癒 し の T A T O O 



 私は火村の熱い楔に穿たれ、苦しい叫びを呑み込んでいた。彼は何をそんなにと問いたくなるほど怯えた眼をしている。私を抱くことさえ、恐いのだというように。
 助けてやりたいと願うのは傲慢だろうか。
 普段の彼ならきっと、鼻先で笑い、肯定はせずとも、否定めいた言葉を吐くだろう。だが、今の彼は隙だらけで、追い詰めることさえ出来ない。
 火村……。どうか俺を信じろ。何があっても、この手だけはお前の為にあるのだと……。
 あまりの苦しさに息をつめたとき、不意に火村の動きが停止した。
「アリス……」
 私を呼ぶ擦れた声に、荒い息を堪えて目を開けてみると、火村は縋るような眼でこちらを見ていた。
「キスしても……、いいか……?」
 今更な問いに、私は笑ってしまった。痛みを堪えているためか、それは彼の眼には儚なく映ったらしい。そんなたまではないのは、お互いに百も承知のはずなのだが。
 火村は綿毛に触れるように、そっと唇を重ねてきた。
触れるだけのキスは、息を継ぐ間もなく、深くなっていった。熱い舌に蹂躙され、身体ごと揺さ振られ、やがて私は灼熱の夢の中に堕ちていった。





 私は八十枚の短編を収めたフロッピーを、ワープロから抜き出した。なんとか、無理を言って伸ばしてもらった締切には間に合う。後はこれを宅配便で送ればいいだけだ。と、窓を見ると、既に外は白み始めていた。
「完徹かぁ……ふぁ……」
 徹夜になってしまったことを意識したとたん、欠伸が出てしまった。
「とにかく、コンビニから発送して、寝るか」
 誰が聞いてるわけでもないが、一晩ワープロを相手に殺伐とした話を書いていた私は、何か言葉を話さなければ腐りそうなのだ。
 痛む腰を伸ばしてカーテンを開けると、朝の静寂を切り裂く、嫌な音が近づいてきた。
「なんや、パトカーか?」
 窓を開けて身を乗り出すと、二台のパトカーがちょうどマンションの敷地に滑り込んでくるところだった。
「ここへ来たんか?」
 サイレンや警官というものを紙の上に書き慣れているはずだし、私の一風変わった友人に連れられ、犯罪現場には慣れているのだが、そこは既に現場として警察によって『演出』されている。こうしてパトカーがサイレンをかきたて、向こうからやってくるとなると、慣れなど別物だということがよくわかった。とにかく、大きな不安が押し寄せる。
 何事かと見守る私の眼下で、数人の警官と私服を着た刑事らしき人物が、マンションの入り口に消えていった。
「これは事件やな。無事にコンビニまで行けるやろか」
 不謹慎なことに、今の私には締切に間に合うかどうかの方が重要なのだ。頭が十分に機能していないことも弁護として付け加えておきたい。
 どんな事件にしろ、現場が固められ、抜け出せなくなる前に、私は宅配便へ急ごうと、慌ててフロッピーをクッション素材の封筒に押し込んだ。と、インターホンが鳴った。
「なんでやねん。俺のところのはずがないやろぅ」
 友人知人が尋ねてくる時間でないことは十分承知している。いくら夜中に仕事をしているとはいえ、私もそれ位の常識は持ち合わせている。
 情けない声で玄関を開けた私の前には、申し訳なさそうな顔をした、大阪府警捜査一課の船曳警部が立っていた。
「朝早くからもしわけありません。有栖川さんだったら、もしかしたら起きてられるかなと思いまして」
 既に見慣れた、ワイシャツにサスペンダー姿の警部は、私がパジャマを着ていないのを見て取って、人懐こい笑顔を浮かべた。
「何かあったんですか」
 出掛けたい気持ちはやまやまなれど、こう訊くしかないではないか。この後無事に外出が叶わないと重々承知していても!
