× × × 五 蓬廬宮 × × ×
蓬山の中腹に、蓬廬宮と呼ばれる小さな宮殿があった。
奇岩に囲まれた複雑な迷路の奥、その宮殿は外界から護られるようになっている。
蓬廬宮の中の、紫蓮宮に、一人の青年が憂鬱を隠さず、静かに座っていた。
青年の髪は淡い金色で、伏目がちの瞳は美しい紫色をしていた。
深い溜め息をつき、彼は慌てて口を閉じる。
「どうなさいました?」
溜め息を聞きつけて、扉近くにいた女仙が、控えめに声をかけてきた。
景麒はそれに答えず、北東の方角を遠く眺めた。
「王気が見えますか?」
令乾門を見やる麒麟に、女仙は期待をこめて尋ねた。
「どうしても甫渡宮へ行かねばならないのだろうか」
独り言のように呟いた景麒に、まだ少女の域を脱していない瑠歌という名の女仙は、まあと驚いた声を上げた。
甫渡宮は蓬廬宮の外にあり、昇山して来たものたちが、自国の麒麟に目通りを願う離宮である。
昇山者たちはそこに天幕を張り、麒麟の選定を待つ。選定に外れれば、次の安闔日、つまり下山の日までを過ごす。
「お会いになってみないことには、わからないこともございますよ」
それはかなり苦しい言い訳に聞こえたが、景麒もあえて反論はしなかった。
「早く王さまを見つけてくださいまし」
瑠歌は蓬山へ来る前は、慶の国で暮らしていたという。何代か前の景王の時代、狂い始めた王を非難した近所の子供が打たれ続けるのを身を挺して庇った。
胸に抱き込んだ子供が泣き叫んでいた。背中や頭を何度も打たれた。それでもその子を懐から放り出さなかった。
心に念じていたのは、この世の母であると教えられた西王母への祈りであった。どうぞ、この子だけは助けてくださいと。
祈りも途切れがちになり、意識が遠退くその時、頬に暖かい手が触れたような気がした。
次に目が覚めた時は、もう蓬山だった。
瑠歌が庇った子は、女仙たちが役人の目の届かぬ所へ逃がしてくれたという。
慶の国で、子供たちが二度とそんな想いをせぬよう、彼女は景麒に対しても、優しい王さまを見つけてくださいと、小さな声で頼んだことがあった。
「今はまだ時期ではないのかもしれない」
「え?」
景麒の言葉の意味をわかりかねて、瑠歌は紫水晶のような美しい瞳を見た。
「王はおられぬ。少なくとも、今回の昇山の人たちの中には。ならば、甫渡宮まで足を運ぶ必要はないでしょう」
抑揚の少ない景麒の言葉は、その真意をはかれないところがあった。
「皆さん、それは大変な苦労をなされてここまで来られますのに、お会いにもならないのでは……」
「苦労をかって出たのは、自分のため」
言ってしまってから、それは女仙に聞かせるべきではなかったと、景麒は顔を背けた。
「会ってすぐに王ではないといわれるより、少し楽しい気分で下山まで過ごしていただけば良いのです」
景麒の言い逃れに、幼い女仙は、悲しそうに瞳を曇らせた。
「多くの犠牲を払って、国の大事のためにここまでこられる方々へ、その仰りようはあんまりではないかと」
国の大事を出されては、景麒も返す言葉がなかった。
しばらく黙り込むと、無言で立ち上がった。
「景麒?」
足音をたてないで歩く優美な姿は、気品を感じさせた。金の髪は一本一本が綿毛のように細く、動きに合わせて、金の光の帯を曳いた。
「お願いです。せめて労いの言葉をかけてやってくださいまし」
瑠歌は自分の言葉が過ぎて、景麒を怒らせたのだと思うと、悲しくなった。
景麒を責めるつもりでも、諌めるつもりでもなかった。
王に会えないでいる麒麟が、どれほど辛いものか、瑠歌にはわからない。
