ひとつのひかり −27−
舞台の上は沈黙が支配していた。 演奏のテープも止まり、ヒデトは立ち竦んでいた。 客席も何事かとざわつき始めた。 ヒデトはマイクを握り締め、唇を噛み締めた。 失敗だ。もうだめだ。 ヒデトは目を伏せ、足元を見つめた。 怖くて前を見られない。海棠の元へも行けない。 逃げよう、帰ろうと思うのに、足が動いてくれない。 幕を下ろしてくれとそれだけを願っていた。 視界の隅で、客席から数人が立ち上がるのが見えた。 このままみんなが帰ればいいとそんなことを思った。 その時、ピアノの音が響き渡った。 突然会場に溢れ出るように流れたピアノの音に、誰もが一瞬、息を止めた。 ヒデトは驚いて振り返る。 舞台の裾に置かれていたピアノに滝原が座っていた。 ヒデトの位置からでは滝原の手元は見えないが、その真剣な表情は鍵盤にではなく、ヒデトに注がれている。 帰りかけていた客が再び座る。 滝原はプライマリーを弾いている。 歌え。とピアノが叫んでいるようだった。 『だから貴方は、貴方の真実の歌を、真実の心で、歌わなきゃならない』 ピアノを弾いてくれたシュウ。その言葉がヒデトの耳に、ピアノの音と共に甦る。 何をしている。 滝原の眼差しがヒデトを叱っている。 何をやっているんだ、俺は。 ヒデトはぎゅっとマイクを握り直した。 ヒデトの目に力が戻ったのを見て、滝原はプライマリーの前奏に戻した。 『歌ってよ』 シュウが呼んでいる……そんな気がした。 今、自分は、シュウと一緒にいる。 ヒデトは目を閉じて、歌い始めた。 『君が 俺の前から 姿を消して 時は どれだけの流れを 刻んだだろう 逢いたいと 思う気持ちは 日毎に募り 毎日が 君のために 過ぎていく』 ピアノの音とヒデトの歌声は、舞台から客席へと広がっていく。 歌い始めると、ヒデトの頭からすべての雑念は消え、歌うことだけが残った。 『俺が 歩き始めるのを 君は 見ていてくれるだろうか どこまでも どこまでも 俺は歩いていく いつか この道が 君に続くことだけを 願って』 最後の音がホールに響き渡った。それはふわりと溶けるように、消えていく。 そしてホールにはまた沈黙が戻った。 拍手は無かったが、ヒデトはすべてを出し切った。その充実感で胸をいっぱいにして、深く頭を下げた。そして滝原にも感謝の意を込めて頭を下げる。 もう一度客席に頭を下げて、海棠のところへ行こうとした。 歩き始めたヒデトの耳に、パチパチと拍手が聞こえた。 ヒデトは驚きに足を止めた。 一人の拍手は波紋を広げるように、客席に広がっていった。 拍手が拍手を呼び、ホールいっぱいに拍手が鳴り響いた。 その中央に立つヒデトは、驚きに立ち止まり、ホールを見渡した。 久しぶりに聞いた拍手は、今までのどのステージよりも、ヒデトの心を震わせた。 ライトと拍手。 もう戻ることはないと思っていた舞台。そこに立っているという実感は、歌手としてのヒデトの再生の瞬間でもあった。 「ありがとうございます」 マイクはまだ生きていた。 「こんな素晴らしいコンサートで歌わせていただいてありがとうございました」 ヒデトはまた頭を下げた。拍手がいっそう大きくなった。 滝原が横に並び、あらためてヒデトを紹介する。 「今の歌でCDを出すことになっています。またどこかで聴くことがあったら、耳を傾けてやってください」 「よろしくお願いします」 ヒデトが頭を下げると、幕が下りてきた。 完全に幕が下りるまで、ヒデトはずっと頭を下げ続けていた。 「この馬鹿野郎。年寄りの寿命を縮めるようなことをしやがって」 滝原はヒデトの背中を遠慮なく叩いた。 「ピアノ、ありがとうございました。先生のおかげで歌えました」 「お前からそんな殊勝なことを聞かされると、ますます寿命が縮むような気がする」 滝原は笑いながら海棠の方へと歩いていく。ヒデトもそのあとを慌ててついていった。 「滝原先生、助けていただいて、ありがとうございました」 海棠も滝原には丁寧に腰をって礼を言う。 