ひとつのひかり −28−
ヒデトの歌う口紅のCMが流れ始めた。 16歳のモデルはピンクの口紅を引いた唇を薄く開けて、潤んだ瞳でじっとこちらを見つめている。 『逢いたいの 貴方に』 唇が動くが、言葉は出ない。文字が唇にあわせて、浮かんでは消える。 バックにプライマリーが流れている。 短いCMはモデルの可愛さと、ヒデトの歌とでじわじわと話題になっていった。 パルトネーレとタイアップして、ヒデトはリップの広報活動にも参加するようになった。 小さなイベントで試供品を配り、人集めをして、モデルがリップの良さをトークして、ヒデトがラストに歌う。 ヒデト自身のインタビューはなかったが、ないほうがありがたかった。 休んでいた間のこと、週刊誌に書かれたことなどを聞かれることを避けたかった。 ヒデトはたとえイベントの参加者が少なくても、とても大切に、プライマリーを歌った。一回一回にすべてを出し切るつもりで歌った。 自分の歌を大切に歌う。歌の持っている力を引き出してやる。 そしてシュウに会いたいと願う歌を、観客が少ないからと疎かにするつもりはなかった。 一つのイベントをこなすたびに、だんだんとヒデトの歌も売れていった。 オリコンのチャートも急カーブを描くように上がっていった。 CDも重版がかかったある日、海棠が事務所で唐突に宣言した。 「ヒデト、そろそろお前のマネージャーを雇う」 「マネージャーは海棠さんでしょ」 ヒデトは何を今更という感じで、真剣に聞いていなかった。 「テレビの仕事が入ったんだ」 ニヤリと海棠が笑う。相変わらず不敵な笑みだ。しかも、どこかヒデトを見下しているように思えるから、これが海棠なのだと思っても、むっとしてしまうのは仕方ない。 そんな海棠の言葉は、頭の中で良い報せだとわかるのに、ほんの少しの時間を要してしまう。わずか数秒ほどのことではあるが。 「ほんとにっ? やった!」 今むっとしたばかりなのも忘れて、ヒデトは素直に喜んだ。 「もう電車の移動は危ないし、俺は本業の方と、お前のスケジュールの管理で忙しい。だからお前専属のマージゃーを雇う」 海棠の説明に、以前自分の言ったわがままを思い出した。 電車に乗るのが嫌で、マネージャーを雇えと言ったのだ。 「そうか……、でも、まだ俺、マネージャー雇ってもらえるほど売れてないと思うけど」 何しろ、忙しくなったとはいえ、週の半分は休み状態で、レッスンも通えているのだ。 「これから忙しくなるんだ。今のうちに人を見つける」 海棠はやれやれと呆れたように言う。 「あ……、だったらさ、海棠さんの力で引き抜いてきて欲しい人がいるんだ」 ヒデトは恐る恐るといった風に海棠を見る。海棠は眉を寄せて、何を言い出すつもりかとヒデトを見た。 「前のプロダクションでマネージャーやってくれてた大谷を引き抜いて欲しいんだ。おれ、あいつに勝手ばっかり言って、振り回して、最後はあんなだっただろ。だから、今度はいい思いをさせてやりたいんだ」 「向こうがもうお前は懲り懲りだというかもな?」 相変わらず海棠は辛辣だ。だが、今回はヒデトの苦手な笑みはなく、その目は真剣そのもので、ヒデトを試すようにひかっている。 「そりゃそうかもしれないけど。それだったら諦めるから、一度話だけでもして欲しい。それとも、俺が直接謝りに言った方がいいかな。嫌だって言われても、謝りたいんだ」 ヒデトの言葉に、海棠はふっと笑った。どこか安堵を感じさせる笑みで。 「……だそうだ」 海棠が意味ありげに言いながら、事務所のドアを開いた。 その切り取られた四角い空間の中に立っている人物を見て、ヒデトは驚きに目を見開いた。 