ひとつのひかり  −25−



 CDのジャケットの写真も海棠の知り合いの写真家が撮ってくれた。
 ロケをするだけの予算もないので、スタジオでの撮影だったが、窓から差し込む明るい光の中にヒデトが立ち、ギターを床に置いてネックを持つ彼の表情は柔らかく微笑んでいる。
 立ち直ったことをいかにアピールするか、その明るさに委ねたようなジャケットになっていた。
「ここにタイトルを入れますから」
 撮影に立ち会っていたデザイナーが、ポラロイドで写した見本で説明をしてくれた。
 一つ一つが目の前で出来上がっていく。
 それを見ていると、ようやく自分のCDができるのだという実感がわいた。
 その歌を歌う場所はまだ決まっていない。
 これからラジオ局やらCDショップ、曲をかけてもらえる場所に持って回らなくてはならない。それが実を結ぶかどうかはわからないが、やるしかないのだ。
 ジャケットの印刷とCDの焼付け、それらが出来上がって、一枚がヒデトの元に届けられた。
 キャラメル包装されたフィルムを剥がす。喜びと緊張に手が震えた。
 銀色の円盤が出てくる。
 CDプレーヤーに乗せてプレイボタンを押す。
 自分の歌声が聞こえてくる。感動に胸が震えた。
 ヒデトにとって、2年ぶりのCDだ。

 その日から挨拶周りが始まった。午前中は今までと同じレッスンを受け、午後から挨拶回りに出向く。今までと同じスケジュールだったが、今までとはやる気が違った。
 これが認められれば、歌えるのだ。
 一週間もあれば、どこかで歌わせてもらえる。ヒデトは簡単に考えていた。まだヒデトというネームバリューは通じると思っていたのだ。
 けれど、どこでもいい顔はされなかった。CDさえも受け取ってもらえないところもあった。
 それでもひたすらに頭を下げて回った。
 ヒデトにとってショックだったのは、以前はヒデトにちやほやしていたディレクターたちが、そろってヒデトを見ないように顔をそむけたことだった。
 その態度の違いにヒデトは悔しさよりも悲しさを感じた。
 いったい自分は人の何をみてきたのだろうと思う。うわべだけのお世辞を信じ、大切なものを見なかったために、今失ったものの大きさを知る。
 時には歌手たちとすれ違うこともあった。
 煌びやかな世界を泳ぐ彼たちを眩しい思いで見つめる。けれどヒデトは気の毒そうな視線を向けられるのだった。あからさまに無視をする人はまだましなほうで、時には嘲笑われたり、遠回しに毒々しい嫌味を言われることもあった。
 自分が過去にしてきたことを、今自分がされているのだと、ヒデトは必死で堪えた。
 黙々とテレビ局の廊下を歩く。
「お前さ、顔を上げて歩けよ。俺まで敗北者の気分になるじゃないか」
 前を歩く海棠がうんざり気味に言う。
「ジロジロ見られるから……」
「嫌がるから見られるんだよ。堂々としてろ。後ろめたいことなんて何もないだろう。それに顔を上げて歩かないような奴、誰も使いたがらないだろう」
 そうは言われても、顔をあげるには勇気が必要だった。
「顔を上げて、堂々と歩け。挨拶は向こうからされる前に自分から大きな声で言え。いいな」
 仕方なくヒデトは頷いた。もとより海棠には逆らえない。
 それでも最初の仕事はなかなか来なかった。
 なんとかなると思っていたヒデトも、ジリジリと焦り始める。焦ったからといって、良い結果が転がり込むわけではないのだが、その焦りは歌にも現われた。
「なんていう歌い方をするんだ! そんな歌い方をするなら出て行け!」
 滝原に怒鳴られ、ヒデトは顔を強張らせた。
「すみません」
 必死で謝るヒデトに、滝原は苦々しい顔をする。
「お前の気持ちはわかるが、そんなことをしていたら、ますます悪くなるばかりだろう」
 悪循環に陥っているのは自分でもわかっていたが、ヒデト自身の力だけではどうにもできない現状に、打ちのめされる寸前なのだった。
 どうにもこうにも落ち込んでいたヒデトは、帰りの駅に向かう道で肩をぽんと叩かれた。
 はっとして振り返ると、ニコニコ顔の男がいた。
「あ……、新谷?」
 以前バックをやっていてくれたバンドのベースを担当していた男だった。
「久しぶり、ヒデトさん。噂、本当だったんだ。この辺の事務所にいるって。でも、俺、見間違えるとこだったよ。ヒデトさん、そんなに髪切ってるんだもん、色も真っ黒だし」
 新谷は親しげに声をかけてくる。
 ヒデトは戸惑いながらも、こんなに親しく声をかけてきてくれた男に、縋りたいような気持ちになった。
「ヒデトさん、今の事務所、酷いんじゃないですか? ヒデトさんを電車で通わせるなんて」
「いや……、それは……」
「ちょっと、飲みにいきましょうよ。俺ね、ヒデトさんに会いたくて来たんですよー」
 腕を捕まれた。心は揺れる。こんな風に軽い会話をする友人が、今のヒデトにはいないのだ。
「でも、俺、金持ってないから」
「何言ってるんですか。俺が奢りますって。ヒデトさんにはいつも美味しい酒、飲ませてもらってたんですから」
「酒は……やめたんだ」
 ヒデトは言い難そうに告げた。新谷は楽しそうに笑い転げて、それを信じていないようだった。
「今日くらいいいじゃないですか。俺たちの再会を祝して、ぱーっといきましょうよ」
 ヒデトは両手で背中を押されながら歩き始めた。新谷は今もヒデトが少し陰影が加わって凄みが増した分、前よりかっこよくなったと言った。
 軽いノリと、上滑りな会話。以前なら喜んで聞いていた歯の浮くような台詞が、今のヒデトにはお世辞だとわかってしまう。
「俺、本当にヒデトさんが気の毒で。電車なんかで通勤させるなんて、あのヒデトを何だと思ってるんだと腹立っちゃいましたよ。ねぇ、俺の今いる事務所、いい所なんですよ。社長も優しいし、仕事も美味しいの持ってきてくれるんですよ。ヒデトさん、移籍しませんか? なんなら、俺、社長に紹介しますよ」
 移動する間も、新谷は途切れることなく喋った。
「ねぇ、移籍しましょうよ。うちの社長なら、ヒデトさんにこんな惨めな思い、させませんよ」
 スナックのドアの前で、新谷はヒデトを誘った。
「なんなら、これからここに、うちの社長を呼びますよ。一緒に飲んで、決めちゃいましょうよ」
 写真週刊誌の記事。挨拶回りで向けられた冷たい視線。それらがヒデトの決意を鈍らせる。
 華やかなスナックの看板は、売れていた頃のヒデトを思い出させた。
 あの頃のように。
 それはヒデトにとって、魅力的な誘いだった。



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