そこから恭国まで船に乗れ。春分までには間に合うだろう」

「ありがとうございます」

 男の好意に、少年は小さな声で礼を言った。

 

 

 

 

     × × × 一 旅立 × × ×

 

 六太は目の前の不遜な笑顔を、穴の開くほど見つめた。

 五百年間見続けた顔である。近ごろ何か企んでいるなとは思っていた。しかし……、まさか……。

「しょうざん?」

 信じられずに呟いたその言葉に、どのような文字を当てはめればいいのか、思考が逃げを打った。

「そうだ。蓬山に登る」

 尚隆は悪怯れもせず、まるで散策にいくかのような気軽な言い方をした。

「往復でも四日はかかるぞ」

 そんなに留守をすれば、いくら最近物分かりがよくなった朱衡たちといえども、怒りが大爆発しかねない。

「誰が雲海を渡っていくと言った?」

 十二の国をかかえる世界の中心にある黄海。そのまた中央に、蓬山は在る。各国の王の住む宮は国のほぼ真ん中、空を突き抜ける山の頂にある。

 この雁の国でいえば、関弓山の頂上に、玄英宮がある。

関弓山は天の上の海、雲海を突き抜け、真っすぐに五山へ行くのもそう困難なことではない。

「まさか、黄海を行く気か?」

 目を見張る六太に、満足そうに微笑みかけ、尚隆は自分の計画を熱く語って聞かせた。

「この国の王は大抵が昇山をして、麒麟に選定されるのであろう? 俺だけがその苦労を知らぬというのは、五百年の統治だけで名君といわれるのは気が引ける」

「お前が気が引けるようなタマか」

 真面目に取り合ってられないとばかりに背を向けた六太に、尚隆は余裕で話し続けた。

「今なら政務も安定しておるし、俺一人が抜けたところで、誰も困らぬ」

「いつもふらりと出ていくくせに」

「その隙に、王としての最初の務めを、五百年たった今、支払いにいこうというのだ」

 口端を上げて笑う尚隆は、明らかに何か他の目的を持っていた。

「今蓬山にいるのは、慶の国の麒麟だけど、雁の国だけでは満足できなくなったのか?」

 十二の国がある。一国に一頭の麒麟がいる。その麒麟が自分の王を選ぶ。

 六太は雁の国の麒麟である。常には人の形をしているが、その本性は麒麟という霊獣である。そして尚隆という延王を選んだ。

 六太と尚隆は、蝕によって蓬莱へ流された胎果である。麒麟と王であったが故に、この国に連れ戻された。そういう所以があって、延王は昇山をしていない。

 普通ならば、麒麟が成獣になった時点で生国に麒麟旗が上がり、我こそは王たる人物だと信じるものたちが、麒麟に選んでもらうため、黄海に入り、蓬山を目指す。

 一口に昇山といっても、それは困難を極める。

 黄海は本来人の踏み入れる場所ではない。妖魔が跋扈し、沢山の犠牲を払って、人々は麒麟の元へ辿り着くのだ。

「景麒を見るのも一興だが、昇山というものをしてみたいだけだ」

「だったら止めておけ。あそこは命がいくつあっても足りない」

 尚隆が簡単に引き下がらないのを見て、六太は内心焦っていた。黄海の恐さなら、実際に住んでいた自分が一番よく知っている。

「五百年も生き長らえてきたんだ。今更惜しい命でもなかろう」

「尚隆!」

 叫んだ六太の目に、尚隆の目が、いくら反対しても無駄なのだと告げている。

「行くぞ、俺は」

「駄目だ。絶対駄目だ」

 六太は首を横に激しく振った。金色の髪が揺れて、光の帯を作っている。

 五百年以上生きているとはいっても、六太の外見は、十二、三のままで成長が止まっている。首を振る仕草はますます幼く見えた。

「麒麟でさえ命を落とすことがあるほど危険なところなんだ。騎獣では襲ってくる妖魔から逃げることも出来やしない」

「逃げることはない。剣があれば、立ち向かっていける」

「そんじょそこらの、人界に下りてくる妖魔とはわけが違う。数も半端じゃねえ。そんな所へ行かせられるか!」

 六太の悲鳴に似た声に、尚隆は嬉しそうに笑った。

「何を笑っていやがる!」

