ひとつのひかり −30−
「これ……っ!」 ひとつのひかりというタイトルの歌。 Shioriという名前に聞き覚えはなかったが、これはあの日、シュウが歌っていた歌だとヒデトは確信した。 後にも先にも、ヒデトがシュウの歌を聞いたのは、ただ一度きり、あの日、ヒデトがあの家に閉じ込められた最初の朝だけなのだ。 「これ、シュウが作った歌だろう。シュウだよな。海棠さん、シュウに会ったんだろっ!」 ヒデトは楽譜を持って海棠に詰め寄った。 「逢いたいんだ。会わせてくれよ」 「お前は目が悪いのか。その曲を作ったのはシオリという人だ。シュウという名前じゃない」 一貫してシュウという人物を認めようとしない海棠。何故そこまでと腹が立った。 「嘘だ。だって、これ、シュウが歌ってたんだよ」 「違う」 「だったら、このシオリって人に会わせろよ。会わせられないよな、シオリなんていないんだから」 「シオリさんは曲を書くだけで、歌手とは会いたくないそうだ」 「嘘だ。あんたは嘘ばっかりだよ」 何故そこまで頑なに会わせてくれないのか。 俺は立ち直ったのに。 まだトップにはなれないけれど、この曲をくれるくらいなら、会って欲しい。その方が、ヒデトは何倍も頑張れるのに。 「会わせてくれよ……」 ヒデトは楽譜を持ったまま床に座り込んでしまった。 「英人さん……」 大谷が心配そうに、ヒデトの肩に手を置いた。 「その歌が不満なら、返してくるぞ」 海棠が手を差し伸べるのに、ヒデトは楽譜を抱きしめた。誰にも渡さないと。 「これは、俺の歌だ。誰にも渡さない」 「だったら、ヒデト。トップに立て」 ヒデトは楽譜を抱いて床に座り込んだまま、海棠を見上げた。 見下ろしてくるのは鋭い視線。けれど冷たくはなかった。 「トップ……」 「そうだ。お前は、やるしかないんだろ?」 ヒデトは悔しかった。海棠はすべて知っているはずなのにと。 ヒデトにやれというばかりで、少しも認めてはくれない。 どこまでやればいいんだと腹が立った。 悔しくて、腹立たしくて、胸が熱くなる。それを闘志と呼ぶのだろうが、ヒデトはその燃える闘志を、静かな、けれど強い炎へと変えていった。 「こらこら、速すぎるだろう」 滝原の元へ、『ひとつのひかり』を持ち込んだ。 この歌をいい加減に歌うわけにはいかない。 シュウのためだけでなく、海棠への対抗心もあって、完璧に仕上げたいと思っていた。 「速すぎるって……こんなもんだろ?」 「お前は記号を見ていないのか? アンダンテと書いてあるだろう。ゆっくり歩く速さだ」 「先生、年寄りだから、遅いんじゃないのか?」 「馬鹿野郎。音楽記号に若いも年寄りもあるかっ」 最近の滝原とヒデトのレッスンは、まるでおじいさんと孫のようで微笑ましい。 最初の頃、滝原に対するヒデトの暴言に、音楽界の重鎮になんていう言葉をと肝を冷やした大谷だったが、今ではニコニコと聞いていられるようになった。 「あいつが一番年寄り臭いかも」 「同感だな」 二人は好々爺のような笑顔の大谷を見て、妙なところで意気投合するのである。 「アンダンテというのはだな、ほら、わざわざ作曲者が書いてくれているだろう、四分音符イコール72。72といえばだいたい脈拍の速さだろう」 「年寄りだから遅……いってーな」 まだ憎まれ口を叩くヒデトの頭をパシンと叩いて、滝原はメトロノームを動かした。 カチ、カチ、カチと規則正しく拍を刻む。 「ちょっと遅すぎないか?」 「それを決めるのはお前じゃなくて、作曲者だ。作曲者がアンダンテと決めたのだから、そのままでいくぞ」 言ってから滝原は、メトロノームはそのままに、ピアノを弾き始めた。 一度目はメロディーだけを弾いて、二度目には伴奏もつけた。 確かにゆっくりなのだが、伴奏をつけると荘厳な響きが加わって、クラシックを聞いているような気分になってくる。 「歌えるかな? がさつなお前に」 「これは俺の歌なんだ」 宣言するヒデトに、滝原は楽しそうに笑う。 