ひとつのひかり  −23−



 曲を作る。
 帰り間際、海棠からいわれた言葉に、ヒデトは飛び上がらんばかりに喜んだ。
 自分の歌を歌える。新しく生まれ変わった自分の歌を。
 帰る電車の中でも、家についてからも、ヒデトはずっと頬が緩みっぱなしだった。
「英人、何かいいことでもあったの?」
「曲を作るんだ。俺の歌。俺の歌だよ」
 母親はそれがどうしたという顔をする。ヒデトの歌なら、今までにも何曲でもあったではないかと思うのだろう。
「今までの歌は、俺が活かしてやれなかった。だから、これからはいい歌を作って、どれも大切に歌うんだ」
 ヒデトが説明すると、母親は頑張ってと応援してくれた。まだ十分理解してくれているとは思えなかったが、温かく見守ってもらえることが嬉しかった。
 自分の部屋でギターを持つ。チューニングをすると、自分でも不思議だったのだか、ぴたりと音をそろえることができた。
 シュウが何度も何度も繰り返し、音に対して敏感になれと言っていたことが、ここにきてヒデトの身についていることがわかった。
 いつでもそうだった。
 滝原のレッスンでも、驚くほど素直に滝原のアドバイスを聞くことができたし、滝原の指示通りに声を出すことができた。根気のいいシュウと短気な滝原は正反対に見えて、シュウのレッスンは滝原の指導と似ているのだ。
 シュウのレッスンを受けていなければ、滝原の言っていることの半分も理解できていなかったと思うことがしばしばあった。
 そうやって音や音楽に対して真剣に向き合うことで、それまでの自分がいかにいい加減に歌ってきたのかが浮き彫りにされる。
 そうすると、今までの歌に申し訳ないと思うようになった。
 できれば今までのCDも歌い直してリリースしたいところだが、もちろんそんな余裕はヒデトにはない。
 目の前に与えられた仕事を、一つ一つ丁寧に、真剣にこなすことしか許されないのだ。いつか誰にでも自分の歌を歌って欲しいと思うが、とりあえずは目の前に立ちはだかる海棠に、ヒデトを認めてもらうことしかないのだ。
 机にペンとレポート用紙を広げて、歌詞を書く。
 心に溢れる言葉は、自分でも恥ずかしいほど、シュウへの想いに満ちていた。
 ずっと心の中にたまっていた言葉があふれ出した。
 言葉が浮かぶばかりで、詩にはならない。けれど、自分の気持ちを率直に言葉にしていく。
 一度に仕上げるよりはと、まとまりのないまま、ヒデトはいくつかの曲のブロックを作った。
 つい夢中になっていると、時計は夜中の12時を指していた。明日のレッスンに差し支えたのでは元も子もないと、ヒデトは横になった。
 軽い興奮状態で眠れるのかと思ったが、毎日の規則正しい生活と、日々の疲れは、すぐにヒデトを夢の世界へと導いた。
 夢の中で、ヒデトはあの家で、ギターを弾いて歌っていた。隣でシュウがクッションを抱えて聴いていている。
 歌を歌ってくれよとせがむが、シュウは笑って首を横に振る。
『貴方の歌を聴きたいんだ』
 夢の中でシュウは穏やかに微笑んでいた。