「はい。このマンションの一階で、殺人事件がありまして」
「昨夜は一晩起きていましたけど、何も気づきませんでしたよ?」
 私の先制パンチに、警部は苦笑した。とたんに恥ずかしくなる。警部は何も尋ねてはいないのに。
「徹夜やったんですね。申し訳ありません。いや、のちほど全戸を回らしてもらうつもりでしたけど、手間が省けました。それとは別にですね、ちょっと電話を拝借できないかなと思いまして」
「ああ、火村ですか?」
 警部が頷くのに、私は照れ隠しに頭を掻いた。玄関に招き入れて、コードレスホンを手渡すと、警部は私にかけてくれと言った。今更時間を気にする仲でもないと思うが。
 火村の電話番号を押すと、少しいらつく程のコール数の後、受話器の外れる音がした。
「はい」
 ひどく擦れた声にどきっとする。不機嫌そうな響きに、緊急連絡だったらどうするのだと思いかけて、彼の両親は既に他界していたことを思い出した。
「もしもし? 火村ですが」
 不審な問いかけに、私はなるべく明るい声を出した。
「俺や」
「アリス。今何時だと思っているんだ。俺は生産性の悪い作家とは違って、きちんとした社会生活を送っているんだ」
 まるで私が社会生活にも事欠いているようではないか。そう思ったが、彼の言うことも又真実なので、そこはぐっと堪えた。警部の目もある、揉めている場合ではない。
「実はな、今殺人事件現場にいるんや。どうや、臨床犯罪学者より、出動は速いで」
 私の強がりに、警部は必死で笑いを噛み殺している。
「ほう、優秀な推理作家がお出ましとあれば、俺なんかの出番はないな。もう少し眠らせてもらおうかな」
「おい、ちょっと待て! 拗ねんなよ。待てよ、待て。今、船曳警部と代わるから」
 私は慌てて警部に電話をリレーした。警部は笑いながら、朝の挨拶を交わしている。
 警部は手短に火村に出動を請い、現場のマンション名を告げた。
「火村さんから伝言です。そこを動くなよと」
 通話を終えた警部に言われて、私と警部は顔を見合わせて吹き出した。
 火村がやってくるまでに、私は簡単に身だしなみを整えた。鏡を見て驚いたのだが、私は不精髭のまま出掛けようとしていた。髪をとかし、服も着の身着のままだったのを着替える。
 手に封筒を携えて、一階へと下り立った。先に出そうかどうしようか考えて、とりあえず現場を見ておこうと思った。まだ、集配時間には十分間に合う。
 玄関を覗き込んだところで、見張り番の警官に咎められたが、奥から警部が口添えしてくれて、私は黄色いロープを踏み越えた。

 踏み越えるべきではなかったのだ。せめて、私だけでも。
 愚かな私は、本当に軽い気持ちでロープを越えた。火村の傷を抉る行為に繋がるとも知らずに……。


 火村は予想していたより短時間で、私のマンションに現われた。
「おいおい、先生。君のベンツにはサイレンでも付いてるんか?」
 からかう私に、火村は目を細めて、冷たい視線を寄越した。先程の私の電話がよほど気に入らなかったらしい。
「朝の高速は空いているんだ。有栖川先生こそ、お早いお着きで」
 嫌味を突き立てて、火村はそれからは私を無視するように、船曳警部に説明を聞いていた。どうやら冗談ではなく、機嫌が悪いらしい。
「では、犯人もわかっているんですね。私が出るような、問題でも?」
 確かに現場は単純だった。
 殺されたのは久松信夫。一〇五号室の住人。死因は頭部殴打による僕殺。凶器は金属バット。容疑者は、被害者の長女、久松礼子、二十歳。
 本日未明、酔って暴れる父親に身の危険を感じ、弟の金属バットで攻防しているうちに、気がつけば父親が頭から血を流し倒れていた。呆然としているところへ、弟の真一が恐る恐る部屋から顔を覗かせた。はっとした礼子は泣きながら真一を部屋へ押し込み、自ら一一〇番したという。
