ひとつのひかり  −5−



 身体が沈み込む。何かが上からのしかかる。
 息苦しく、身体のあちこちが痛む。
 喉がヒリヒリする。足りない。欲しい。
「酒……」
 ヒデトは頭を掻き乱し、うつ伏せになってから起き上がろうとする。
 指先に触れる冷たい感触に、夢中になって手を伸ばした。焦りながら口へ運ぶ。
 一口、口に含んで吐き出した。
「サケ! サケだっ!」
 コップを横払いに投げつけた。壁に当たり、中の水を撒き散らして、コップは転がった。
「酒はない」
 静かな声に、ヒデトは顔を上げる。
 奇妙に歪み、捩れて見える視界に、人らしき影があった。
「誰だ、お前。どうして俺の部屋にいる」
 見知らぬ人。ヒデトはそう思った。
「俺は、シュウ。ここはあなたの部屋じゃない」
 抑揚の少ない落ち着いた声に、ヒデトは目を閉じる。
 何かが記憶の端に引っかかったが、思い出していられる精神的な余裕はなかった。
 二日酔いとはまた違う、ジンジンと痺れるような頭痛が襲ってきている。
 これを鎮めるためには、酒を飲むのが一番だと知っている。
「誰でもいい、酒を持ってこい」
「酒はない」
 否定されたことに腹が立って、ヒデトはベッドから降りようとした。けれど足に力がまったく入らず、ベッドからずり落ちるように床に座り込んでしまった。
「酒だよ、酒。持って来いよ」
「ない」
 そうだとヒデトは思い出した。ここには酒はない。外にも出られない。
「チクショーー!」
 ヒデトはうしろ手に手を伸ばし、枕を掴んでシュウに向けて投げつける。
 シュウは両手でその枕を受け止めた。ヒデトはそれにも腹を立て、ベッドのシーツを引き剥がした。手に触れたものを闇雲に、どこへともかまわず投げつける。
「酒を出しやがれ!」
 今必要としているもの、渇望しているその名前をわめきながら、あらゆるものを破壊しようと暴れた。
 シュウはその姿を何も言わずに見つめ、飛んでくるものは受け止めるか避けるかした。
 どんなにヒデトが暴れても、シュウは部屋を出て行こうとしなかった。
「酒を持ってこいよっ!」
 ヒデトの言葉はただそれだけになっていた。
 ひたすらに酒を要求し、それを聞き入れられないと暴れた。
 息も切れ切れになるのを見計らって、シュウはタイミングよく水を差し出す。
 それを飲み干すこともあれば、酒ではないとわかって投げつけることもあった。
 被害は寝室だけにとどまらなかった。
 アルコールを求め、あらゆる棚、引き出し、扉を開き、中にあるものはすべてかき回し、投げ捨て、まき散らした。
「食事、食べないとだめだよ」
 疲れて座り込むヒデトに、シュウは温めたお弁当を差し出した。一度目は引っくり返され、二度目は投げつけられた。
 三度目の食事を見つめ、ヒデトはその中のコロッケをわしづかみにした。
 久しぶりに食べたものは、喉に詰まって苦しかった。差し出されたお茶を両手で持って飲み込んだ。
 暖かい手で左手を包まれる。シュウが割り箸をヒデトの左手に持たせてくれようとしていた。
 ヒデトは手が震え、しっかり箸を握り締められなかったので、包み込まれる手の温もりに、理由はわからないがほっとしていた。
 とにかく掻きこもうとするヒデトを、シュウは落ち着かせるようにゆっくり、少しずつ口元へ運ばせる。
 半分ほどを食べたところで、ヒデトはシュウの手ごと振り払うように、箸までも放り投げた。トレーも床に投げつける。
 髪は振り乱れ、肌はかさかさに荒れ、唇は乾き、目の下には隈。着ていたパジャマはヒデトが暴れたことで裂けたり、汚れたりしてた。これがあのヒデトだなどと、誰が言っても信じないだろう。
 室内も荒れ果てていた。水、食べ物が散乱し、あるべき場所に置かれた物など何一つないという有り様だった。
「酒……」
「ない」
 いちいちすべてに「ない」と答えられ、ヒデトはシュウの髪を掴んだ。
「それしか言えねーのかよっ! お前はっ。酒を持ってこいよっ!」
 サラサラの髪が目の前にあった。脱色し、色を重ね、痛みきった自分の髪とは違う、艶やかな髪がヒデトの目に痛かった。
 掴んだ髪を引っ張り上げる。ヒデトよりも背の低い少年は、その痛みを堪えるように目を閉じている。
「酒はない。もう、飲めない」
 同じ会話。腹立ちを通り越して、憎しみは目の前の少年に向けられていく。
 少しとはいえ食事を摂ったヒデトは、手の力が入るのを感じていた。
 掴んだ髪を振り離し、倒れこむシュウの頬を打った。
 ジンと響いた手の痛みに、何かが身体の中を走るのを感じた。
 それを確かめるように、反対の手でもう一度打つ。
 シュウは無言でその張り手を受け止めた。何度も打たれたけれど、シュウは悲鳴をあげることも、逃げ出すこともしなかった。
「面白くねーヤツ」
 ヒデトは飽きたのか、根気が続かなかったのか、すぐに寝室へと引き上げた。
 ベッドは惨憺たる有り様だったが、邪魔なものだけを払いのけると、ヒデトは倒れこむように横になった。
「シーツを替えるから」
 あんなに打ってやったのに、まだ自分の後をついてきて、シーツの心配をするなんて変な奴。
 眠りに引き込まれる意識の中で、ヒデトは少年のことを嘲笑った。
 酒が飲めないのなら眠りたい。
 身体が少しずつ変化していることなど気がつかずに、ヒデトは目を閉じる。
「あっちへ行け」
 追い払うように言って、ヒデトは眠った。


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