ひとつのひかり  −22−



 声楽のレッスンが週に2回、他にダンスとスポーツクラブ、なぜか英会話が加わって、ヒデトの一週間はほぼ予定でいっぱいになっていた。
 それらを午前中にこなし、午後からは事務所に行く。
 家から徒歩で駅へ行き、電車に乗って移動する。
 海棠はヒデトにサングラスや帽子を禁止した。
 電車のドア横のバーにもたれる。ひたすらに窓の外を見て時間を過ごした。
 ジロジロ見られるのではと思ったが、既にヒデトは過去の人物なのか、世間が他人には関心が薄いのか、あまり見つられることはなかった。髪を短くして、黒に戻したことが、ヒデトの印象を変えてしまっているのかもしれない。
 だが中にはヒデトだと気づく乗客もいた。チラチラと何度もヒデトを盗み見てくる。
 その視線は決して好意的なものではなかった。
 若い女性なら、以前ならファンでなくとも、ヒデトを見つけたら騒いだものだ。海棠が顔を隠す必要などないと言った訳がよくわかる冷ややかな視線だった。
 もはやヒデトは過去の人間なのだ。今はおちぶれた情けない人間だった。
 視線を避けるように、隣の車両へ移動する。視線の主は追ってこなかった。
 歌のレッスンは厳しかった。根気強かったシュウとは正反対のレッスンだった。
 年に似合わず、滝原は罵声を飛ばし、容赦なく叱ってくる。時には理不尽だと思う要求も出たが、ヒデトは挫けなかった。
 こんなところで滝原に見捨てられるのも困るし、ヒデトには目指すものが遠くにあった。
 ダンスとスポーツクラブも海棠が既に依頼していたからか、ヒデトに合ったプログラムが組まれていた。
 どちらもヒデト専用のインストラクターがつき、ダンスは基礎のステップから、スポーツクラブは体力づくりから始められた。
 ダンスのインストラクターは柳というヒデトと同年代の男で、ヒデトのファンだったと言った。海棠が話を持ってきた時は内心喜んだという。
 スポーツクラブのインストラクターは谷脇といい、ヒデトよりは少し年上のようだった。いかにもスポーツマンらしいがっちりした体型で、なんでも相談してくれと白い歯を見せて笑った。
 英会話はアンディ・ジャクソンという中年のアメリカ人が講師で、発音重視で会話中心に進めていくと説明された。
 何故英会話などと思ったが、反論は許されていないので、真面目に通うことにした。
 事務所に行くと、昼食が事務所のドアの前に設置されたボックスに届いている。近くの弁当屋に頼んでいるらしく、日替わりで色々なメニューの弁当が届いている。
 それを食べ終わる頃に海棠がやって来る。
 別に仕事があると言っていた海棠の本当の仕事は教えてもらえなかった。
 エンブロイダリーの社長だと言うが、海棠が午前中の仕事だけで100%を出資しているとは思えなかった。
 ヒデトの給料、様々なレッスン代、事務所の賃貸料、その他の経費や雑費。
 生半可ではないその費用がどこから出ているのかをヒデトは知りたかった。
 しかし海棠はそれを尋ねたヒデトに鼻で笑っただけだった。
「お前が売れなかったとしても、賠償は請求しないから安心しろ。ただし、俺の言いつけだけは守れ」
 結局、海棠のことは何一つわからないままである。
 海棠と知り合いらしい滝原に尋ねても、余計なことを考える時間などお前にあるのかと言われて、反論できないままに時間が過ぎている。
 弁当を食べ終えると、午後からは海棠に連れられて、色んなところへ出向いた。
 それらは出版社だったり、レコード会社だったり、テレビ局だったりした。一つの場所に一人に挨拶するというわけではなく、何箇所も部署を回った。
 製作会社や広告代理店も回ることがあった。
 当然なのだろうが、どこもヒデトを見て、いい顔はしなかった。
 ヒデトはそれらすべてに耐えなければならなかった。
 事前に固く、反抗的な態度を取るなと海棠に言い渡されていた。