「そんなに心配してくれるのかと、嬉しくてな」

 尚隆の揶揄に、六太はさっと頬を赤らめた。

「誰がお前の心配なんか! 俺はもう一度王を選ぶのが億劫なだけだ!」

「生きて帰れば、文句はなかろう」

「その保障はないっつってんだ!」

 地団駄を踏む六太の頭に、暖かくて大きな手が置かれた。

 その暖かさに、一時六太は酔う。

「主は誰だ。うん?」

 その問いに、六太は唇を噛んで答えない。

「俺は行く。小言は聞かない。黙って行こうとも思ったが、お前には俺の居場所がわかってしまう。だから先にことわったのだ。それを引き止められたのでは、割りに合わぬではないか」

「狡い」

 手の暖かさと、優しい泣き脅し。そうすれば、自分の下僕が逆らえないことを知っている。

「雁に何かあれば、世界で一番速いというその脚で報せにきてくれ」

 金糸の束を掻き回し、尚隆は手を離した。

「勝手にしろ! どうなっても知らないからな!」

 せめてもの腹いせに、口汚く罵って、六太は足音も荒く部屋を出ていった。扉の所で振り返り、真っ赤な舌を出した。

 尚隆が豪快に笑うのを聞いて、柱が震えるくらい、激しく扉を閉めた。

 憎らしい主は、それでもまだ笑っている。

 次の日、夜も明けやらぬうちに、玄英宮は禁門から、一頭の騎獣が飛び立った。

 長い尾を風に靡かせ、その獣は東へ向けて飛んで行く。

 慌てふためいた声と、右往左往する松明の篝火。

 六太は露台からその光景を唇を噛み締めて見ていた。

「台輔」

 足元から六太を呼ぶ声がした。

「悧角?」

 まさか、と思い、六太は自分の使令の名を呼んだ。

「どうした。なぜ戻ってきた。すぐに尚隆を追うんだ。側について守れ」

「主上が台輔のお側を離れるなと」

 足元の声は戸惑っていた。いったい、どちらの命令に従えばよいのか迷っているのだろう。

「尚隆が?」

「はい。王宮といえども、万全とはいえぬ。自分の抜けた分、成笙たちも忙しくなり、台輔の御身をお守りする目も弛みがちになるかもしれぬから、今まで以上、しっかりお守りするように。自分は大丈夫だからと」

「駄目だ。ここは安全だ。黄海以上に危険な場所なんてない。頼む、利角。行ってくれ」

「それが……」

 悧角の途切れた言葉に、六太は苛立ちを募らせた。

「王の代わりならすぐに見つかる。麒麟の代わりは時間がかかると……」

「あの……、莫迦っ……!」

 それでは本末転倒である。

 代わりを探す必要などないようにしていれば、何も問題などないのである。

 言葉を失くして佇む六太に、使令も黙り込んだ。

 夜の中に一人とり残されて、六太はその場から動けずにいた。

 涙が零れそうになるのを必死で堪えた。

 

 

 

 

 

     × × × 二 昇山 × × ×

 

 令乾門は安闔日を迎えたにもかかわらず、ひっそりとしていた。

 昇山しようというものは、わずかに三名。伴の者を入れても、うら寂しい感は拭えない。

 その中に、一人だけ意気揚々としている若者がいた。

 身形は貧しいが、凛と顔を上げ、今にも駆け出さんばかりの意気込みである。

 葡萄色の髪が、無造作に肩の辺りまで伸ばされている。朝露を弾く葡萄のように、彼の髪も艶やかに光っていた。

 髪の色をもっと深くしたような瞳は藍色で、意志の強そうな光をたたえている。

 まだ少年といってもよさそうな年の頃である。

 若いからといって、昇山できぬわけでもない。この令乾門が一番近い恭国の女王が登極したのは十二才の時であった。

 十二才の女の子にできて、この少年に出来ないというわけはない。ないのだが……。

 これから昇山しようとするものたちは、ちらちらと彼の姿を盗み見ていた。

 少年はまったくの一人であった。騎獣に乗っているわけでもなく、護身のものを連れている風でもない。刀は持っているが、妖魔と戦うにはあまりにも小さく、剣といった方がいいのかもしれない。