楽しそうに笑いながらも、レッスンは今まで以上に厳しくなった。 「スローテンポなのだから、声の質を落とすな。声が細くなったり震えたりすれば、聴けたものじゃなくなる」 「正しく歌うだけじゃ駄目だ。もっと情感を込めて」 「声を出せばいいってもんじゃない。怒鳴っているほど嫌な歌はない」 滝原は容赦なくヒデトの腹を打ち、何度も何度も歌わせた。 簡単な歌だとばかり思っていた歌が、とてつもなく難しいのだとようやくわかってきた。 滝原の言うとおり、どんな誤魔化しも通用しない曲なのだ。 綺麗に歌わないと『つまらない歌』となってしまう。 ヒデトはますます気を引き締めないといけなくなった。 丁寧に言葉を大切に。音を一つ一つしっかりと伸ばして響かせて。 今までよりも滝原は発声練習に念を入れるようになった。 編曲はまた滝原がやってくれた。 ヒデトがクラシック風の荘厳な響きを気に入ったので、生演奏用にはそちらを、テレビ用には誰もが聞きやすいアレンジと、2種類を用意してくれる。 レコーディングやジャケット撮影も順調に済み、今回からプロモーションビデオも作ることにした。 曲のタイトルに似合うようにと、光を多く取り入れて、眩しさと清らかさを強調する。 広い草原に立ち、雲間から射す太陽がヒデトを照らし出し、その光が弾けて世界が輝き出すというイメージで撮られたビデオは、CDが発売されると、色んな場所で流れ始めた。 そして『ひとつのひかり』は、ヒデトが願っていたよりもずっと目ざましい売り上げを見せたのだった。 新曲がリリースされたので、ヒデトはまた晃月の歌番組に出演することになった。 今度はコマーシャル明けのいい順番をもらえて、席も前の方に移ってきた。 「ヒデトさん、新曲ですね。珍しくバラード調ですが、じっくり聞かせますよねぇ」 「ええ、目を閉じて聞いて欲しい歌です」 「この曲はヒデトさん作詞作曲じゃないですが、でも、プライマリーと対になっているように思うんですよね」 「ツイ、ですか?」 晃月はまたしても台本にないことを聞いてくる。ヒデトもある程度は覚悟していたが、今度は前回ほど嫌味な質問ではなくて助かったと思う。 「そうそう、俺ね、時代劇とかも出るんだけど、男女の恋愛って、短歌のやり取りするんだよね。男の歌に、女が返歌をするんだよ。そんな感じ」 言われてみて、ヒデトは確かに『プライマリー』が自分からシュウへの想いであり、『ひとつのひかり』がその返事のような気がしてきた。 「その辺、どうなの?」 「それが、俺はこの歌を作ってくれた人に会ったことがないんですよ」 もちろん本当のことなど喋れないので、適当に誤魔化す。Shioriがシュウではないのなら、本当にあったことはなくて、喋ったことが真実ではあるれど。 「そうなんだ。でも、昔も男女はお互いに顔も見ないで歌をやり取りしたんだよ。現代の平安朝ロマンスって素敵だと思わない?」 晃月は何か知っているのか? と疑いたくなるような質問だった。 「あはは、いいですね。でも、俺の顔を合わせない恋の相手は、俺の歌を聴いてくれてる人だから」 流し目でカメラを見る。そうやって質問を流してしまいたかった。 「今、テレビの向こうで女の子たちの悲鳴が聞こえたような気がするよ。罪作りだなぁ。じゃあ、新曲、お願いします」 上手くかわせて、歌に移ることができた。 テレビの生番組で歌うのはこれがはじめてになる。 PVもよく流れるようになったが、それはCM程度のごく短いものだ。 すべて聴いてもらうなら、この番組がはじめてということになるだろう。 シュウ、聞いてくれているか? お前が俺にくれた歌だ。 俺はお前に語りかけるために歌う。 お前のためだけに、大切に歌うよ。 俺の歌に応えてくれたのが、この歌なのなら、俺は信じていいはずだよな。 トップに立てたら、逢いにきてくれ。 お前のこと、全部教えてくれ。 