「ははは、最初は海棠君に頼まれて嫌々だったんだがなぁ。こいつを何とかしたいと思ってるのは、海棠君より私の方が強いかもしれんな。まったく、えらいものを背負わせてくれたと恨むぞ。おかげで隠居生活も楽しめん」 とても楽しそうに滝原が笑いながら言うので、彼なりの励ましと愛情なのだとヒデトにはわかった。 「ありがたいお言葉です。当人も喜んでいるでしょう」 本人同士、そしてヒデトもそこにいるのに、誰かが間にいるような会話をしている。 「次はこいつのためだけの舞台で弾いてみたいもんだ」 「俺、頑張ります!」 滝原の言葉に、ヒデトは勢い込んで言った。 「馬鹿者! お前は自分のために頑張れ。こんな隠居のために頑張らんでもいい」 滝原は笑った。 それ以上の礼は言えなくなってしまった。ヒデトよりも滝原のほうが忙しくなってしまったからだ。 今日の舞台の演奏者たちが、次々に滝原の元へ、久しぶりに滝原の演奏が聞けたことへの感動を伝えにきたのだ。 そしてヒデトにも素敵な歌だったと、ついでにお世辞も言ってくれた。 失敗ではなかった。 ヒデトとしては満足のいく歌を歌えた。 それだけで手ごたえはあったと思っていた。 けれど、相変わらず、仕事はなかった。路上ライブでもやりたいとヒデトは言ったが、色んな許可をとっても、その労力に見合うだけの効果はないからと、海棠はそれを却下した。 じゃあ、デパートの屋上とかと、ヒデトはなりふり構わずに歌う場所を求めた。 それも海棠は犯罪に関わったり、アルコール中毒のあった歌手を使うのは、イメージが悪いと向こうから断られるだろうなと言う。 結局、発表会のあとは、相変わらずのレッスンと挨拶回りの時間を過ごしていた。 インディーズを扱うレコード店にもCDを置いてもらっていたが、売れ行きはいいのか悪いのか、微妙なラインを移行しているらしかった。海棠はその数字を具体的には教えてくれなかった。 悪いから教えてくれないのだろう。ヒデトの名前だけでは、もう買ってはもらえないのだ。 買ってもらうためには、まず聴いてもらわなくてはならない。 そのチャンスがつかめずに、焦ってはいけないと思いながらも、気持ちはジリジリと焦っていた。 そんなある日だった。事務所で曲作りをしていたヒデトは、やってきた海棠が、珍しくご機嫌な様子なので、ちょっと面白くなかった。 自分はこんなにつまらないのにと、八つ当たり気味に睨みつけた。 「パルトネーレって知ってるか?」 ヒデトの視線など歯牙にもかけずに海棠はご機嫌なまま話しかけてくる。 「化粧品会社の? 最近よく聞く名前だな」 外資系で急成長を見せている化粧品会社の名前だと思ったヒデトは、それを口にした。 「そうだ。今度のティーン向けのリップのテレビCMにプライマリーを使いたいと言ってきた」 「ええっ!」 ヒデトは思わず立ち上がって叫んでいた。 「あの発表会にパルトネーレの社長が来ていたんだ。それでプライマリーがいいと広報に推薦してくれたらしい」 「……本当に…?」 俄かには信じがたく、ヒデトは半信半疑で海棠を見つめた」 「本当だ。ついてはシングルリリースするために、パルトネーレからレコード会社に掛け合ってくれた。メジャーデビューだ」 じんわりと喜びがこみあげてきた。 小さな喜びが膨らみ、全身に広がっていく。 「やったーっ!」 ヒデトは笑いながら、飛び上がった。 レコード会社から出してもらえれば、歌う場所も増えるかもしれない。なにより、テレビでヒデトの歌が15秒や30秒とはいえ毎日流れるのだ。 「すごい、すごいよ。海棠さんのおかげだよ!」 ヒデトは飛び上がりながら、海棠に抱きつき、叫びながら、事務所の中を跳ね回った。 海棠はそんな様子に苦笑する。 「海棠さんのおかげか、まさに、そうだな」 「あー、滝原先生に報告しよ。年寄りはまず喜ばせないとね」 すっかり滝原の信奉者となったヒデトは、事務所の電話で滝原へと電話をかけている。 その笑顔を真っ先に独占してしまったことを、海棠は心の中でひっそりと詫びたのだった。 |