慶の国を思う心が、景麒を思い遣る心を曇らせてしまったのだ。
「至日までご無事でと、その言葉をかけないでは、誰も帰れないでしょう」
それが景麒の精一杯の返事なのだと、今まで仕えてきた瑠歌にはよくわかった。
「ありがとうございます」
瑠歌は目を潤ませて、深々と頭を下げた。
× × × 六 蓬山 × × ×
昇山の一行は、一人の犠牲もなく、甫渡宮に辿り着いた。それは歴史に残る珍しさだったが、ここまでの道程を思うと、感慨にふけるほどの、心のゆとりはまだ持てなかったが。
一行は思い思いの所へ天幕を張る。
尚隆と馮河は、それらの光景をぼんやりと見ていた。
ただし、二人の状況は、天と地とほども違っている。
尚隆は天幕の用意をしてこなかった。一度蓬廬宮へ来たときには、宮に入ったので、まったく思いつかなかったのだ。別段野宿も厭わない質なので、そんな事は気にもしていない。
それよりもおもしろい見物があったので……。
馮河はただ呆然と、立っていた。皆の様子を見ているといえば、見ていることになるのだが、実際には何をする気力もなく、立ち尽くしていた。見ているように思えるのは、目線がそこにあるというだけだ。
目的の場所にやってきたのだという喜びすら、胸の内に湧いてこない。このまままだ登るのだといわれれば、黙ってついていってしまうだろう。思考すら、もはや自分のものではなかった。
荒い息がおさまる頃、ふと、尚隆と馮河の目が合った。
尚隆が口角を上げ、にやりと笑った。
「どうした。ここがお前の来たかった蓬山だぞ」
馮河はその言葉には反応せず、尚隆の姿を、上から下までじっくりと眺めた。
そして今度は自分の姿を、見下ろした。
あまりの身なりの違いに、馮河は首を傾げる。
破れたり、汚れたりしている服。手足には小さな傷が無数に走り、泥なのか垢なのか、肌も薄汚れて見えた。
尚隆はといえば、たしかに服は汚れているところもあるが、全体的に、山に入った頃と殆ど変わらないように思う。
「なんで?」
思わず声を出してしまった。
「何か疑問があるのか?」
馮河の言葉に、尚隆は何か訊きたいことがあるのかと思った。
「どうして、綺麗な服のままなのさ」
理不尽だといわんばかりに、馮河は頬を膨らませた。
「服がどうした」
「僕はこんなにぼろぼろになっているのに、尚隆は綺麗なままじゃないか。おかしいよ」
馮河の言葉に、尚隆は思わず吹き出してしまった。豪快な笑い声が辺りに響き渡る。みんな作業の手を止めて、何事かと振り返った。
「なんで笑うのさ。同じ道を通ってきたはずなのに、どうしてこんなに違うんだよ。……笑うな!」
尚隆はますます声を大きくして笑うし、馮河の非難を聞いたみんなもげらげらと笑いだした。馮河は怒って、真っ赤な顔で抗議した。
「俺は馮河に、妖魔の爪の先すらかすらせた覚えはないぞ。その傷や服の鉤裂きは、お前が自分で転んでつけたものだ」
馮河は返す言葉を見失って、ぐっと詰まった。笑い声が大きくなる。馮河は先程とは違い、恥ずかしさで真っ赤になった。
「何もない平らなところで転んだのは誰だったかなー。足場をつくってやったのに、足を滑らせた人もいたな。妖魔を仕掛けるために作った落し穴に、そこにあるぞと教えたにもかかわらず、確かめるように落ちた奴なんかいないよな、まさか」
全て身に覚えがあるだけに、馮河は何も言い返せなかった。
「嫌味な奴」
「お前が、俺のせいだというからだろう。いっそのこと、ずっと負ぶってくれば良かったな」
尚隆は笑って、葡萄色の髪を掻き回した。
自分の下僕にそんな事をすれば、手を叩かれるだろう。
「………?」