俺も、この気持ちを、正直に伝えるから。 逢いたいという気持ちを、歌に託した。きっとシュウが聞いてくれると信じて。 順位はどんどん上がっていった。 それにともなって、仕事も増えた。 毎日が忙しく、レッスンにも今までのようにはきちんと通えなくなった。 海棠がスケジュールを組み、大谷がヒデトと共に動く。ヒデトの一日の予定、健康管理、各所への確認。それらも大谷がしてくれた。 「大谷、忙しくなって、悪いな」 「何言ってるんですか、忙しいほうが嬉しいですよ。それに、前よりずっと英人さんが協力してくれるので、助かってますよ」 「俺、前は酷かったもんなー」 何しろ、大谷が迎えに来た時に、まだ眠っているのだ。マンションにいれば、まだいいほうである。 だんだんマンションに帰らなくなって、大谷はヒデトを探して回らなければならなかった。泣き顔の大谷が、心当たりを駆けずり回った。 中にはそんな彼が気の毒で、ヒデトがきていると教えてくれるところもあったが、そうなるとヒデトは、なじみでもないところへ行って、大谷が迎えにこれないようにしたのである。 ようやく捕まえたヒデトがテレビ局に入っても、酔っ払ったままで、歌などまともに歌えなかった。 事務所に叱られた時も、謝ってくれたのは大谷だった。ヒデトは心から謝ったことなどなかった。 それなのに、もう一度大谷にマネージャーとしてきて欲しいと願ったヒデトに、大谷は喜んだのだ。 「えっ、いや、あ、あの、そんなつもりで言ったんじゃなくて……」 過去を回顧するヒデトに、大谷は自分の発言に慌てた。 「いいよ、本当のことなんだから。その分、これからは大谷には苦労かけないように頑張るから」 「英人さんっ!」 当たり前のことを言っているのに、大谷はいちいち感激するものだから、ヒデトの方が恥ずかしくなってしまう。 人の親切がわかるようになった。自分の過去を恥じることができ、それを繰り返さないと誓うこともできるようになった。 それはやっぱりシュウのおかげなのだ。 一番お礼を言いたい人がいない。 毎日が辛かった。 充実する分、辛さは増していった。 それでもそれを我慢する術は知っていた。 その我慢をすることもシュウが教えてくれたから。 そう思うと、苦笑とも微笑ともとれる笑みが零れる。 大谷はどかしたのかと聞いてくるが、最近はそんな笑い方をするヒデトを、辛そうに見つめる。 ジリジリと時間が焦げるような日々を過ごしていたヒデトに海棠が朗報を持ってきた。 「いい報せが二つある。『ひとつのひかり』についてと、ヒデトについてだ。どちらから聞きたい?」 もったいぶる海棠に、ヒデトは『ひとつのひかり』と即答する。自分のことなどどうでもいい。 「『ひとつのひかり』がオリコン1位だ。おめでとう」 あまりに素っ気無く、あっさりした抑揚のない言い方に、最初は何の事かわからず、じわりと意味が頭に届く。 「ほん…と…に……?」 驚くヒデトに、海棠が一枚の紙を差し出した。オリコンの順位表で、『ひとつのひかり』が発売された週からの、順位変動表になっていた。 一番右側の今週は、間違いなく1位になっている。 「やった……っ、……やったよ、大谷っ!!」 「はいっ、英人さん、おめでとうございますっ!」 二人で飛び上がって喜んだ。 「1位だよっ、1位!!」 「すごいですっ!」 「こら、お前らっ。もう一つの方もちゃんと聞けっ」 海棠の怒声に、二人はぴたりと動きを止める。口も閉じて、しゅんと海棠の前にやってくる。 「コンサートが決まった。今回はまだ6都市だが、北海道から九州までの一応全国規模だ。今のタイミングを外したくなくて無理に捩じ込んだからな、日程に間がないぞ。急いで仕上げる」 「は……はは、……ははは。コンサートだよ。コンサート! 1位にコンサート! 俺、やったよな!」 ヒデトは嬉しくて、嬉しくて、この時だけはシュウのことも忘れて、単純に喜んでいた。 |