 止めておきなさい、と誰かが声をかけるのを待っていたが、誰も声をかける様子はない。ならば自分が言ってあげた方がいいのかと、その場の誰もが決意した。その時……。

 少年の肩をぽんと叩くものがいた。

 少年は思わず大きな声を出して、一歩ほども飛び上がった。

 それを見て周りから笑いが漏れた。あの少年も緊張していたのだとわかって、皆一様に安心しての笑いだった。

 そして、少年の肩を叩いた男もまた笑っていた。

「あ、あんた!」

 少年は自分の肩を叩いた男を見て、素頓狂な声を上げた。

 指をさされた男はにやっと笑って、少年の葡萄色の髪を掻きまぜた。

「無事に着いていたな」

 男の声は優しかった。落ち着いた響きに、少年は張り詰めていた全身の力を抜いた。

「何しにここへ?」

 少年は最初からここまで送ってくれればいいものを、と非難交じりの目で、正面に立つ自分より頭二つ分は裕に高い、その男を見上げた。

「名前を訊くのを忘れたのでな」

 男は事も無げに言った。

「まさか……、それで、ここまで?」

 信じられないとばかりに、少年は首を横に振った。

「俺は尚隆という。お前は?」

「俺は馮河、阮馮河」

 馮河は一歩後退りながら、尚隆の差し出した手を、恐々と握った。

「黄海の旅は危険だ。一緒に麒麟に会いに行こう」

 尚隆の提案に、少年は初めてにっこり笑った。邪気のない笑顔だった。こんなに澄んだ瞳を持つこの少年を、出来れば王にしてやりたい。

 尚隆は心からそう願った。

 馮河は暖かい手を握り返しながら、ただじっとその強い瞳を見つめ返した。

 同じ男として、出来ればこんな風に生まれてみたかったと思わせるような、偉丈夫な身体と、それを裏切らない精悍な容姿。羨ましいと思いながら、不思議と悔しいとは思わなかった。

すう虞は?」

 馮河はあの美しい騎獣にもう一度乗ってみたかった。

「たまなら、すぐそこに繋いであるよ」

 珍しい音の名前を持った立派な騎獣は、男の顎が示す場所に、大人しく座っていた。側で二、三人の男がそれを眺めている。

 馮河は虎に駆け寄った。獣はちらりと馮河を見、そして尚隆に視線を移したが、素知らぬ顔で目を閉じ眠りの体勢に入っている。

「少ないな」 

 尚隆は辺りを見回し低い声で呟いた。

「いないと思う」

 馮河の悔しそうな声に、尚隆は俯いて立つ、小さな身体を見下ろした。

「いない?」

「うん。王さまはこの中にいない。いや、これからも昇山しないと思う」

 馮河は勢い良く顔をあげて、尚隆を見つめてきた。

「王になるべき人は、自分じゃ気づいていない。だから、麒麟が迎えにいかなきゃ」

 切羽詰まった声に、尚隆はもしかしたらと期待を寄せる。この少年のように、自国を想うものが王であればいいのにと。

「説得に行くというわけか?」

 尚隆の深い眼差しに、馮河は黙ったまま頷いた。

「自分が王であるという可能性は考えないのか?」

「先王は阮姓だった……」

 尚隆ははっと目を見開いた。たしかに、先の景王は阮智陵という名だった。同じ氏を持つものは次の王にはなれない。それがこの世界の決まりだった。

 惜しいと思う。この澄んだ瞳に映るのは、きっと素晴らしい国なのに……。

「行こう。蓬山公に下山を願いに」

 少年は決意も新たに、元気よく頷いた。

 

 

 

 

     × × × 三 黄海 × × ×

 

 雲海の上を、東から西へと、黒い影が駆け抜けていった。

 雲海に向けて開かれている、蓬山の唯一の門を、その影は女仙たちに見つからぬようにこっそり潜っていった。

 そのまま蓬山のどの宮へも入らず、影は一路、黄海へと入っていく。

 淡い金色の光が、夜の黄海へと消えていった。

 