 信夫は三年前に離婚、というよりも妻が男と駈け落ちをしたらしいが、そのまま離婚し、二人の子供を育てていたが、妻に出ていかれてからは酒に溺れ、酔っては子供たちに暴力を振るっていた。
 身につまされる事件ではあるが、確かに火村が出るほどでもないかと私も思った。
「実は、事件の解明は後は証拠集めと、書類上の手続きです。が、被害者の息子、つまり容疑者の弟になるわけですが、まだ十五でして。かなりショックを受けていて、口もきかんのですわ。姉のほうも夢中でやった、何も覚えていないというばかりで、ほとほと困ってしまいましてね。ここは犯罪社会学の先生にご意見を伺いたいと。それで、少しでも気安い火村先生にお願いしたわけなんです」
 船曳警部は大きな身体を、苦心して丸めていた。
「しかし、正当防衛も成り立つんと違いますか?」
 私の横やりに、火村は軽くため息をついた。
「正当防衛は難しくても、過剰防衛は成り立つだろうな。だが、それも、容疑者の供述がなければかなり難しい。せめて弟が目撃でもしていれば、又話も変わったんだろうけど」
 火村はそう言って、人差し指で唇を撫でている。
「とりあえず、現場を見ましょうか。何か、父親の暴力の証拠でもあるかもしれない」
「なあ、その礼子っていう子。名前が出るんやろうか」
 私の心配に、警部と友人は顔を見合わせた。
「だって、さっきの話やと、二十歳なんやろ? 匿名にはなれへんねやろうな」
「有栖川さん、それは……」
「まだ何ともいえねえな。正当か過剰か意見が別れるところにしろ、こういった事件の場合、容疑者といえども、殺害直前までは被害者だったんだ。多分、名前まで出ることはないと思うぜ」
 いくぶん機嫌がよくなったのか、火村は唇の端に笑みを浮かべ、私の不安を軽くしてくれた。
 
 現場はかなり争ったらしく、物が散乱し、ガラスや瀬戸物の破片まで散らばっていた。リビングの真ん中に、被害者のかわりに今は白いロープが人型をとどめている。
「凶器はこれです」
 船曳警部が持ってきたのは、ごく普通の金属バットだった。ただし、これはところどころに、黒く酸化した血がこびりついているが。
「バットはどこから持ち出したんですか?」
 火村の質問に、警部は首を横に振った。
「何にも答えんのですわ。とにかく、何も覚えていないと言うばかりで」
 その答が気に入らないのか、または何か思うところがあるのか、彼は指先で唇を撫でている。
「どないしたんや」
「別に」
 まとわりつく私を軽くいなして、火村は被害者の倒れた跡を足元のほうから見つめている。
「警部、子供部屋を見てもいいですか」
「どうぞ」
 警部の了解を得て、私たちは子供たちの部屋へ入った。2LDKのマンションでは、娘と息子が別々の部屋を持つことは許されなかったのだろう。洋室の真ん中にアコーディオンカーテンを引き、左右に分けられていた。
 姉の部屋は年頃の娘らしくなく、ほとんど飾り物がなかった。勤めに着て行くのだろう、スーツが何着か壁際に掛けられている。ベッドのピンクのカバーだけが、かろうじて女らしさを漂わせていた。
「ここの姉弟に会ったことがあるか?」
 ぼんやりとアコーディオンカーテンを見ていた私は、不意に聞かれたことに答えられなかった。
「アリス」
「あ? ああ。ここの姉弟か。さあ、もしかしたら、玄関で会ったことがあるかもしれへんけど、ようわからんわ。だけど、父親のほうなら知ってる」
 火村は若白髪の目立つ、ぼさぼさの髪を左手で掻き上げ、私をじっと見ている。
「二三べん見かけただけやけど、いつも赤ら顔で酒臭かった。子供らが可哀想やと、マンションの小母さんたちは話してたみたいやな」
