ひとつのひかり  −24−



 電車の吊り広告がショックで、ヒデトはしばらく駅のホームで佇んでいた。
 売店に行けば、あの週刊誌を買うこともできただろう。けれど、はっきり見るのが怖かった。
 電車を数本やり過ごして、ようやく乗り込んだ車両には、例の広告はない。けれど、乗客の目が自分を見ているようで、それを避けるようにひたすら窓の外を睨みつけていた。
 英会話のレッスンに少し遅れてしまう。講師のアンディはヒデトの顔色が悪いと心配してくれたが、ヒデトはなんでもないと、強張った顔で答えた。
 ようよう2時間の授業を終えて、事務所へと移動する。
 事務所の鍵を開けると電話が鳴り始めた。まるでヒデトの到着を見計らったような電話に、ヒデトは手を伸ばそうとする。
「出なくていい」
 ヒデトの手を止めたのは海棠だった。
「でも……」
「出なくていい」
 鳴り響くままに任せて、海棠はヒデトに一冊の雑誌を差し出した。
「これっ」
 それは電車で見たあの週刊誌だった。
 ヒデトは急いで中を見た。
 いつ撮ったのだろう、電車に乗り込む間際の自分がいた。ギターケースを肩にかけているところを見ると、ごく最近のものだろう。
 記事の内容も酷いものだった。
 髪を切ったのは禊、歌のレッスンに通い、復帰のチャンスを図っている。ヒデトが局の挨拶回りをしていることにも触れ、関係者のコメントが載せられている。事実上ヒデトは芸能界から締め出されているのも同然で、復帰の見通しは無いに等しいとまで書かれている。
 薬物使用パーティーの件にも触れ、ヒデトが警察の事情聴取を受けたこと、どこかで療養していたこともまるでわかっていたように書いてあった。
 週刊誌を持つ手が震えるのを感じた。
「酷い……」
「全部本当のことだろう」
 せめて所属歌手を慰めてくれるのかと思いきや、海棠は最も酷い台詞を浴びせてくれる。
「そんな……」
「だいたい、あの事件の時の方が酷いことを書かれていただろう。忘れたのか? 便利な頭だな」
「あれはっ! ……本当のことだし。昔のことだから」
 語尾が消えていく。
「みんながお前のことを忘れているとは言え、昔のことなんかじゃない。世間は忘れてくれても、お前は忘れちゃいけないだろうが」
 胸にグサリと突き刺さる言葉だった。
「だけど、今のこんな姿を撮らなくてもっ!」
 記事にあるとおり、惨めすぎる。いかにも笑ってくれというばかりの写真だ。
「そろそろレコーディングという時期で記事を出してもらえたんだ。いい宣伝になったと思え」
 海棠に容赦は無かった。
 一番きついのはこの男かもしれないと思った。
 途切れていた電話がまた鳴り始めた。ヒデトはびくりとしてその電話を見つめるが、海棠は何も気にならない様子で、完全にそれを無視する。
「電話に出なくていいのかよ」
「どうせ取材だろう。くだらない下積み生活を赤裸々に告白したいか?」
 にやりと笑う海棠に、ヒデトは悔しそうに首を振る。
「いくぞ」
 海棠はさっさと車の鍵を手にとる。
「どこへ……」
 今日はギターのレッスン日ではない。挨拶回りなのだろうか、こんな記事が出たのに。
「レコーディングだ」
「えっ……」
 ふっと笑って海棠はドアの向こうに消える。
 ヒデトは慌ててギターを掴んで、海棠の後を追った。
「鍵を閉めておけよ」
 飛び出したヒデトに海棠がエレベーターの前から声をかける。
 ジーンズのポケットから鍵を取り出して施錠し、上がってきたエレベーターに飛び込んだ。また電話が鳴っていたが、もう気にならなかった。

 はじめて訪れる録音スタジオだった。
 責任者の松本だと名乗って現われたのは、豊かな髭で顔の下半分を覆った、身体の大きな男だった。
「海棠くんの頼みだから引き受けたけど、歌手の録音ははじめてなんだよな。マニュアルは持ってるが、正直、マイクとか、それ用にはそろえてないんだ」
 ボリボリと頭を掻く。髭と同じように、頭髪も豊かで、それを梳かしつけたりはしていないようで、そのまま鳥が巣を作れそうな感じだ。
 またしても、海棠に頼まれたから仕方なくという言葉が出てくる。そして、同じ音楽に携わるものでも、ポップスなどは歌とは認めていない口ぶりが気になる。
「いつものマイクでいいさ。どこに出しても歌えるようにはしてある」
「失礼だけど、彼の歌、聴かせてもらったことがあるんだ。無理だと思うがなぁ」
 本当に失礼なことを失礼とは思っていないように言われて、ヒデトはむっとしながらも、そんなことはないとは言い返せなかった。
「じゃあ、こっちでスタンバイしててください」
 松本に通されたのは、広いスタジオだった。がらんとしたそのスタジオはそのままミニコンサートでも開けられそうだった。こんな広い場所で何を録音するというのか、見当もつかない。
 真ん中にぽつんと、マイクが置かれていた。
 広い室内にそれはあまりにも寂しげだった。
『歌だけ録ります。ヘッドホンつけて下さい。最初は録音せずに、マイクや機械の調整しますので、喉に気をつけて歌ってください』
 天井のスピーカーから聴こえてきた指示に、ヒデトはヘッドホンをつけた。耳からは滝原が弾いてくれたピアノの音が聴こえている。
 ヒデトの作った曲を滝原が編曲してくれた。レコーディング用にピアノまで弾いてくれた。ヒデトには過ぎた幸運だったが、それがとても嬉しかった。
 CDにするためには、バックバンドが必要だが、海棠が人を探してくれていた。
 ヒデトは昔に組んでいたバンドを頼ろうとしたが、それは海棠にきつく止められた。海棠はヒデトの昔の友人関係すべてを警戒している。
 ヒデトも危険な遊びの友人関係は、向こうから切られてもいるだろうが、ヒデトからも誘うつもりはなかった。それでも海棠は、その一角だけを切るのは難しいと考えているようだった。
 ピアノに合わせてヒデトは歌った。
 既にヒデトの歌い方を心得ている滝原なので、とても歌いやすかった。滝原が合わせてくれているのだろう。
 一曲を歌い終えると、ミキシングルームの方が静かになった。
 ガラス越しに、松本が難しい顔をしているのがわかった。
 そんなに酷い歌い方だっだろうかと不安になる。
「あのー、駄目ですか?」
 心配そうに声をかけたヒデトに、海棠が笑うのが見えた。むっとしていると、松本がスタジオの方にやってくる。手には一本のマイクを持っていた。
「ごめん。君のこと、見くびってたわ。こっちのマイクに換えて。いや、こっちのマイクの方がいいんだ。絶対、いい音で拾ってやるから。任せてくれよ」
 ポンポンとヒデトの肩を叩いて、ミキシングルームへ戻る。
 驚きに呆然と見送るヒデトに、海棠はまた笑ったのだった。


 何度かの録り直しを経て、ヒデトの復帰第一曲目のCDは完成した。
『プライマリー』
 文字通り、生まれ変わったヒデトの第一歩なのだった。
   


……次のページ……