ひとつのひかり  −31−



 待つ日々が始まった。
 ヒデトはシュウからの連絡を待っていた。
『どうしたら本当のお前を手に入れられる?』
『貴方が、もう一度、トップに立てたら……』
 最後の夜になってしまった、あの日。そうだとは知らずに聞いたヒデトに、シュウが答えたのだ。
 ヒデトはトップに立った。
 けれど、海棠は何も言わないし、シュウが現れることもなかった。
 今日か、明日かと、待つ毎日。
 電話の音に敏感になり、事務所、控え室のドアが開くたびに、慌てて振り返る。そしてそこに立つ人を見ては、裏切られた思いで、唇を噛むのだ。
 なぜシュウは逢いに来てくれない? 連絡もしてくれないのだ?
 次第にそのことがヒデトを苦しめ始めた。
 シュウと過ごした、密室の三ヶ月間。
 その倍以上の日が流れてしまった。
 本当はシュウだって、迷惑だったのではないだろうか。そんな疑惑が心の中に浮かび上がってくる。
 あんな場所に、乱暴で自分を犯すような奴と三ヶ月間も閉じ込められた。嫌でないわけがない。
 ピアノが弾けるからって、下手な歌のレッスンまでさせられた。
 あげくにお前を手に入れたいと言われたら、逃げたくなるのも当然じゃないのか?
 シュウの気持ちなど確かめなかった。
 あの時のヒデトはアルコール依存症で、シュウしか世話をする人がいなかった。だから、シュウは世話を焼いただけなのだ。
 それでも……と思う。
 報酬があったのかどうかは知らない。けれど、自分ならどんな大金を積まれても嫌だと、ヒデトは断言できる。
 あれがただ誰かに頼まれて仕方なくやったとは、どうしても思えなかった。
 シュウは根気よく、ヒデトに接してくれた。
 ヒデトを励まし、支えてくれた。
 好意はなかったとしても、嫌われているとは思いたくなかった。
 自分の気持ちが迷惑なら、断ってくれてもいい。もう一度会えればそれだけでいい。言えなかった感謝の気持ちや、シュウに対する想いを聞いて欲しい。
 けれど……。もしかしたらそれさえも嫌なんじゃないだろうか、と怖くなる。
 あの時のヒデトに、トップに立つことなど、絶対無理だと思われた。ヒデト自身、不可能だと思っていた。
 絶対できない問題を出したら、そのうちにヒデトが諦めると思ったのではないだろうか。
 思考は悪いほうへと、どんどん沈んでいく。
 コンサートの打ち合わせやら、仕事、レッスンの合間に、携帯電話をみては溜め息をつき、苛立ちを必死で押さえようとしているヒデトを見て、大谷は心配そうに声をかけるタイミングを計る。
 心配をかけまいとしても、すぐにシュウのことを考えてしまうので、それがまた大谷に伝わってしまう。
 コンサートの日程は本当に迫っていた。
 あまりにも準備期間が短すぎた。会場を押さえられたのが不思議なくらいだ。
 どの会場も音響設備の整った音楽ホールで、また海棠のコネが使われたのかもしれない。
 収容人数こそ他のコンサート会場に劣ってしまうが、今回はヒデトの復帰感謝コンサートなので、ずっとファンクラブをやめなかった人たちが優先されて発売された。チケットはすぐに売り切れた。
 ファンクラブをやめかった人がいることに、ヒデトは驚いた。とうに解散したものと思っていたが、事務所を移転してからも、海棠がその管理をしていたらしい。
 歌える曲目は少なかったが、シュウがすべての曲を歌わせてくれていたので、自分の歌だけで構成することができた。
 毎日が猛烈なスピードで翔けていく。
 どれだけ時間があっても足りないようなスケジュールだったが、ヒデトはその中で、一人取り残されたように流れにもまれていた。
 シュウからの連絡がない。
 それはどんな忙しさの中でも、ヒデトの心の大半を占めていた。
「海棠さん、コンサートの最終日、東京の、2枚余ってる?」
「スタッフパスなら用意できるが、どうするんだ?」
「両親を呼びたいんだ。二人とも何も言わないけど、見て欲しいんだ。俺の立ち直ったとこ。……俺、立ち直ったよな?」
 それは海棠を試したのかもしれなかった。海棠の答えを聞きたかった。
 自分では立ち直ったつもりでも、海棠から見れば、まだまだなのかもしれない。その答えに縋ろうとしたのかもしれない。
 まだ駄目だと言ってくれ。そうすれば、シュウが現われない理由にできるから。
「そうだな。もう大谷に任せても安心できる。滝原先生も褒めてくださってたぞ。パスは2枚用意しておくから」
 海棠の声が遠くで聴こえた。
 ……否定して欲しかったのに!
「なんだ、嬉しくないのか?」
「嬉しいよ、ありがとう」
 ちっとも嬉しくない表情で、ヒデトは事務所を出た。大谷が慌ててついてくる。
「英人さん……」
 気遣うような声に、ヒデトは笑った。
「大丈夫だよ。荒れたいしないって。酒も飲まない。お前に迷惑かけないから」
「そんなことじゃ……」
「行こう、滝原先生のレッスンなんだろ? 2週間も間が空いたから、声が出ないって叱られるかもな。たまには叱られてやらないと、年寄りの生き甲斐を奪ったら悪いから、思いっきり叱られようかな」
 わざと明るく振舞った。そうしないと、本当に暴れてしまいそうだったから。