 悧角の背中に乗り、六太はある場所を目指していた。

夜の黄海は魔物の声が不気味に響き、眼下には黒い樹海が、命を呑み込む深海のように思えた。

「あそこだ」

 六太が指し示した場所に向かって、使令は徐々に高度を下げていった。高度を下げることは、すなわち危険が増すことを意味する。背中に乗っている六太には、使令の緊張が伝わってきた。

「大丈夫だ。ここを襲う妖魔はいないから」

 六太に告げられて、悧角は一直線に、ようやく見えてきた小さな庵へと向かった。

 使令が庵の前に着地すると、六太はふわりと身軽に飛び降りた。

 同時に庵の扉が開いて、中から一人の青年が出てきた。

「珍しいですね。何かあったのですか?」

 青味を帯びた黒い髪が、闇に溶け込んでいるかのように見えた。

「お願いがあってきた」

 六太の金の髪は、夜目にも鮮やかに煌めいて見えた。

「本当に珍しい」

 青年の周りの空気が和らいだ。きっと優しい笑みを浮かべているのだろう。

 六太はそれでも硬い表情を崩せずに、何から言うべきか逡巡していた。

「わたしに出来ることですか? 六太の頼みなら、少々の厭事でもお引き受けしますよ」

 あくまで優しい口調で言われて、六太は決心がついたのか、ようやく口を開いた。

「尚隆が昇山すると言って、黄海の中に入ってしまったんだ。頼む、更夜の力であいつを守ってやってくれ」

 六太の声は逼迫していた。

 夜が明けようとしていた。

 白々と東の空が白み始める。朝日を浴びて、六太の髪が光彩を放っていた。

「わたしに延王の警護をしろと?」

 六太は首を縦に振った。そんな仕草が外見年令のせいもあって、ひどく幼く見える。

「今、蓬山には慶の麒麟がいるんじゃなかったのかな」

 更夜の口調は笑いを含み、六太をからかっているようにもみえた。

「何か事情があるみたいなんだけど、あいつ、何も言わずにいっちまったから。使令も追い返してしまうし」

 今にも地団駄を踏みそうに、六太は不貞腐れて見えた。

しかしその目は今にも泣きだしそうに、真っ赤になっていた。

「六太、知っているとは思うけれど、わたしは本来人とは交わらない。関わりたくないんだ」

 更夜は笑いだしそうになるのを必死で堪えていた。ただからかいたいだけなのだが、自分の想いで一杯の六太にはわからないらしい。

「でも、更夜は雁の国の飛仙じゃないか。尚隆が死ねば、仙籍も消えてしまうんだぞ」

 六太は、怒りか悲しみか、それとも必死になっているだけなのか、頬を赤くして叫んだ。

 普段から冷めた態度の延麒の、そんな健気な姿に、更夜はとうとう吹き出した。 

「更夜!」

 六太の抗議の声にも、更夜はくっくっと喉を震わせて笑った。こんなに笑ったのは、どれだけ久しぶりのことだろう。更夜は目尻に滲んだ涙をそっと拭いて、目の前で頬を膨らませている麒麟を見た。

「もう五百年にもなるのにね」

「それを言うなら、五百才だろ」

「違うよ。五百年を数えても、それだけ長い間傍にいるのに、少しも飽きないんだ?」

「なんのことだよ」

「今でも変わらずに、六太は延王が好きなんだ」

 更夜の指摘に、六太は身体全体が熱くなるのを感じた。全身の血が沸騰したかと思った。

「もう更夜には頼まない!」

 憤然として使令に乗ろうとする六太を、更夜はあわてて袖を掴んで引き止めた。

「御免。ただ嬉しかっただけなんだ。六太の変わらない気持ちが」

 六太は振り返った。そこには更夜のたおやかな微笑みがあった。

「六太の大切なものはわたしが守る。約束するよ」

 出会ったとき、自分よりずいぶん小さな子供だったこの青年は、子供の形のまま成長を止めた自分をいつのまにか追い越していた。そして六太には出来ない大人の笑い方をする。

「大切なんじゃねえ。死なれたら困るだけだ」

 ふいと顔を逸らせて強がりを言う六太を、更夜はただ微笑んで見つめていた。

 

 

 

 

 

 

     × × × 四 道程 × × ×

 