「アリス、井戸端会議に出席できるほど暇なのか。俺はお前の将来が心配になるぜ」
「失礼な。俺が散歩に出掛ける時間というのが、ちょうど小母さんらが集まり始める頃なんや。仲間に入ったわけやないで。どうしても聞こえてくるような大きな声なんやから」
「わかった、わかった。そんなにむきになるなよ。だけど、アリスが起きだすのは昼頃なのだと、今の説明でよーくわかった」
「な、なんでやねん」
「昼頃に起きて、お腹が空いて、朝食ならぬ昼食の買物に出掛ける時間帯が、主婦が暇になる二時頃なんだよな?」
 ずばりと指摘されて、私はぐっと押し黙った。
「俺は三講目だぞ」
 少しばかりの非難は甘んじて受けよう。その代わりこちらは、安定した収入もなければ、社会的な信用もない。
……止めよう、虚しくなるだけだ。
「それで、他に聞き込んだ噂は?」
「さあ、一々覚えてるかっ」
 多少の腹立ち紛れに、私は思い出す努力をあっさり放棄してやった。
「それについてではですね。とりあえず、騒ぎに顔を出した隣近所に聞き込んできてます。被害者は、先程有栖川さんが言っておられたように、酒浸りの日々で、暴力を振るい、近所間でも諍いはあったようです。反対に子供たちの評判は良いです。挨拶を欠かさず、礼儀正しく、二人の仲もよく、常に暴力的な父親から庇い合い助け合っていたということです」
 火村は頷きながら説明を聞くと、アコーディオンカーテンを勢いよく引いた。部屋の仕切りがなくなる。現われた弟のスペースは、多少散らかっているものの、少年らしく躍動感に溢れていた。スポーツが好きらしく、ローラーブレードやテニスのラケット、サッカーボールなどがベッドの足元のスペースに押しこめられていた。グローブや野球のボールもあった。
「弟のほうはずっとここに隠れていて、騒ぎがおさまった頃に、そろそろと出てきた。間違いありませんか?」
 火村が確認すると、警部はそうですとばかりに、大きく頷いた。
「二人はどこにいるのですか」
「とりあえず、天王寺署に連れていってあります。口裏を合わせられると困るんで、別々の部屋で事情聴取を行なう予定です」
 仲のいい二人が引き離されるのは、なかなかに辛いところだろうと察せられた。
「警部、二人の母親だという女性がやってきましたけど」
 部下の呼び声に、警部はちょっとと断って、子供部屋を出ていった。
「なんか気になるんか?」
 火村は厳しい目つきをしていた。その横顔は凛として、普段なら頼もしく感じるのに、今日は他人を拒む冷たさを感じた。何が火村を追い詰めているのだろうかと、とても不思議な気がした。
「いや、別に」
 またはぐらかされた。
 しかし、何も不思議な、解明すべき点はないのだ。犯人も動機も既に明らかなのだから。
「それ、原稿じゃないのか?」
 火村は私の手元の封筒に視線を合わせている。
「あ、ああ。今日の便に乗せれば間に合うんだ」
「ということは、センセイはもしかして、徹夜明けか?」
 唇の片端をあげてにやりと笑っている。本当に喰えない奴だ。
「もしかしなくても、や」
「もう謎解きはないんだから、早く出して、寝ろよ。目が充血していて、泣いたと思われるぞ」
 屈折した思いやりに、私は笑いを隠した。ここで笑えば、この男の友情を裏切ることになる。
「まあ、後は、臨床犯罪学の先生のアフターケアを信頼して、俺は退散するかなぁ」
 お言葉に甘えて、と部屋を出かけた私の背中に、助教授は思いもかけない言葉を叩きつけてくれた。
「アフターケアなんかしないぜ」
「え?」
 驚いて振り返ると、表情を無くした男が立っていた。まるで私の見知らぬ人のようである。
「火村?」