 翌週からコンサートが始まるという週末の夜に、ヒデトは晃月の歌番組に出た。
 トップを走り続け、コンサートの告知もかねての出演になった。
 今夜は特別に『ひとつのひかり』をオーケストラバージョンで歌わせてくれるとのことで、海棠が手配してくれたミニオーケストラのメンバーが集まってくれていた。『ピアノを弾くのは絶対に俺だ』と言って、譲らなかった滝原がきてくれた。
「先生、年寄りに夜の仕事はきついんじゃないの?」
「馬鹿者。まだまだお前よりは働き者だぞ」
 ヒデトだけ別のスタジオが用意されていた。楽器はデリケートで、目まぐるしく変わる歌番組のセットに合わせて、撤収ができないためである。
「だって、コンサートにもついてくるんだろ? 休まないと身体に悪いよ。年寄りなんだから」
「年寄り年より言うな。まだまだ、お前が必要とする間くらいは、元気にピアノを弾いてやるさ」
 ヒデトを思いやる優しい励ましに鼻がつんとして、ヒデトは慌てて顔を逸らした。
「ほどほどにしろよ」
 てれを隠すため憎まれ口を言って、ヒデトは控え室に戻ることにした。
 ヒデトが気弱になってから、大谷は気を遣いまくるし、滝原は妙に優しい。
 それが嬉しいのに、足りないと思う自分が情けなく、みんなに申し訳なかった。
「お願いします。一度でいいんです」
 控え室の方から低く潜められた声が聞こえてきた。ドアが薄く開いていて、近づくにつれ、その声大谷のものだとわかる。
 相手は誰だろうと不思議に思ったが、大谷の懇願するような声しか聞こえてこず、もしかしたら電話で話しているのではないだろうかと気づいた。しかし大谷の口調が切羽詰っていて、そんな相手に心当たりがない。海棠だろうかと考えたが、それならテレビ局の控え室でというのがわからない。
「ヒデトさんが……ヒデトさん、本当に辛そうなんです」
 自分の名前が出て、ヒデトは驚いた。
「一度だけでも、会いにきて下さい。お願いします。英人さん、本当に会いたそうなんです」
 その言葉にはっとする。考えるより先に、ヒデトは控え室に飛び込んだ。
 突然現われたヒデトに、大谷もひどく驚いたようだ。やはり、手に携帯電話を持っている。
 大谷の口が英人さん……と動く。声になっていたのかどうかは、ヒデトにはわからなかった。
 大谷に駆け寄り、その電話をむしり取った。
「シュウ、シュウなんだろ!」
 電話の向こうは、無音だった。
 だが、通話は切れていない。
 ヒデトは必死で叫んだ。
「シュウ! シュウ! 聞いてくれっ! 頼むから…っ」



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