 昇山の者はごく少なかった。大勢の方が心強いときもあるのだが、少人数だとかえって団結力が固まるものかもしれない。

 そして、供の者を含めた二十人ほどの団体は、自然と尚隆を統率者としてまとまっていった。

「兄さん、あんた、本当に雁の国の人か? 惜しいなあ」

 昇山の者の中で一番年長者の琉が、尚隆にしみじみと呟いた。

 最初に名前を尋ねられたとき、尚隆はその名前だけを教えていた。身分も姓も持たない海客だといえば、皆が驚いていた。

 海客とは、この世界の東の果て、虚海の向こうにあると言い伝えられている、蓬莱の国から蝕によって流されてくる異世界人のことであった。

「海客でも、胎果なら、王にもなれるってもんだ」

 海客とは反対に、この世界から蝕によって流された卵果が蓬莱に流され、向こうで生まれたものたちを胎果という。

「雁州国の王も、台輔も、胎果だ。あんたも自分がその可能性を持っていると考えてもいいものを」

 尚隆が自分は雁の国の人間であると言い切ると、琉は本当に残念そうに愚痴をこぼした。

「俺が胎果で、慶の人間であったほうが良いのか?」

 尚隆は心底楽しそうに琉のしかめっ面を見ている。

「ああ。あんたを見ていると、昇山を志した自分でさえも、あんたを王にしたいと思う」

「俺は自堕落で、縦の物を横にもせぬ性格だ。そんなものが王になったら、周りも困るだろうな」

 尚隆は、今頃玄英宮で怒りを爆発させているだろう、三人の顔を思い浮べた。自然と顔がほころぶ。ちくとも良心が痛まぬのは、彼らを信頼しているからに他ならないが、帰った後のことを考えると、いくら呑気者といえども少々気が重かった。

「ここにいるあんたは、とてもそんな風には見えないがな」

 実際、黄海の中は、尚隆が想像していた以上に、大変な場所であった。

 六太の忠告は、誇張でも何でもなかったのだ。

 妖魔の襲撃は、護衛の剛氏たちの言を以てすれば、信じられないほど少ないのだという。

 それでも三晩とゆっくり寝られなかった。

 鵬雛がいる。剛氏たちは確信していた。

 彼らは尚隆を鵬雛と思っているようだったが、肝心の本人がそれを完全に否定していた。

「こんな所で、いくら俺でも昼寝はしていられぬからな」

 豪快に笑う尚隆を見て、琉たちは本当に彼が景王となることを願っていた。

 懐達。かつて慶東国に長く善政を布いた達王。その達王を惜しむ言葉が慶にはあった。

 この、時に人を食ったような笑顔で、妖魔の襲撃さえやすやすと躱す彼が景王になってくれたら……。

「極限に置かれてこそ、人の力量がわかる。あんたにはいざというとき、人を率いていく力が備わっている。それを見極めるための昇山だ」

 琉はどうしても諦められないらしい。尚隆は苦笑して、その思惑を逸らした。

 その言葉を帷湍たちに聞かせてやりたいものだ……。同時に、そんな事も考えていたのだが。

 黄海の夜が更けようとしていた。

 夜の帳が静かに降りてくる。

「坊主は大丈夫か?」

 琉はすう虞に寄り掛かるようにして眠っている、葡萄色の髪の少年に視線を移した。

「ああ。疲れておるのだろう」

 尚隆は珍しく微笑んで、その薄い色素の肌を眺めた。

 馮河はぐっすりと眠っていた。その目蓋には青い血管が浮き出ている。疲れているためか、黄海に入ったときより、その肌色は白く見えた。

「黄海でこんなにぐっすり眠るのも、この坊主ぐらいのものだな」

 剛氏たちが笑っている。

 昨夜、妖魔が襲撃してきた。黒と青の縞の大きな猪の形をした妖魔だった。それが五頭。地響きのような咆哮に、皆は身を縮ませて震え上がった。

「行け! たま!」

 尚隆は素早く馮河をすう虞の背中に乗せ、腰の大刀を引き抜いた。

 虎は木々の高さを越えぬ所まで舞い上がり、危険から少年を引き離した。

 尚隆を先頭に、数名が陣を組み、その大猪を倒した。すでにそういう戦い方も、暗黙のうちに決まっていた。

 一頭の馬を犠牲にして、皆はその場から駆け去った。血の匂いに引き付けられてやってくる、他の妖魔から身を護るためだ。

 一息に駆け抜けた後、すう虞から降り立った馮河は、へなへなとその場に座り込んだ。

「どうした?」

 尚隆は笑って、馮河の前に腰を落とした。

「びっくりした」

 馮河はやっとそれだけを言った。とたんに尚隆が声を上げて笑う。

 そして皆はその笑い声を聞いて、真に危険が去ったことを知るのだった。

 