「もっとも、声を限りに正当防衛を主張されるより、俺の心証はいいけどな」
「どういうことや。何が言いたい」
 私が憤然と睨んでも、彼は冷めた顔で私を見返すだけだった。
「凶器はバットだ」
「そんなことは今更言われんでもわかってる」
「相手は五十を越えているとはいえ、大人の男だ」
「それがなんや」
「殴ろうと思わなければ、当たるわけがない。一発まぐれに当たったにしろ、致命傷になるとは思えない」
「お前の言葉を借りるなら、大人の男が殴りかかってきたんだ。自分は腕も細い女だ。無我夢中で振り回すうちに、たまたま急所に当たることだってある。それがなんで、正当防衛にならへんのや」
「正面からでも?」
 冷たい眼に正面から見つめられて、私は足元がぐらつくのがわかった。
「俺もお前の言葉を借りよう。無我夢中で振り回すなら、正面から真下に振り下ろすわけがない」
「そんなこと、わからへん。わからへんやないか。なんで、健気な姉弟を突き落とすようなことが言えるんや」
 言い返す言葉が見つからず、私は拗ねたように火村を見た。彼はため息をついて、横を向いてしまった。これ以上の言い合いを拒む姿勢だ。
「火村せん……せ…い……」
 船曳警部が戻ってきて、火村に声をかけたが、私たちの気まずい空気を察したのか、言葉尻が揺れる。
「何です?」
 助教授は何もなかったように、私の横を擦り抜け、部屋の入り口に立つ警部に近づいた。
「母親が弟を引き取りたいと言ってるんです。かなり前から息子を引き取りたいと交渉しておったようですね。元夫と姉は反対しておったようですが、このような状態では、何も言わないだろうというんですわ」
「ちょっと待ってください。なぜ、姉までが反対していたのですか」
 火村と警部の会話を聞きながら、私は少年のベッド横の壁に貼られた、Jリーグのポスターを眺めていた。
「そりゃ、一度は子供を捨てていった母親が許せなかったんでしょう」
「母親は息子だけを引き取るといってたんですか?」
 少年の机の本棚には、ロボットのフィギュアが三体並んでいる。
「姉のほうは既に就職しているから、会社の寮に入るように勧めていたらしいです。新しい夫との生活に、娘とはいえ、若い女性が入るのは、気が引けたんと違いますか」
 私はその机と椅子の足元に落ちている、小さな紙片に目を止めた。
「それで、これから母親を連れて天王寺署に戻ろうと思うんですが、火村先生はどうされますか」
 火村と警部はこちらに背中を向けて、これからのことを話し合っている。
「そうですね。とにかく、二人に会わないわけにはいきませんからね」
 私は二人に気づかれぬように、素早くその紙を拾った。
「では、一緒に乗っていかれますか」
 封筒を持っていた手の中、掌と封筒の間に、そっと忍ばせた。
「いや、車で来ましたので、警部たちの後を走っていきますよ。サイレンは鳴らさないんでしょう?」
「ええ。有栖川さんはどうされます?」
 警部と火村が同時に振り返った。私はドキドキする心臓を必死で押し隠した。
「原稿の発送にいってきます。話はまた火村に聞きます」
 警部はそうですかと、玄関へ引き返していく。火村は警部の後を追わず、じっと私を見ていた。
「原稿を出して、少し寝るわ。一段落ついたら、寄ってくれ」
 言い合いをしたままでは嫌なので、火村を誘った。余計な口出しをしたことを、謝るつもりで。
 意味ありげな彼の視線を逃れるように、私の方から先に警部の後を追った。
「アリス」
 初めて聞くような、彼の低い声が私を呼び止めた。
「なんや」
 私は、振り返ることが出来なかった。
「こっちを見ろよ」
「なんや、後でもええやろ」
 少しだけ振り返って言うと、火村は厳しい眼で私を見ていた。
