ひとつのひかり  −4−



 椅子を振り上げたヒデトはシュウを見下ろした。
 少年の澄んだ瞳が逸らされることなく、ヒデトを見上げていた。
 ヒデトはその瞳の美しさにたじろぐ。
 何故怖がらない?
 何故こちらを見ていられる?
 ヒデトは叫び声を上げながら、椅子を放り投げた。シュウを通り越して、飛んでいく。
 部屋に響き渡ったのはヒデトの叫び声か、椅子が壁に当たって床に転がった音か。
 ヒデトの叫び声は既に言葉としての意味を成していなかった。
 意味不明の言葉を叫び、少年を蹴り避けるようにして椅子を拾い上げ、玄関へと向かう。
 ガタガタと、引きずった椅子が、廊下や壁に当たってその度に不快な音をたてる。
 ヒデトは声を張り上げ、椅子でドアを叩き始めた。
「出せーっ! このやろー!」
 椅子の足がドアに当たり、木の表面にへこみを作る。
 ガツッガツッと何度もぶつけるが、ドアは開かない。そのうちに椅子の足が折れてしまい、バシッと木のくずが弾けて飛んだ。
「開けろー!! 酒を持ってこいー!!」
 ヒデトは椅子をドアに思い切りぶつけると、その場に座り込んだ。
 二日酔いの頭痛と吐き気、アルコールの禁断症状の手の震え、ろくに食事を食べていない体力不足。ヒデトは叫ぶこともできずに、項垂れた。
 背中にシュウがいるらしいことはわかっていたが、ヒデトはもう何も尋ねる気にはなれなかった。
 ここへ連れてきたのは誰か。
 何故閉じ込められたのか。
 いつまでここにいなければならないのか。
 そして……これからの仕事は……。
 そう思ってから、ヒデトはクツクツと笑い始めた。
 自分にはまともな仕事などない。キャンセルしたとしてもたかがしれている。
 もう自分を待ってくれるファンもいない。
 突然笑い始めたヒデトにも動じることなく、シュウはじっとヒデトの様子を見ている。
 まったく、変な少年だと思った。外見はアイドルでもやっていけそうなくらい、綺麗な顔をしている。
 なのにその顔を利用して愛想を見せようともしない。ずっと表情を変えずに、嬉しそうでも嫌そうでもなく、淡々とヒデトの後を歩き、様子を見ているだけだ。
 普通ならとても不快で苛立ったはずだった。そんな態度や視線が一番嫌いだった。
 けれど、ヒデトはシュウに見られることが、最初から嫌ではなかった。
 何故だろうと考えるだけの余裕はなかったが、その感覚だけはわかる。
 シュウのヒデトに向けられる視線は、憧れや羨望はなく、その代わりに哀れみや蔑みもなかった。
 ただ、ただ、ヒデトだけを見ている目だった。
 真っ直ぐに、曇りなく、ヒデトを見守る視線だから、嫌だとは感じないのだろう。
 見られている。けれど腹立ちはない。
 見られている。優しい温もりを感じ、ヒデトを落ち着かなくさせるが、同時にほっと安心もさせる。
「なあ、お前、酒を出してくれよ」
 少年の名前は覚えたが、それを呼ぶ気にはなれなかった。
「酒は一滴もない」
 予想通りのシュウの答えにヒデトはさらに笑った。
「ここに俺を運んできた奴に持ってこさせろよ」
「こない。ここには……」
「じゃあ、俺たちはその間どうやって生活するんだよっ!」
 笑いながら叫んでから気がついた。だからこそのあの水、あの食料なのだ。
 ヒデトは座り込んだまま、床を殴りつけた。
「どっちかが病気になったらどうするつもりだっ! 俺かっ、お前がっ、怪我をしたらっ!」
 ヒデトは床に転がっていた椅子の足の欠片を拾い、その尖った部分をシュウに向ける。
「病気になっても、怪我をしても、誰も来ないよ」
「食べるものがなくなったらどうするんだっ! 餓死させる気かっ! あれっぽっちの弁当、一週間もすりゃなくなるだろう」 「冷蔵庫は外からも開けられる。食料は外から補充される」
 用意は万端なのだ。誰なのかは知らないが、かなりの期間を、過ごさせるつもりなのだけはわかる。
 シュウの返事にヒデトは絶望にも似た気持ちを抱き、持っていた欠片を投げつけた。少年の腹部に木屑は当たり、床を転がる。
「何か持ってこい。飲むものだ」
 シュウは返事をしなかったが、くるりと身体を返して、キッチンへと消えた。
 ヒデトは確かめたわけではないが、わかりかけていた。
 あの少年は、ここにいる間は自分の世話をするためにいるのだろうと。
 付き人を何人もつけ、一番売れていた頃はボディガードも雇っていた。人に世話をやかれることに慣れていた。
 だからシュウのこともそんな風にヒデトは受け入れた。
 実際、シュウはずっとヒデトのうしろにいるし、ヒデトの命令に逆らわない。
 先ほどぶつけたのと同じようなコップを持って、シュウは戻ってきた。
「中は何だよ」
「ミネラルウォーター」
 くっと喉を鳴らしてヒデトは笑う。それ以外に持ってくるものはないだろうと思っていたのだ。
 一気に飲み干す。起き抜けに動き回り、叫んだ喉に、冷たい水は心地好かった。
「もう一杯持ってこい」
 言うなりヒデトはコップを投げつける。今度は予想していたのか、少年はコップがぶつかる前に両手でそれを受け止めた。
 シュウはコップに水を注ぎ、手にペットボトルを持って現われた。
 一杯ではとても足らないと感じたのだろう。
 その心配りがヒデトは嫌いではなかった。
 気の利かない付き人は、何度怒っても、ヒデトの気性を理解せず、何度も同じ命令を言わせてはヒデトを苛立たせた。
 それに比べると、シュウは聡い。ヒデトの質問には短く的確に答え、余計なことは言わない。そして、要求の先を読むこともできる。
 黙ったままコップを突き出せば、新しく水を注がれた。
 水ばかりをたて続けにがぶがぶと飲み、ヒデトはヨロヨロと立ち上がる。そのまま、足を引きずるように寝室を目指した。
「眠る前に何か食べないと」
 シュウの声がかかる。その声が少しも心配そうではなくて、ヒデトは可笑しくなる。ここで心配などされたら、どんなに腹立たしくなっただろう。それならば義務的に声をかけられるほうが、すっきりと返事ができる。
「酒もないのに飯が食えるか」
 吐き捨てるように言うと、ヒデトはベッドに倒れこんだ。
 腹は空いていた。だが、それ以上にアルコールが欲しかった。それが入らなくては、何も食べる気にはなれなかった。
 疲れきった身体は、けれどすぐに、酒も食事も忘れさせて、ヒデトを眠りへと引き込んだ。


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