頭を撫でていた手が止まったので、馮河が不思議そうに見上げていた。
軽く肩を叩いて、尚隆は馮河から手を離した。
「何でもない」
尚隆の曖昧な笑顔に、馮河はとり残されるような、幽かな淋しさを感じた。それを確かめるのが怖くて、馮河が黙っていると、尚隆は近くにいるものに、
?虞を繋ぐための杭を貰いにいってしまった。馮河にとって、蓬山は道程の半分だった。
自分は王に選ばれることはありえないし、尚隆もまたそれはないと言い切っているし、下山のことを考えると、それはそれで楽しい気分になれた。
尚隆といると、何も心配なことはなかった。
× × × 七 麒麟 × × ×
蓬廬宮の門が開け放たれた。
数少ない昇山のものたちは、息を飲んでその中から現われる、美しい人影を見つめた。
尚隆も天幕の影に入り込むような形で、静かに出てきた、蓬山公を見た。
人々がその場に膝をつき、頭を下げるのに倣って、尚隆も膝をついたが、馮河が立ったままなのに気づいた。
「叩頭しろ」
尚隆は極力目立たぬように、馮河の袖を引っ張った。
どうやら馮河は、景麒に見惚れていたようである。はっとして、慌ててばたっと倒れるように、平伏した。
強かに膝を打ちつけたはずだが、馮河は痛みなど感じていないようであった。それほど、市井の人々にとって麒麟というのは特別な存在なのであろう。
景麒はそんな人たちには委細構わず、甫渡宮へと入っていった。
ほうっと、辺りに溜め息が漏れた。
尚隆自身、多くはないが、幾人かの麒麟と出会ってきていた。
しかし、景麒のような麒麟は珍しいと思った。
どこか冷たい感じを受けるのは、何故なのだろう。あの薄い金色の髪のせいだろうか。
尚隆がいつも目にしているのは、太陽の光をそのまま集めたような、明るい金色の髪だった。性格もそれに似て、大らかで、活気にあふれている。
六太なら、この場所をあんな風には歩かなかったのだろうなと思うと、自然と笑みがこぼれた。
おかしなことに、昇山の途中は思い出しもしなかったのに、蓬山に辿り着いた途端に、延麒のことを頻りに思い出す。
やはりここが麒麟の故郷なのだろう。
尚隆は馮河にも進香をさせた。自分は女仙に見つかるのを恐れて、その中には入らなかった。
景麒は皆が進香を終えるのを待って、すぐに甫渡宮から出てきた。
昇山のもののなかに王がいなかったのだと、尚隆は景麒の変化に乏しい表情から読み取った。
天幕の影から出ず、布を目深に被るようにして、尚隆は麒麟の一行をやり過ごした。
昇山してきたものはここぞとばかりに、自分の名と身分を明かし、景麒に挨拶をしていた。
それに対し、景麒は抑揚のない声で、決められた科白を静かに告げるのだった。
がっくりうな垂れる人々の中から、葡萄色の髪をした少年が飛び出した。景麒の行く手を遮るように、その場に平伏した。
さすがの景麒も驚いているようだった。
「僕は麦州から来ました。阮馮河と申します」
自分を真直ぐに見上げてくる藍色の瞳に、多少圧倒されながらも、景麒は他のものたちに下したのと同じ言葉を口にした。
「至日までご無事で」
それを聞いても、その少年は引き下がらなかった。
「恐れながら、蓬山公にお願いがございます」
女仙たちは顔を見合わせた。少年が王でないとわかった今、その行為をどこまで許していいものか迷っているのだろう。
「なんでしょう」
景麒が断るとばかり思っていた瑠歌は、その言葉が一瞬聞き間違いかと思った。
景麒の瞳は、少年の葡萄色の髪を映して、いつにも増して濃い紫色をしていた。
「お願いです。山を下りてください!」