「証拠湮滅は立派な犯罪だぞ。今なら俺から船曳警部に口添えしてやる」
「なんのことや。何を言うてるのか、わからん」
 顔を引きつらせて抗弁すると、火村は悲しそうに目を細めた。
「その封筒、俺が出してきてやろうか?」
 唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。
「早く出せ! アリス」
 すごまれて、私は魔法にかかったように、すんなりと、先ほど拾った紙片を差し出してしまった。
 火村は無言のまま手袋をつけた手でそれを受け取った。真剣な眼差しで、小さな紙を凝視している。
 それはただの馬券だった。ただし、日付は昨日の。
 何故弟の部屋に、昨日の馬券が落ちているのか。あってはならないその存在を、私は咄嗟に、無いものとして処分しようとしていた。それが罪であると認識しつつも……。
「警部、容疑者を姉から弟に変更してください」
「火村!」
「父親を殺したのは、弟の真一の方です。姉の礼子は、弟の身代わりになろうとしています」
「火村!」
「もう少しで冤罪を作るところでした。アリスが見つけたんです」
「俺のことなんかどうでもええ! なんで見逃さへんのや!」
 私が見つけたからといって、手柄になどしてほしくない。私の罪を隠蔽しようなどと作為しないでいい。それよりも!
「火村先生、しかし」
 船曳警部も戸惑っているようだった。
「サッカーボールでさえ、部屋の中に置いておくような子が、バットだけをどこかに置きっぱなしにするわけがないと思いました」
「やめろよ」
 私は犯罪を暴く探偵の背中を掴んだ。
「息子の部屋で揉みあいがあったようですね。バットを持ち出したのも、真一の方でしょう。十五にもなれば、バットを振り下ろせば、殺傷能力は十分です」
 名探偵は動じる事無く、堂々と全てを明るみに出していく。
「十五になれば、刑事罰を受けるんやぞ!」
「それがどうした」
 私は冷水を浴びせられたように、その場に立ち竦んだ。私の目の前にいるのは、誰だ?
「誰が犯そうと罪は罪や。正当防衛? 笑わせるな。自分の身を守るためなら人を殺しても許されるのか? いい加減してくれ。それなら相手が自分を殺そうとしたことも、許されて然るべきだ」
 室内は時が止まったように、誰も動かなかった。痛いほどの沈黙の中、火村の言葉だけが、時間を押し流している。
「正当防衛なのよ。どっちが犯人でもいいじゃない!」
 母親らしき女性が、玄関で叫んだ。
「姉が庇えば美談ですか? 正当防衛で情状酌量になって、二人で幸せに生きていくのですか? 万が一有罪を受けると、社会復帰はかなり困難なのが今の世の中でしょう。それは否定しません。姉が一人で二人分稼ぐより、弟の方が生き易いんでしょうね」
「あんな人、殺されても良かったのよ!」
 母親は憎しみのこもった目で火村を睨んでいた。なのに火村は冷静で、私は友人の、普段被っているガラスの外側の崩壊を予感していた。
「だったら、貴方が殺せばよかったんだ。何も子供たちの行動を待つ必要などなかった。息子だけを引き取るといって二人を追い詰めたのは貴方だ。殺されていい人間が殺害されるのを黙認するのなら、そもそも正当防衛という概念は存在しないのです」
 早く止めなければ。彼を止めてやらなければ。
 なのに私は火村の背中を掴んだまま、一粍も動けずにいた。
「殺したかった。だから正当防衛という隠れ蓑をまとって、殺した。なら、罪は罪として受けるべきです」
 母親が叫ぶのに、私は身体の呪縛を解いて、火村の耳を覆った。だが、それは、彼の心に突き刺さった。
「人でなし!」

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