 夢の中のシュウはピアノを弾いてくれない。
 目覚めるとヒデトはまずそのことを考える。どうして弾いてくれないのかと、シュウがいるわけでもないのに、問い詰めたくなる。
 シュウに謝ることもできなかった。お礼も言えなかった。気持ちを伝えることもできなかった。
 できなかったことばかり、後悔ばかりだ。
 できなかった代わりに、シュウに歌を届けたいと思った。
 ヒデトの歌以外、流行の歌を知らなかったシュウ。そんなシュウの耳にヒデトの歌を聞かせるには、より多くの人に、日本中の人がヒデトの歌を口ずさむくらいでないと駄目だ。
 それがどんな歌なのか、ヒデトにはまだわからない。
 けれど、シュウへ届けたい気持ちを歌にする。逢いたいと願う気持ちを詩にこめる。
 その日からヒデトは、ギターを持って『出勤』することにした。事務所で海棠を待つ時間も無駄にしたくなかったのだ。
 海棠はヒデトのギターを目にしても、何もコメントしなかった。今月の末までだぞと、それだけは言われた。
 数日後、滝原のところへギターを持ってレッスンに行くと、さすがに音楽家らしく、ギターを見せろと言った。
 ギターをケースから取り出して渡すと、滝原は興味深そうにギターを眺めた。
「いい物を持ってるな」
 まだヒデトが売れていた頃、金に物を言わせて手に入れたギターだった。手に入れた経緯は褒められるものではなかったが、このギターの音色に惚れたのも事実だった。だからどうしても手に入れたいと必死になったのだ。
 落ちぶれて、金もそこをついていって、それでもこのギターだけは手放さなかったのだ。
 そしてヒデトがあの場所にいたときも、傍にいてくれた。シュウが「この子」と言ったギターだ。
 だから尚更大切になった。
「弾いてみろ」
 言われるままに、ヒデトはチューニングをして、短い曲を弾いた。
「腕はあまりよくないな。上達したいなら、誰か紹介するぞ」
「海棠さんが許可してくれるなら、やりたいけど……。許可してもらえるでしょうか」
 ヒデトが不安そうに聞き返すと、滝原はおかしそうに笑った。自分で相談してみろと言って、ヒデトにメモ用紙を渡す。
「話は通しておいてやるから」
 ヒデトはメモ用紙に書かれた名前を見て、驚きに声を上げた。
「フレディ星野って、ええっ?!」
「星野を知っているのか?」
「知ってるも何も、ギターを持つものなら、知らないはずありませんよ。ええっ、先生、知り合いなんですか?」
「ううむ、私の方が有名だと思うんだがなぁ。お前は本当に変な奴だな」
 反対に滝原に呆れられてしまった。
「ところで、今の曲は何という曲だ?」
「今作っている俺の歌です」
 もう一度、できているところまで弾いてみろと言われ、ヒデトはギターを弾いた。曲が終わると繰り返せといわれ、何度も同じ場所を弾く。
 途中から滝原のピアノが加わった。
「どうしてこんなに小さくまとめるんだ」
「え?」
「お前の音域はもっと広い、出しやすい音ばかりを使うんじゃなくて、もっと音を広げてみろ。易く作った歌は安く仕上がる。そんな歌に魅力はない」
 その自覚のなかったヒデトは、驚いて滝原とギターとを何度も見比べた。
「わかりました。やり直してみます」
 ヒデトは感謝して頭を下げた。

 滝原に勧められたギターを習うという話を海棠にすると、あっさりと認められた。
 挨拶回りも一通りは回って、今は挨拶回りも少なくなったという感じだったので、海棠は星野に連絡を取ってくれて、週に二日、午後からのレッスンを受けることになった。
 ヒデトはますます忙しくなったが、毎日は充実していると感じられた。
 星野と対面した時はひどく緊張して、ギターを持つ手も震えるほどだったが、星野はとても穏やかな人柄だった。
 ギターを弾かせれば、激しいビートで、激流のようだと例えられる人とは思えなかった。
 だが、レッスンは滝原以上に厳しかった。
 時には指の皮が剥けて、弦に血が滲むこともあった。
 それでもレッスンが終わると、本当に同一人物かと思うほど親切な人に変わるから、そのギャップが面白かった。
 そうしているうちに月末が来て、ヒデトは滝原のレッスン場で歌をテストされることになった。
 酷く緊張しながらも、壁にもたれて携帯を触っている海棠に、ほんの少しイライラした。マネージャーだというのなら、心配するふりくらいしろと思った。
 携帯で話すのなら歌うまいと思ったが、海棠は話すつもりはないらしい。携帯は開いたままなので、どこかからの連絡を待っているのかもしれなかった。
「準備はいいぞ」
 そういうのはこっちが言うんじゃないのかと思ったが、反抗は許されないので、気持ちを切り替えて、ギターを鳴らした。
 息を整えて、ヒデトは想いを歌にした。
 愛する人へ想いを伝える歌。逢いたいと願う歌。愛する人を抱きしめたいと囁く歌だった。
 離れ離れになってからの自分をわかってほしい。後悔と懺悔。そして愛してると言いたい。
 シュウへの想いがつまっている歌だった。
 歌い終わると、滝原はうんと頷いてくれた。
 海棠も携帯をパタンと閉じる。
 ヒデトはギターを持ったまま、海棠を見据えた。
 緊張が二人の間に張り詰める。
 海棠の視線をまともに受けると、肌がピリピリとひりつくような痛みを覚える。
 そのきつい視線が一瞬だけ緩んだ。唇の端にわずかに笑みらしきものが刻まれた。
「今はまだお前を使ってくれるレコーディング会社はない。自費製作扱いになるが、それでもいいか?」
 インディーズと同じということになるのだろう。それでも、CDを出せることに変わりはなかった。
「お願いします」
 ヒデトは拳を握り締めて、そして深く頭を下げた。
 少しは進んだ。いや、ようやく真っ暗な場所の向こうに出口の光りが見えてきた。
 このままうまくいくように、いきますように。
 ヒデトの願いはそれだけだったのに。


『ヒデト 復帰の道はあるのか 電車で通う惨めな姿をキャッチ』


 ヒデトは自分が乗っている電車の広告でその記事を知った。
 残酷な見出しを、自分の目で見てしまう。
 乗客のみんながこちらを見ているようで、たまらずに電車を降りた。
 ギターがケースの中でカタカタと鳴っている音で、自分が震えているのを知った。

 


……次のページ……