 昇山の敵は、何も妖魔ばかりではなかった。

 欝蒼と茂る森。人をはねつける岩山。急流の大河。

 足を取られ、道を阻まれ、迂回したり助け合ったりして、皆は先を急いだ。

 しかし本当に皆の足を引っ張ったのは、妖魔でも森でも、岩でも川でもなかった。

「痛ー! もう駄目ー!」

 その声に、うんざりと顔を見合わせる。

 一瞬放っておこうかと、良からぬ考えが過る。疲れは人の心に容易く忍び込む。

 可愛い坊主と最初こそもてはやしていたが、こうも足手纏いになるならと、本当に一瞬だけ、捨てていこうと考えてしまうものを誰が責められるだろう。

 けれど、甘えた声に駆け寄る大きな影に、仕方ないとため息をつく。

 彼がいなければ、統率するものがいなくなる。

「大丈夫か?」

 笑い含みの声に振り返ると、ぬかるみに足を取られ、美しい色の髪を茶色に染めた馮河がべそをかいていた。

「もう歩けない」

 明らかな甘え声に、うんざりしていたものたちも、苦笑を隠せなかった。

 結局、皆も馮河が可愛いのだった。

「そら。水のあるところまでたまに乗れ」

 尚隆は泥の中に座り込んでいた馮河の手をとって立たせてやった。

「たまが可哀想だよ。綺麗な毛並みが汚れてしまう」

 泥まみれの身体を見下ろしてから、馮河は尚隆を見上げる。

 くっと尚隆が吹き出す。明るい笑い声が森閑な森に木霊する。つられて皆も笑いだした。

「酷いよ。みんな」

 馮河は顔を真っ赤にして、ばしゃばしゃと足元の泥水を踏みならした。

「歩けないと言ったのは、馮河なんだが」

 尚隆に指摘されて、馮河は唇を尖らせた。

 深い緑の中、穏やかな笑みの中へ、馮河は鞜をぐちゅぐちゅといわせて戻ってきた。

「あと少しだ」

 尚隆の優しい励ましに、馮河は手の平で顔についた泥を払った。それは少しも役を果たさず、かえって汚れを広げるだけであったが、少年期特有の悪戯な笑みが、皆を励ます結果になった。