少年の叫びに、響動めきが起こった。
「麒麟に山を下りろとは、失礼だとは思いませんか」
瑠歌が軽く窘めるのを、景麒は手を上げて押し止めた。
「失礼なのはわかっています。どんな罰でも受けます。ですから、どうか、国に下りて、王さまを探してください!」
馮河は額を石畳に擦り付けて、景麒の言葉を待った。
「何故そのような要求をなさるのですか」
冷たい響きの声は、馮河を拒絶しているようでもあった。
「新王即位は国民の悲願です!」
「それは私も承知しています。いずれ国に下りるときが来るやもしれぬ。だが、今はまだその時期ではない」
景麒がそのまま行き過ぎようとするのを、馮河はその裳裾に縋りついた。
「お待ちください!」
人々はぎょっとして少年の手元を見た。
「お離しなさい。無礼ですよ」
女仙が優しく、だがきっぱりとした口調で窘めた。
景麒はそれでもあまり表情を変えず、少年の震える拳を見下ろした。着物からその震えが伝わってきて、少年の感情まで伝えているようだった。
「あなたは王が昇山しないと思っているのですね」
抑揚のない声に、馮河はそっと顔を上げた。
「はい。この道を上ってきて、とてもよくわかりました。簡単に踏み入れる場所ではありません。尻込みしたって仕方ないと思いました」
「けれど、あなたのような幼い人でも昇ってこれました。それを怖いからと尻込みしていたのでは、王になるだけの気概がないのだと、責める気持ちにはなりませんか」
馮河は激しく首を横に振った。葡萄色の髪が、ぱさぱさと揺れた。
「慶の国は貧しいです。長命の王がずっといなかったために、安定した暮らしというものを知りません。それでも、今度こそはと、待っているのです。隣の雁のような名君がたつことを、信じて待っているのです。
だけど、待つことに慣れてしまったために、自分が昇山しようとは思わなくなっているんです。
それに、お金がなくて、ここまで来れない人も大勢います。僕はそんな人にこそ、王になってほしいと思います。本当の国民の暮らしを知っている人に王になってほしい。
女王は嫌だとみんなが言うから、女の人は昇山なんかしません。けれど細かな思いやりを持てるのは、やはり女の人だと思う。僕は女王でも文句なんか言いません。
慶の国を導いてくれる人は、きっと、そんな人なんです。だから、下りてください。お願いします。慶の国に相応しい王さまを選んでください!」馮河は心の中にわだかまっていた想いを全て吐露した。
それを聞いていた昇山のものたちは、何も言えずに俯いていた。
自分の国をこれほど愛するものが、王になれないことが、悔しかった。ここまで来るのだって、簡単な道程ではなかった。そんな犠牲などなかったように、自分の身よりも国のことを憂う一人の少年に、心を動かされた。
「山を下りて王を捜すといっても、すぐに見つかるというわけでもないのですよ」
あまりにも広い土地を、王気だけを頼りに探すのは、麒麟の勘に頼るところが多かった。王気があるからといって、すぐにわかるというものではない。
事実、雁の国の一代前の麒麟は、王を選ぶことが出来ずに、短い一生を終えている。
「わかっています。それでもお願いします。
僕の両親は妖魔に殺されました。王さまがいれば妖魔はやってこない。両親が死んで、僕はある人の所へ預けられました。道をよく知る方ですが、僕のような孤児を何人も抱え、生活は楽ではありません。王さまがいて、法を整えてくだされば、養い親の苦労を減らせるんです。
生活さえ穏やかに出来れば、それ以上のことなんて望まない。ただ、王さまがいてくれさえすれば、安全で、落ち着いた暮らしが出来るんです。
