ひとつのひかり  −26−



 新谷の調子のいい笑顔が目の前にあった。
 その笑顔と対極にあった笑顔を知っている。ヒデトだけを見てくれた裏心のない真っ直ぐな笑顔。
 綺麗な瞳は、ヒデトだけを映した。
 ヒデトに未来を見ることを教えてくれた。
 こんな……、胸の奥に何かを隠したような笑顔ではない。濁った企みの色をしていなかった。
 駄目だ……。
『何もかも削ぎ落とした貴方は、歌を選んだんだ。だから、貴方は歌う』
 ここであの頃の自分に戻ってはいけない。揺れ動くヒデトの心に、シュウの呼び声が聞こえてくる。
 自分は生まれ変わったんだ。
 自分の歌で第一歩を踏み出す。
 生まれ変わらせてくれたのは誰だ。
 シュウであり、ここまで道程をつけてくれたのは、海棠である。そして滝原や色んな人たちがヒデトのために、時間を割き、持てる力を分けてくれている。
 それらはレッスン料などで換算できるものではないのだ。
 駄目だ……。
 今自分はまだ、みんなが拓いてくれる道を歩いている。ヒデトの前に道を造り、歩けるようにしてくれた人たちを裏切ってもいいのか。
「俺、帰るよ。声、かけてくれてありがとうな」
「えっ、ちょっ、ヒデトさん」
 新谷が慌てて引き止める。
「俺、今の事務所でやっていくから。金の問題とか、やり方の問題じゃないんだ。俺の問題だから」
「何言ってんですか。手っ取り早く稼いで、また遊びましょうよ」
「それじゃ駄目なんだ。悪いな」
 あとはもう振り返らずに走った。新谷の呼び戻す声も振り切るように。
 確かに電車に乗るのは苦痛だった。だがあの週刊誌の記事が出るまでは、それほどでもなかったと思い直す。
 ずっと扉に張り付くようにして乗っていたが、いろんな人を見ていた。色んな会話を聞いた。色んな世代の、様々な表情を見た。
 歌を作るときに、あの人たちにも歌ってもらえたらいいなと、聴いてくれる人たちをヒデトははじめて意識して作ったのだ。
 自分の足で歩いた。太陽の下を。雨の日もあった。けれど3ヶ月を家の中で過ごしたヒデトには、その自然の流れが愛しかった。
 逢いたい……。
 逢いたいよ、シュウ。
 今、一番シュウを身近に感じた。
 濃密な二人だけで過ごした時間。その時と同じくらい、時間は流れた。
 離れ離れになり、距離も時間も、心も離れてしまったのに、シュウを身近に感じる。
 逢いたい。逢いたい。
 そのためには、トップに。トップに立たなくてはならない。
 ヒデトは家に帰らずに、そのまま事務所に駆け込んだ。
 海棠はまだ事務所にいた。
 駆け戻った息の荒いヒデトを、訝しそうに見る。
「俺、……歌、う。歌う。路上でも、どこでも。歌うことから始めなきゃならない」
 ヒデトは叫んだ。その声ははあはあと荒い息の合間で、決して叫び声にはならなかったけれど、歌わせてくれと叫んでいた。
 海棠はにやりと笑った。
「覚悟はあるな?」
「どんなとこでも歌う。歌わせてくれ!」


「発表会?」
 海棠が最初に持ってきたのは、素人の演奏者が集まる発表会だった。
 演目は最もポピュラーなピアノから、バイオリン、フルート、ハープなど色んな楽器の演奏で組み立てられているらしい。
 発表会といえば、真っ先に子供のピアノ教室を思い浮かべたが、海棠に渡されたパンフレットを見ると、演奏者はみんな成人であるとわかった。
 そのラストにヒデトがゲストとして潜り込ませてもらえるらしいが、パンフレットにヒデトの名前の記載はない。
「発表会なんてバカらしいか?」
 海棠の含み笑いを含んだ声に、ヒデトは歌うと返事をした。
 パンフレットをパラパラとめくっていると、最後のページに協賛企業の広告が載っている。この手の演奏会は企業に協賛金を出してもらわなくては、立ち行けなくなる。企業も文化活動に理解のあるところを示し、イメージアップを狙っているのだろう。
 そのトップに海棠製薬の名前があった。
「……これ?」
 ヒデトはその名前を指差して尋ねる。
「俺の会社だ。といっても、社長は父親だがな」
 そんなコネがあったのかと納得する。海棠の頼みで父親が仕方なくプログラムのラストに、お情けで潜り込ませてもらえたのだ。
 聞けば海棠も役員の一人として名前を連ねているらしい。以前に海棠が仕事があると言っていたのは、そちらの仕事なのだろう。
「俺がそのコネクションを使えるのは一度だけだ。お前がこれをものにできなければ、あとはないと思えよ」
 ヒデトはごくりと息を飲んだ。どんな形にしろ、歌えるのだ。
 今回もまた海棠が道を造ってくれたのだが、そこから先はヒデトが造らなくてはならない。
 シュウへと続く道を。
「やる」
 ヒデトは決意を込めて、宣言した。

