ひとつのひかり −32−
回線はまだ繋がっている。 ヒデトは一生懸命に呼びかけた。 「シュウ、逢いたい。会ってお前に謝りたい、ありがとうって言いたい。伝えたいことがあるんだ。俺、1位になったんだ。シュウ、逢ってくれよ」 電話の向こうは物音ひとつしない。 完全な真空状態のような沈黙。 「シュウ、シュウ、逢いたい……」 声が潤む。 「頼むから……」 その時、プツッという無情の響きが聞こえた。 ツーツーツーという、回線が途切れた音。 絶望的な音に、ヒデトは息を飲んだ。 「シュウ! シュウ!」 ヒデトはそれでも呼びかけた。 けれど、聞こえてくるのは、機械の冷たい音だけ。 ヒデトは震える手で携帯の発信履歴を探した。大谷からかけたのだと思ったのだ。 だがそこにある番号は、最新のものは海棠龍とある。 ヒデトは次に着信履歴に切り替えた。 そしてそこに表示された文字に、目の前が真っ暗になる。 『番号非通知』 「どうしてっ!」 ヒデトは携帯を握りしめて怒鳴った。 「大谷っ、知っていたのかっ!」 大谷の衿を掴む。 「知っていて、俺に黙っていたのかっ! 教えてくれよ、あいつはどこにいる。どこに行けば会えるっ! 大谷っ!」 「し、知らないです……」 「今しゃべってただろうがっ!」 「向こうからかかってくるだけです。英人さんがいないときにだけ、通話するように言われてます」 嘘など言えない男だ。そしてヒデトに甘い。ヒデトが望むことは、たいていのことは叶えてしまおうとするような男なのだ。 だからこそ、シュウは大谷にも番号を教えていないのだろう。 なんで……。 ヒデトは口の中で呟いた。 「お前もグルなのか? 海棠さんだって知ってるだろっ? みんなで、俺に隠して、面白かったのかよっ!」 大谷にも裏切られたような気持ちがヒデトを打ちのめした。 海棠は知っていて黙っている。それはわかっていた。 どんな理由があるにしろ、シュウに会わせてもらえないのも、今は仕方ないと思っていた。 だからシュウから会いに来てくれるのを待つしかなかったのだ。 けれど、大谷がシュウを知っているとなると、話は別だ。すべてが自分を裏切っているような、悲愴な気持ちになる。 「ち、違います……」 「何が違うんだよ! 連絡とってたんじゃないかっ! 俺を騙してたんだろっ! 大谷!」 「いい加減にしろ!」 ドアに滝原が立っていた。 滝原は一喝すると、きちんとドアを閉めて、大谷の襟首を掴んだヒデトの手を離させた。 「これから歌うのに、なんていう声を出している」 激しくはないが、厳しい叱責がヒデトに向けられる。 「だけどっ」 「今は歌うことだけ考えろ。余計なことに気を取られるな」 滝原の視線がきつい。その真剣さが痛い。 「先生も……知ってたのか?」 それに滝原は答えなかった。だからわかってしまった。 「みんなで隠してたんだ。俺に……」 一時の激情が去り、ヒデトの声は沈みこんでいた。 「すべてお前のためだ。だが、信じろ。俺はお前のためにピアノを弾く。お前のためだけに。それがお前を前に進めると信じるからだ。進むことが、繋がることではないのか?」 ヒデトは項垂れた。これではとても歌える状態ではないだろう。 「来い」 滝原はヒデトを引っ張って、スタジオまで連れて行く。ほぼスタンバイの済んでいたオーケストラの面々が、ひどく落ち込んだヒデトと怒りのオーラを滲ませて現われた滝原を、心配そうに見やる。 「大谷君、トークは無しにして貰ってくれ。時間がきたら、そのまま歌わせる」 「ですが……、英人さんが……」 オロオロとうしろをついてきていた大谷が、心配そうにヒデトの背中を見つめる。 「大丈夫だ。こいつもプロだから」 「わかりましたっ」 大谷はスタジオを出て行った。ディレクターと交渉してくれるのだろう。 「英人、お前は何のために歌っている?」 「…………」 ヒデトは答えられなかった。答えるだけの気力がなかった。 