一刻も早く、王さまを選んでください!」景麒は困り果てた。この少年の心がわからないはずはなかったが、かといって彼が望む王の姿が、自分の抱いている理想とはかけ離れているので、どのように返事をしてやればいいのかわからなかった。
やはり、待っていてくれと返事をするために口を開きかけたとき、二人を遠巻きに見ていた人たちの中から騒めきが広がった。
「あれは……」
一人が空を見上げて呟くと、回りのものたちも顔を上げて、男の指すほうへ首をめぐらせた。
「まさか……」
みんなはぽかんと口を大きく開けて、空を駆けてくる獣の姿を見上げていた。
× × × 八 主従 × × ×
蓬山の上空を駆けてくる妖魔などいようはずがない。
それにその影が近づくにつれて、単なる獣ではないことがわかってきた。
馬よりは小さく、鹿に似た体躯をしている。雌黄の毛並みは日の光を浴びて、不思議な色合に輝いている。それは高度を下げるにしたがって、色調を微妙に変化させていった。
何より金色の鬣。太陽の光をそのまま集めたような、眩しい金色の光は、風に靡いて揺らめいていた。
額に角が一本。その角は真珠色に輝いている。
「どうして……、麒麟が……」
呆然と見上げる人たちの頭上で、その麒麟は一度旋回をしてから、光臨を背に、すとんと人々の中心に降り立った。
「延台輔!」
女仙が驚くのにも、延麒はつんと鼻先を上げて、ぐるりと辺りを見回した。
「王はいなかったのか?」
同じ金の髪を持つものが、その問いに慌てて頷いた。
麒麟はふんと興味もなさそうに、景麒から視線を外した。ある方向をじっと見つめている。
「こそこそ隠れてんじゃねーよ。早く出てこい。帷湍たちが篭城してる。お前が戻らないことには、雁の国庫は開かねえ」
みんなは他の国の麒麟が出てきただけでも驚いているというのに、その麒麟の口のぞんざいさに目を丸くしていた。
麒麟はそんな注目も無視して、天幕の影に隠れるように控えていた男の前に歩いていった。
「尚隆?」
馮河がわけがわからないと、尚隆の名前を呼んだ。
尚隆の前で麒麟は立ち止まった。
「あいつら、飯も食わねーで、お前を呼び戻してこいの一点張り。おれが唆したみたいに喚くんだ。俺が怒られる筋合いはねえ。お前、覚悟して戻れよ」
尚隆は苦笑して、その口の悪い麒麟の頭にそっと手を置いた。
「この姿を見るのも、久しぶりだな」
麒麟は頭を撫でられ、目を閉じた。尚隆の胸に耳を擦りつけるようにしている。
尚隆は被っていた布を広げ、麒麟を覆うように掛けてやった。
延麒は獣形を解き、布を尚隆の手から受け取った。そのまま身体に巻きつける。
延麒の身体は十三の年のまま、成長を止めてしまっている。現われた麒麟の、思わぬ幼い形に、人々はさらに言葉を無くしてしまっていた。
「延王さま」
女仙たちが膝をつき、その場にいたものたちが慌てて叩頭する。
「みんな立ってくれ。俺は一緒に昇山してきた、ただのお節介だ」
「こんな奴を王さまとして崇める必要なんてねーぞ。国をほっぽらかしてんだから。まったく、景麒にとっちゃ、こんな悪い見本はないって言うもんだ」
「六太。悪い見本は俺じゃなくて、お前だ。麒麟がそんなに口が悪くちゃ、みんなびっくりする。雁の国は酷いところだと噂をされたら、どう責任をとってくれる」
「へん、おれの口の悪さより、お前の素行の悪さだ。一国の王たるものが、軽い気持ちで昇山されちゃ、おれが迷惑するんだよ」
二人を止める機会も見つけられず、みんなは唖然とその言い争いを見物していた。