 発表会は都内の音楽ホールを借りて行われた。
 千人を収容できるホールは、ヒデトの予想を裏切り満席になっていた。
 素人の音楽会と考えていたヒデトは自分の甘さを反省する。
 ここに来る前に、最初に髪を切ってもらったヘアーサロンに行って、有馬に髪を整えてもらった。あれから少し伸びた髪は、少し切ると完全に脱色した部分が無くなった。
 セットとメイクも有馬がやってくれた。
「かっこいいヒデトにしないと、海棠君に恨まれるから」
 有馬は優しい笑顔で、ヒデトを作り上げてくれた。
 事務所で海棠が用意してくれたステージ衣装に着替えた。
 黒のツィードに、鈍色の刺繍がジャケットとスラックスの裾を飾っている。シックな中にも贅沢さを醸し出している。
 今までのヒデトらしくない衣装だったが、生まれ変わり、真面目に生きようとするヒデトにはぴったりな衣装だと思えた。
 ヒデトの復帰初舞台とも言える発表会には滝原も顔を出した。
「先生、もしかして暇なのか?」
 歌のレッスンに通っていても、他の生徒に行き合ったこともなく、ヒデトのレコーディングや何やかやと、顔を見せてくれる初老の教師は、もう引退していて暇なのかと思ってしまったのだ。
 打ち解けてくると、滝原はヒデトにも憎まれ口を叩くし、ヒデトもまた本当の祖父のように慕い始めていた。
「お前は本当に礼儀がなってないな。海棠君に言って、作法教室にも通わせることにしようか」
 最初は怖いだけの教師だったが、今ではヒデトを可愛がってくれていて、そんな冗談も言うようになっていた。
 しかし暇な老人だとばかり思っていた滝原の元に、次々と今日の発表会の演奏者たちが挨拶にやってくる。
「先生に来て頂けるのでしたら、もっと練習してくるのでしたわ」
「以前よりも下手だといわれたらどうしましょう」
「先生に叱られないように頑張ります」
 豪華な衣装と、甘い香水の香り。
 滝原は挨拶に訪れる彼女たちにヒデトを紹介する。
「今専門で教えている歌手だ。まだ未熟者だが、今日の最後で歌わせてもらえることになった。よしなにな」
 滝原がそういうと、彼女たちは一様にヒデトを羨望の眼差しで見た。
 滝原は彼女たちもまたヒデトに紹介する。その紹介の中の簡単な経歴を聞いただけでも、この発表会がただの素人の集まりではないことがわかった。
 楽器の方は確かに彼女たちの趣味でしかなかったが、いずれも音楽に携わる仕事をしていた。いわばセミプロの集まりだったのだ。
 海棠がこの仕事をものにできなければあとがないと言ったわけがわかったような気がした。
「甘い歌い方をするなよ。この滝原の秘蔵っ子だと今言ってしまったからな」
 滝原なりの励ましに、ヒデトは改めて緊張を感じ始める。
 彼女たちはヒデトに対して、滝原に教えてもらっていることに関しては羨ましそうにしたが、それ以上の興味は示さなかった。
 ヒデトの名前は知っているようだったが、この発表会を汚さないようにしてくれというような、きつい視線を向けられる。
 どちらかというと、針の筵に座らされているような気持ちになってしまう。
 緊張しているうちに、発表会は始まってしまった。
 演目はクラシックがほとんどで、ヒデトもどこかで聴いたことのある曲から、まったく知らない曲まであった。
 どの演奏者も上手で、このホールを埋められるわけがわかる。
 そんな客たちがプログラムにない最終のヒデトの歌を残って聴いてくれるものがいるだろうか。
 ヒデトはそんな不安に駆られた。
 クラシックのコンサートを聴きに来た人たちなのだ。ポップスなど聴いてくれるだろうか。
「もっと大勢の前で歌ったこともあるんだろう? 何を緊張している」
 ドームを埋めたこともある。人の顔も見えないコンサート会場。ヒデトの名前だけをコールするファンたち。
 それから比べたら、ここはとても小さな会場である。
「俺、歌えるだろうか……」
 膝が震えるのを感じた。
 海棠は最初にヒデトをここに連れてきて以来、どこへ行ってしまったのか顔を見せない。
 海棠を探している自分に気がついて、ヒデトは情けなくて笑った。
 何故、あの男を。何一つ優しい言葉をかけてくれるわけでもないのに。むしろ、余計にヒデトを緊張させるだけかもしれない。
 それでも、ヒデトは海棠を探した。
 酷い言葉でもいい、あの舞台の中央に進めるように、背中を押して欲しかった。
「スタンバイをお願いします」
 係りの人が誘導してくれる。
 舞台の下手に立ち、ヒデトはマイクを渡された。
 そのずっしりした重さ。
 手が震える。
 残ってくれる人はいるだろうかと心配していたのに、今はみんな帰ってくれと願っていた。
 恐怖に似た不安を抱えて顔を上げると、舞台の上手に海棠が立っていた。
 ヒデトを見ている。真剣な表情で。
 海棠はヒデトに自分の足元を指差した。
 歌い終えて、ここまで来いというのだろう。
 自分を勇気づけるようにマイクを握り直した。
 アナウンスがヒデトを紹介する。
 ヒデトは震える足を必死で中央へと運んだ。
 真ん中の印に立ち、頭を下げる。
 パラパラとおざなりで鳴る拍手。
 ヒデトはごくりと唾を飲み込んだ。
 口の中はカラカラだった。飲み込める唾もないくらいに。
 客席は水を打ったように静かだった。
 その視線がすべてヒデトに集中している。
『復帰した貴方は、世間の好奇の目に曝される。歌だって、どれだけ歌えなくなったか、最初の音からじっくり聞かれ、歌い終わるまで意地悪な聞き方をされる。どれだけ下手になったんだろうかって』
 シュウの言った現実が目の前にあった。
 客席の目がすべて白い刃のように見えた。
 逃げ出したい。
 顔は強張り、身体はがたがたと小刻みに震えた。何も聴こえない。
 逃げたい。
 今にも身体は逃げ出そうとしていた。
 演奏は既に始まっていた。それでもヒデトは歌い出せなかった。
 用意していたカラオケのテープが止まる。
 舞台の上には無様な沈黙が残った。
     


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