「よし、行こう!」

 今まで足を引っ張っていた人物とは思えない物言いに、だれもが好意の苦笑を洩らす。

 馮河が意気軒昂に先頭に立ったその時だった。

 鋭い悲鳴がその和やかな空気を引き裂いた。

「馮河! 伏せろ!」

 尚隆は馮河めがけて跳んだ。

 馮河は驚きと恐怖で身体が強ばり、指一本、動くことも叶わなかった。

 尚隆は跳びざま抜いた刀を振りかざし、空いた腕で馮河を脇に抱え込んだ。

「ひぃっ……!」

 馮河の悲鳴が聞こえるが、今は逃がしてやるだけの余裕もなかった。

 空から一羽の蠱雕が襲いかかってきた。普通のものなら慌てるほどのことはないのだが、その蠱雕はあまりにも大きすぎた。

 普通の大きさでも人の倍ほども有るものが、それは仲間と比べても三倍はあるように思われた。

 さすがに尚隆も、血の気がひいた。

 咄嗟に脳裏に浮かんだのは、出てくる間際の、六太の泣きださんばかりのあの表情だった。

 帰ってやらねばと思うと同時に、心の中で詫びていた。

 もう直接詫びてやることも出来ないと覚悟した。

 襲いくる鈎爪を最初の刃で躱し、蠱雕が舞い上がった瞬間に、力任せに馮河をすう虞に向かって投げた。

「たま! 頼む!」

「尚隆!」

 真上から襲いかかってくる鈎爪を両手の刃で受けとめた。それはかつて経験のないほどの衝撃だった。尚隆でなかったら、その妖魔の襲撃を受けとめかねたであろうと思われた。

 蠱雕は高く啼いた。ばさばさと羽撃き、辺りに風が舞い立つ。

 妖魔は飛び立つつもりはないようだった。鋭い嘴を、かっと開いたかと思うと、尚隆めがけて振り下ろしてきた。

 手を離せば爪に胸を切り裂かれる。離さなければあの嘴に喉を食い破られる。

 どちらもぞっとしたが、尚隆は目を閉じることはしなかった。襲いくる尖った嘴が近づくのを、きつく睨んでいた。

 と、視界を黒いものが遮った。

 重い羽根の音と、蠱雕の奇声、金属が擦れるような固い音。

 尚隆は自分の前に飛び出し、妖魔の嘴を薙ぎ払ったものの正体を、驚いて見ていた。

 それは瑰角という、殆ど伝説に近い、妖魔の姿だった。

 獅子の顔をしているが、口は耳まで裂けている。頭には二本の細く長い角があった。頭から首を覆う鬣は長く、その身体をも隠すようだった。五本の指を持つ手が二本。そして人でいう下半身は豹のようだが、太いがっちりした四本の足を持っていた。

 古い言い伝えによれば、麒麟のように人型に転変できるというが、その妖魔自体を見ることがなく、架空の生き物と思われていた。

 瑰角が鋭く啼くと、蠱雕は怯えたように、飛び去っていった。

 それでも危険が去ったわけではない。むしろより窮地に立たされたといっても良かった。

 だが、その伝説の妖魔は尚隆を襲うでもなく、自分が飛んできたほうを見やっていた。

 がさがさと茂みが鳴り、思わず刀を構えた尚隆の前に、その人は出てきた。

「良かった。間に合いましたね」

 痩身の身体に、大きな布を頭からすっぽりと被っている。

「礼を言う。心底、もう駄目かと思っていたのでな」

「礼なら、あなたを待っている下僕に言うんですね」

 青年は柔和に微笑むと、頭に被せている覆いを払った。青味を帯びた黒い髪が、艶やかに靡いている。

「更夜……」

 尚隆は目を見張って、その清廉な顔を見た。以前のような刺々しさはどこにもない。

「お久しぶりです」

「元気そうで良かった。……………あの妖魔は更夜の友か?」

 妖魔を相手に「友」と訊くのもこの人ぐらいのものだろうと、更夜はその柔らかい笑みを深くした。

「そうです」

「あの妖魔にも礼を言いたい。名前をなんという?」

 名前を訊かれて、更夜はくすくすと笑いをこぼした。

「聞かない方がいいと思いますよ」

「そんな風に言われれば、かえって気になるな」

 尚隆の呟きに、更夜は楽しそうに笑い続けている。

「瑰角は妖魔の中の王です。とある王の名前を頂きました。それでご勘弁を」

 その言葉の端に、何か含みを感じて、尚隆は黙り込んだ。どうやら名前に心当たりがあったようだが、それを喜んでいいものか、怒ればいいのか、判断をつきかねた。

「尚隆……」

 たまに連れられて、馮河が戻ってきた。

「大丈夫だったか。手荒に扱って悪かったな」

 まだ震えの治まらぬ様子の馮河の髪を、がしがしと掻き混ぜてやった。それで馮河は少し落ち着いたようすだった。

「こ……、この人は?」

 突然現われた青年に、馮河は戸惑っていた。

「怖くないぞ。黄海を護る人だ」

 尚隆の説明ではわからないのか、馮河は首を傾げている。

「人が戻ってきましたね。わたしはこれで失礼します」

 取るものも取らず逃げ出した人々が、恐々戻ってき始めた。

「更夜、本当にありがとう」

 更夜は瞬間嬉しそうに笑みを頬に掃いて、瑰角に乗ってもと来た茂みへと入っていった。

「さあ。行こうか」

 立ち直りは尚隆が一番早かった。

「残りは僅からしい。一気に蓬山へと向かおう」

 尚隆の掛け声に、馮河は萎えていた足を伸ばした。

 

後編へ続く  

 

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