「ファンのためだとか、自分のためだとか、誰かのためだとか言うのは聞きたくないな。俺はお前の真実が聞きたい。お前は、何のために歌っている?」 「…………」 滝原はヒデトをピアノの横に立たせ、鍵盤に手を置いた。 「俺はピアノのためにピアノを弾く。ピアノは、弾かなければ、邪魔なものでしかない。下手に弾けば、騒音でしかない。俺はただこいつのために、こいつを邪魔者や、騒音にしたくないから弾く」 滝原は鍵盤の一つ一つを愛しそうに撫でた。柔らかい音が響く。 「お前は何のために歌う?」 「歌は…………俺だから……。俺が歌えば、変わるから……」 あの時、ヒデトは歌った。何もかも失くしたヒデトは、最後に歌を選んだ。 そして歌い始めてから、すべてが変わり始めた。 「何が変わる?」 ポロン、ポロンと、ピアノが響く。一つ一つの音が繋がって、それは曲になっていく。 プライマリーだと、ヒデトにはわかった。 「光……、光が変わる。俺の中で、命の光が変わる。歌は俺だから、俺は歌を歌う。俺の中で光が変わるように、みんなが光ればいいのにと、……俺は願う」 ピアノの旋律が徐々に速くなっていく。 最初は主旋律だけを弾いていた滝原は、左手も鍵盤を叩き始めるた。伴奏も加わると、オーケストラの何人かが、ピアノに合わせてきた。 楽譜はないはずである。 ひとつのひかりの楽譜はあっても、プライマリーは用意されていないのだ。 それでも、何人かが合わせてくれて、その響きがヒデトの心を震わせた。 「お前は歌を捨てなかった。ここに、戻ってきた。お前は歌を選んだ」 いつか同じことを言われたと思い出す。 『何もかも削ぎ落とした貴方は、歌を選んだんだ。だから、貴方は歌う』 シュウの声が頭の中に響いた。 『君が 俺の前から 姿を消して 時は どれだけの流れを 刻んだだろう』 掠れた声でヒデトは歌い始める。 『逢いたいと 思う気持ちは 日毎に募り 毎日が 君のために 過ぎていく』 誰に聞かせるわけでもない、自分のための歌だ。歌のための歌だった。 ピアノはヒデトの声に合わせて、キーを下げた。 いつか同じことをしてもらったことがある。そうだ、はじめて歌ったあの日、シュウがピアノをはじめて弾いてくれた日だ。 「もっと声を出せ」 滝原が叱る。ヒデトは腹筋に力を入れる。 声が伸びた。 「上げるぞ」 キーが上がる。 オーケストラも澱みなくそれについてきた。 何も考えずに歌った。頭の中が空っぽになる。そして音楽でいっぱいになっていく。 「時間です。中継きます」 ADの合図に、滝原は行けと目で指図する。 ヒデトは中央に進んだ。 「直で歌に入ります。30秒前!」 「それではヒデトさんの歌で、ひとつのひかり。今夜はこの番組のためのオーケストラバージョンです。じっくりお聞きください」 晃月の声がスピーカから聞こえ、スタジオのライトが落とされた。 出だしはピアノだけ。前奏はほとんどなく、ヒデトは歌いだす。 いつもよりスローな歌い出し。 ヒデトは心の中でシュウに話しかけた。 聞いているだろう? 聞いているよな。 お前に届くまで、俺は歌い続けるから。 ここまで長かったよ。 これからどれだけかかるかわからない。 それでも俺は歌うよ。 お前に届くまで。 途中からオーケストラが加わり、歌は様相を変え、激しくなっていく。 だが、ヒデトの声はその音に負けなかった。 切々と歌うヒデトの目に涙が光る。 カメラはその光を見逃さなかった。 間奏に入り、音はまたピアノだけになった。 ヒデトはスタンドマイクから一歩さがるはずだった。 けれど、その場から動かないヒデトに、滝原が気づいた。 「俺……」 ヒデトが話しかける。 滝原はピアノの音を弱くして、スローテンポにする。 「俺、約束、守ったよ……」 カメラがヒデトをアップにする。 ヒデトは俯いて目を閉じていた。 涙が一筋、頬を伝う。 「俺、約束守っただろ……、だから……、会いに来いよ!」 ヒデトの叫び声は……届いただろうか……。 |