「そうかそうか、俺がおらんで淋しかったのか」
「耳が悪いんじゃねえのか。俺は淋しいと言ったんじゃなくて、迷惑だって言ったんだ」
「淋しくて、わざわざ転変してまで、会いにきたのか」
「人の話を聞きやがれ!」
馮河は、己の麒麟を見つめる王の暖かい眼差しに、胸をしめつけられるような気がした。
同じような目で見つめられていたのは、先程までの自分だった。
でも、時折感じた、一抹の不安の正体がわかってしまった。
自分を見つめているのに、尚隆の瞳は、ある時にふと自分を素通りしていた。優しく力強いその瞳に見つめられながら、自分のものではないというもどかしさを、いつも感じていた。
けれど、今尚隆と言い争っている自分より幼い少年は、いともたやすく、その瞳を何の違和感もなく受けている。
それが当たり前で、何の不審も抱かない相手に、苛立ちすら感じた。
「俺に会いたくて、遠い道程も駆けてきたのだろう」
「政務が滞っているだけだ。おれが呼び戻したくてきたんじゃない。呼び戻してくれと泣きつかれたんだ。そうでなきゃ、誰がお前なんか」
「素直に戻ってくれといえば可愛いものを」
「お前に可愛いなんて言われたくねーんだよっ!」
景麒は、麒麟と王というのは、もっと信頼で結びついているものだと思っていた。しかし、目の前の光景は、いったい何なのだろう。
そう思いながら、景麒には同じ麒麟という立場から、わかりたくないものがわかってしまう。
幼い人型の麒麟は、全身で喜びを表していた。
自分の主人に会えた喜びに溢れていた。
言葉遣いとは裏腹に、瞳が泣きそうに潤んでいることや、その瞳が今は王しか映していないこともわかった。
会いたかった、会いたかったと、全身が叫んでいるようだった。
それが証拠に、麒麟はいっかな延王の傍から離れようとしない。
「しょうのない奴だな」
言い争いが虚しくなったのか、尚隆は延麒の額に手を置いた。そのまま手を頬に滑らせ、肩に下ろして、引き寄せた。
それにも景麒は驚きを隠せなかった。額を触らせるなんて、自分には考えられないことだった。
額には麒麟の角がある。孤高不興の生き物である麒麟は、自王以外には膝を折ったりしない。その角に触れられるのは、かなりの嫌悪感を抱く。
それなのに、延麒はかえって嬉しそうだった。
麒麟とは、そういう運命の中で生きるものなのか……。
そう思うと、景麒は二人が、いや、延麒がとても羨ましかった。
「景麒」
呼ばれて顔を上げると、延王が自分を真直ぐに見つめていた。
「俺からも頼む。山を下りて、王を捜しにいってくれ」
何も言い返せず、景麒は自分と同類のものを見た。
「おれは王を選ぶのが嫌で蓬莱に逃げた。そこにこいつがいた。麒麟は王から逃げられない。そういう風になってる。待っているだけじゃ、麒麟だって努力しなくちゃ、主人には会えないと思うぜ」
延麒の言葉に、景麒は小さく頷いた。
「私も会いたくなりました。王の側にいることが、それほど嬉しいものだとは思わなかったのです」
景麒の言葉に、尚隆がにやっと笑った。
「俺は別に嬉しいなんて言ってねーぞーっ!」
六太の叫びは、景麒にも尚隆にも無視された。
「馮河、景麒は国に下りてくれるぞ、良かったな」
突然尚隆に声をかけられて、馮河はたいそう驚いた。
「どうした。お前の願いが叶うぞ」
そんな願いはどうでも良くなっていた。
今の今まで自分の隣にいた人が、すでに手の届かない人になっていた。顔も上げられず、口を開くことすら出来なかった。
「馮河?」
俯いたまま、唇を噛みしめる馮河に、尚隆が手を伸ばした。今までのように、その葡萄色の髪を掻き混ぜようとしたのだが、馮河は酷く狼狽えて身を引いた。
