ひとつのひかり  −8−



 目が覚めるとシーツを着せられていた。ベッドには一人だった。
 まだ裸のままだったが、シーツは新しいものに替えられている。
「なんだよ、まったく」
 シーツを替えるとしたら一人しかいない。
 自分を犯した人間の、自分が犯されたベッドのシーツをこまめに替えるなんて、頭が弱いんじゃないかと疑ってしまう。
 今は何時ごろだろう考えて、腕を伸ばしてカーテンを開けた。
 鉄格子を見るのが嫌でカーテンを閉めていた窓からは、外が薄暗くなっているのがわかった。
 咽が渇いていた。腹も減っている。
 ベッドから降りると、足がしっかり床を踏んだ。よろけることもない。
 その不思議さにヒデトは首を傾げる。
 部屋が揺らぐこともなく、壁も真っ直ぐに建っている。
 目を細めて眉を寄せて考えみて、失笑する。これが「当たり前」なのだ。
 眩暈や、歪みを感じていた今までの方がおかしい。
 けれどその歪んだ世界を愉快だと、快感だと感じていたのだから、自分自身の歪みっぷりに笑がこみ上げた。
 ガウンを羽織ってドアを開けると、リビングからシュウが顔を出した。
「水」
 一言命じると、シュウはすぐにドアの向こうに消えた。
 後を追うようにリビングに入ると、すぐにミネラルウォーターの入ったコップを差し出された。
 リビングも綺麗に掃除されている。壁に自分が椅子などを打ち付けてへこみは残っているが、散らかしたはずの食事やゴミなどは片付いている。
「ご飯は?」
 水を飲み干すと、シュウが尋ねてくる。
「食べる」
 必要な最低限の会話。世話を焼いてくれるなら、もっと愛想のいい女が良かったのにと考えて、笑ってしまった。
 女なら自分に犯されるだろうと心配して、男をつけたんだろうが、それははっきりいって失敗だった。
「何がおかしいの?」
 温められた弁当が目の前に出てくる。割り箸を取って、ヒデトは返事などせずに食べ始めた。
「お前は食べないのか?」
「俺は後で食べる。まだ早いから」
 ヒデトのように乱れた生活をしていると、食事の時間などあってもないようなものだが、シュウはきちんと三度の食事の時間を決めているようだった。
「今何時頃だよ」
「五時」
「なんでわかるんだよ。お前、時計つけてないだろ」
 ヒデトはシュウの手元を見つめた。シーツを握り締めていた手。細い指。明るい照明の下で見ても、すらりと伸びた指が、その先端で押しつぶされたように平らになってしまっている。
 どこで見た指だろう。けれどヒデトはそう深くは考えなかった。それはシュウとは関係ないことだし、ここに閉じ込めた人物もシュウも、ヒデトは見知らぬ人であることに変わりはなかった。
 指と同じように細い手首。そこには腕時計がはめられていない。
「電子レンジに時刻が表示される」
 とても会話が弾んでいるとは思えない。何しろシュウは聞かれたことにしか答えないのだ。
「お前、学校は?」
「行ってない」
 行ってないのはわかる。自分とずっとここに二十四時間閉じこもっているのだから。
「仕事は?」
「やってない」
「俺のこと、知ってる?」
「知ってる」
 自分が左利きだったことを知っていた。だから、ヒデトはシュウに期待したのだ。まだ歌手としての自分を受け入れてくれる人がいるのかもしれないという、愚かな甘い幻覚。
 けれどシュウは始終寡黙で、必要最低限の受け答えしかしない。
 こんな会話が楽しいわけがない。聞いたことには単語しか返ってこない。しかも相手は無表情なのだ。
 ヒデトがしたことに対して怒っているのかと思えば、そうでもないらしい。
 シュウの態度は事の前と後とまったく変わっていない。
 だがヒデトはその淡々とした態度に最も腹が立った。
 何故怒らない。何故嘆かない。
 何故抵抗しない。何故逃げ出さない。
 まるでヒデトに対して、それらすべての感情を見せるのさえも惜しいと言っているように思えた。
「誰に頼まれたんだ?」
「…………」
「誰に頼まれたんだよ」
「誰にも頼まれていない」
「へー、じゃあ、お前は自分から望んで、俺とこんなところに閉じ込められに来たってか?」
「…………」
 シュウは返事をしなくなった。
「自分で望んで、俺に抱かれたってわけだ。抵抗しなかったもんな、お前」
「…………」
 答えられればその無愛想さに腹を立て、答えないシュウにもまた苛立った。
「気持ち悪い奴だな」
 箸を投げ出して、目の前の椅子を蹴った。
「酒」
「ない」
「じゃあ、水だ」
 シュウは黙ってコップに水を注いだ。
 以前ほど酒を飲みたいとは思わなくなっていた。その分、思考がすっきりしている。
 視界も明るくなったように感じる。
 これが酒の抜けたせいだとしたら、この生活もあながち間違いではなかったのだろう。
 だが、いつまで続くのだろう。
「俺はいつまでここに閉じ込められるんだ?」
 ヒデトの質問に、シュウはあの真っ直ぐな瞳を返してきた。
「貴方が貴方らしくなるまで」
 シュウの答えはあまりにも抽象的だった。
「俺は今でも十分俺らしいぞ。ここに酒でもはいりゃあ、もっと俺らしくなれるぜ?」
 ヒデトはわざとらしく笑ってやる。
 けれどシュウは無表情のまま首を横に振った。
 今はもうすっかり乾いた髪が、左右に揺られる。サラサラという音が聞こえてきそうなくらいだった。
「ふん、いいけどな。どうせ仕事もないし、三食昼寝付きで都合よく抱かせてくれる奴がいて、養ってもらえるんだからな」
 ヒデトは立ち上がって、シュウの目の前に立つ。
 顎を掴んで顔を上げさせる。
 吸い込まれそうな黒い瞳。濁りのない美しさは、恐怖と畏怖をヒデトに教える。
 パシンッと頬を打った。
 シュウは目を閉じて俯いた。
「シャワー浴びてくる。着替えはあるんだろうな」
「用意しておく」
 シュウを突き飛ばすようにして、ヒデトはバスルームに向かった。



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