「大谷……」 気弱そうな青年だった。確か年は海棠と同じくらいのはずだ。それなのに、外見はまったく違う。容姿だとかではなく、海棠の他者を圧倒する覇気に対して、大谷は柔和過ぎるのだ。 「英人さん、お久しぶりです」 丁寧に腰を折る。 本当に、どこのお坊ちゃんだと思わせる折り目正しさである。 「大谷、ごめんな、俺」 「また英人さんに付けて嬉しいです」 「……本当に?」 ヒデトは嬉しくて泣けてきた。 嘘など言えない男なのだ。真面目すぎて、お世辞も言えない。口から出た言葉すべてが真実という人間だ。 以前はそれがださく見えて、疎ましかった。自分の側にいられるのも鬱陶しくて、つい邪険にしてきた。 それなのに、またヒデトのマネージャーになれて嬉しいというのだ。嘘のつけない口で。 「ありがとう、大谷……」 礼を言う言葉が感極まって詰まってしまう。 それでも大谷ならわかってくれる。そんな確信があった。 「大谷、そいつがわがまま言ったらすぐに告げ口しろよ。それにもっと厳しくなれ。ヒデトが言うことを聞かなかったら、叱りつけろ」 海棠は呆れ気味に二人を見ていた。 「英人さんはわがままなんかじゃないですよ。あの頃は……私の力不足だったんです。それなのに、私を呼んでくださるなんて……、ありがとうございます」 柔らかい笑顔。嘘のない感謝の言葉に、過去の自分を消せるものなら消してしまいたいと、ヒデトは恥ずかしくてたまらなかった。 けれど、過去を消してはいけない。あの頃の自分を恥じる気持ちごと、乗り越えなくてはいけないのだと、今はわかる。……そう教えてくれた人がいるから。 「や、やめろよ。お前が悪いんじゃないよ。俺が悪かったんだから……。もう、参ったな」 ヒデトは嬉しくて笑った。笑いながら、涙を隠すのに苦労する。 「精一杯やらせていただきます」 「俺が頑張るんだって。大谷に楽させてやるから」 「マネージャーに楽させる歌手は駄目なんじゃないか?」 「そうですよ、英人さん。私を仕事できりきり舞いにさせてください」 「お前ら、仕事しすぎ……」 暗く長いトンネルにいた。出口などないと思っていた。 自分から入ったトンネルだ。どんなに暗くても、長くても、誰にも文句は言えない。 けれどヒデトはみんなを呪った。何もかも壊れればいいと思っていた。 そのトンネルの中に光を持って現われたのはシュウという少年だった。 シュウは一歩一歩ヒデトを出口へと足元を照らしてくれた。 けれど出口が見えてきたとき、シュウは姿を消した。 海棠が出口を指し示してくれた。いろんな人が手を差し伸べてくれて、ヒデトは自分の足で出口までやってきた。 なのに、シュウがいない。 シュウに逢いたい。 今、その気持ちが大きくなった。今まではただ単に会いたいというだけのわがままな願いだった。 けれど、今は違う。 謝りたい。お礼を言いたい。そして……、自分の気持ちを伝えたい。 一人の男として向き合って、自分の言葉で話したい。 「海棠さん、まだシュウには会えないのかな」 ヒデトは海棠にポツリともらした。 「何度も言うが、俺はそんな奴は知らない」 手がかりさえつかめない今、ヒデトはシュウに繋がるのは海棠しかいないと思う。 なのに海棠は、手がかりどころか、何も知らないと言ってのけるのだ。 「お前な、たまには新聞も読めよ」 まったく関係のない話題に摩り替えられて、ヒデトはむっとする。 「新聞くらい読んでるよ。行こう、大谷。これからギターのレッスンなんだ。星野先生に紹介するよ。道も覚えろよ」 「はいっ、英人さん」 二人が慌しく出て行くのを見送って、海棠はテーブルの上に綺麗にたたまれたままの新聞を眺めて、溜め息をついた。 |