 もちろんヒデトはそんなことは弁えていたつもりだったが、中にはでたらめな噂を鵜呑みにして、ヒデトを犯罪者扱いして、ひどい言葉で責める人もいた。
 時にはカッとなったり、身の潔白だけでもと口を開きかけると、素早く海棠に制止される。
 悔しさや、腹立たしさ、怒り、すべての感情を飲み込まなくてはならなかった。
 同時に海棠にも腹が立った。
 何もこんな場所に自分を連れてこなくてもいいではないかと思った。
 会う人はほとんどヒデトのことは冷たい目で見るが、海棠の名前を知ると、手のひらを返したように愛想を振りまく。
 いったい海棠にどんな力があるのかわからなかったが、それなら海棠だけで挨拶に来たほうがうまくいくような気がする。
 侮辱とも取れる言葉を浴びせられた時、ヒデトはつい海棠にそんな愚痴を言ってしまった。
「本当に馬鹿だなお前は。本人が頭を下げなくて、何が心を入れ替えるだ。お前が頭を下げて歩かなければ、誰もそんなことは信じないぞ」
 もっともなことを諭されて、ヒデトは黙り込むしかなかった。
 家とレッスン場、事務所から家へと、限られた場所を移動するヒデトは、使う事もないと、海棠から渡された五万円すべてを母親に生活費として渡した。
 差し出されたお金を見て、母親はとても驚いていた。
 ヒデトが帰ってきてから、何をしても両親は驚いてばかりいるとヒデトは思った。
 ヒデトがしているのは、世間の社会人ならやっていて当たり前のことなのだが、それを驚き、喜ばれると、今までの自分の酷さをあらためて指摘されているようで辛い。
 それでも、今、ここで変わらないと、自分は二度と立ち直れないと感じていた。
「でも全部を渡しちゃったら、英人が困るでしょう?」
 母親は心配してくれて、半分だけでもと返そうとしてくれたが、それは断った。
「持っていたら使ってしまう。金がなかったら、酒を飲もうとも思わなくなるだろ?」
 必要なものがあったら、その時に買ってきてもらうようにするからと、ヒデトは金銭を持たないことを選んだ。
 お金を持たないと心細いかと思ったが、数日で慣れた。持たなければ、それはそれですっきりする。
 何より、本当にこれで酒も飲めなくなったと思うと、それが嬉しかった。
 ヒデトが飲まないことで、父親も家で晩酌をしなくなったことに気がついた。
「父さんは飲めよ。俺に気を遣わなくていいよ」
 ヒデトは酒を勧めたが、父親は健康のためと言って、飲もうとしなかった。母親もそれを喜んでいる。
 そんな家族の団欒が面映かった。
 ここだけはヒデトの居場所であると、そう信じることができた。
 それでもヒデトは、あの小さな家が恋しかった。ピアノしかないレッスン場が懐かしい。
 両親の思いやりに対する裏切りかもしれないが、あの閉じ込められた生活に戻りたいと思うこともあった。
 いつになったらシュウに会えるのだろう。
 焦っては駄目だ、焦っても仕方ないと思うのに、どうしても気持ちは先を急ぐ。
 けれどヒデトの道は、まだ暗く、出口などないように思えた。
 挫けそうになると、シュウの言葉を思い出すようにした。
 必死でシュウの名前を呼ぶ。それが本名であるかもわからないのに。

 そんなある日、事務所から帰ろうとしたとき、海棠がヒデトに声をかけた。
「お前の曲を作ってくれる人なんていないからな、自分で曲を作れ。今月末までだ。できるか?」
 ヒデトはきょとんとして海棠を見つめた。
「聞こえなかったか? 曲を作れと言ったんだ」
「つくって……いいのか?」
「だから、お前が自分で作るんだ」
「……わかった」
 歌える。
 自分の歌を。
 ヒデトは嬉しさのあまり叫びそうになった。
「まだCDにできるとは限らないぞ」
 あまりにもヒデトが喜んだので、海棠は釘を刺す。
 それでも、ヒデトは嬉しかった。
 自分の曲を持てるというのが、ただ、ただ嬉しかったのだ。
 


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