「王さまとは露知らず、今までのご無礼をお許しください!」
馮河のかしこばった挨拶に、尚隆は吹き出してしまった。その肩を叩き、そっと身体を起こしてやった。
「今までのように、尚隆と呼んでくれ。俺はお前を弟のように思っている」
馮河は泣きそうな目で尚隆を見上げた。
いくら弟だといわれても、その隣に、自分の場所はない。そこには彼の分身がいる。
「雁に来い。そして大学へ行くといい」
馮河はしばらくその言葉を噛みしめていた。こんな自分でも必要だと言ってくれる、そんな懐の大きさが嬉しかった。全てを受け入れてくれるだけの腕の大きさ。それは延王にとって、何でもないことなのだろう。
きっと造作もなくやってしまう。
頷きかけて、馮河は、初めて尚隆と出会ったときのことを思い出した。
高岫山の頂上から見下ろした二つの国。
慶東国と、雁州国。
それはあまりに違いすぎた。
貧しいからと見捨てていくのは簡単だった。でも、それはどうしても出来なかった。
立派な王を選んでほしい。その一念でこの黄海に踏み入った……。
「僕は、慶に帰ります。そこで平和な国造りの手助けがしたいです」
尚隆はその答を聞いて、満足そうに笑った。
葡萄色の髪を掻き混ぜて、ぽんと軽く叩いた。
「雁にはたくさんの難民が押し寄せている。早く、帰る国を持たせてやってくれ」
馮河はこくんと首を上下させた。ひどく幼い仕草だった。
× × × 終章 × × ×
「さあ、帰ろうぜ」
一人呑気に見物を決めていた六太が、尚隆の袖を引っ張った。
「先に帰っていろ。俺はみんなを無事に令坤門まで送っていく」
言った尚隆の頭を、六太は手加減なしに打った。
「何をする」
「てめーは人の言ったことを聞いてなかっただろ。城で篭城している奴らを出せって言ってんだよ。人の国より、てめーんとこの国民が野垂れ死ぬぞ」
「素直に帰ってくれと言えばよかろう」
「おれはお前に帰ってほしくないさ、ただ、朱衡たちがだなー」
「あー、わかった、わかった。しかしな、馮河を一人で下山させるわけにはいかない。こんな鈍い奴を一人にしたら、心配で心配で、枕を高くして眠れない」
「他の心配をした方がいいんじゃねーの? てめーは今晩からゆっくり寝れるなんて思うなよ。朱衡たち、すっげー怒ってんだから。いつもと全然違うんだからな。おれ、居たたまれなくなって迎えにきたんだぞ!」
六太の脅しに、尚隆は肩を竦めた。
「そいつのこと、更夜に頼んである。蓬山の麓から、更夜が連れてってくれるから」
尚隆はため息をついて、馮河を見た。
「途中で会った青年が、門まで連れていってくれる。それでいいか?」
「はい」
馮河は小さく頷いた。相手の身分がわかった以上、これ以上のわがままは言えなかった。
「景麒も、頼む。契約が済んで落ち着いたなら、こいつのことを頼む」
景麒は、騒動の中心に置かれた感の少年を見つめた。自国に残ると言ってくれた、未来ある若者。他国の王から頼まれずとも、力になってやるのは吝かではない。
「どこへ行けば会えますか」
「はい! 僕は麦州産県支松の里家、遠甫閭胥のところでお世話になっております」
景麒は静かに頷いた。金糸の髪が、さらりと風に揺れた。
蓬山の頂、尚隆と六太は、それぞれ
すう虞と使令に乗った。「景麒、また会おう」
尚隆の言葉に、景麒はほんの僅か、首を縦に動かした。
「今度お会いするときは、必ず、わが主と共に」
尚隆は笑って手を振った。
再会するまでに、運命は苛酷な試練をこの麒麟に与えることを、まだ誰も知らなかった。
了