ひとつのひかり  −21−



 ゆっくり覚醒していく朝。目覚めは部屋の明るさによってもたらされた。
 最初に認知したのは、音。
 車の走る音、クラクション、人の話し声。
 その音がどこから来ているのか、覚醒しはじめた頭で考える。
 まぶたを持ち上げて窓の方を見る。
 白いレースのカーテンを通して、部屋の中に朝の光が満ちていた。
 その光に、無粋な縦じまの格子の模様はない。
 そう、自分の部屋だとヒデトは思い出した。
 もうシュウはいない。ヒデトは戻ってきた。
 街の雑音が生活の音として、部屋の中、ヒデトの耳へ届く。その音がシュウのいないことを思い知らせているようで悔しい。
 酒や一切の不純物を取り除かれた身体は、ヒデトの気持ちとは別に、すっきりしていた。エネルギーに満ちている。
 パジャマを脱いで、シャツとジーンズに着替えた。どんなものを着ていいのかわからなかったが、これで駄目なら、迎えに来た海棠がクレームをつけるだろう。
 一階へ降りると、ちょうど父親が出勤するところだった。
「いってらっしゃい」
 ヒデトが声をかけると、父親も、見送りに出ていた母親もびっくりした顔をヒデトに向ける。
「何?」
 ただ挨拶をしただけなのに、そんなに驚かれるようなことだっただろうかと考える。けれど、思い返せば、自分が出かけるのも勝手気侭なら、家族の外出にもまったく興味はなかった。もちろんその時に声などかけなかった。
 自分の行状をいろんな場面で思い出しては、ヒデトは自分が情けなくなる。
「いってくる」
 少しぶっきらぼうに言って、父親が出て行った。
「英人は朝ごはんは?」
「食べる」
 母親は少し嬉しそうな顔をして、台所へと入っていった。

 迎えに来た海棠は、ヒデトの服に文句はつけなかった。
 母親が海棠に対してひどく恐縮してぺこぺことするので、ヒデトは早々に車に乗り込んだ。
 ヒデトは昨日と同じように後部座席に乗った。二人で並んで座るのが嫌な感じがしたのだ。海棠もヒデトが座る場所に何もいわない。
 海棠は目的地も告げず、車を走らせた。
 ヒデトもどうにでもなれと思っていたので、黙って座っていた。
 二人が沈黙したまま、車はある建物に到着する。ファッションビルのような建物だったが、看板は出ていない。
 地下の駐車場に車を停めて海棠が降りたので、ヒデトも続いた。
 エレベーターに乗ると海棠は2階のボタンを押した。
 ズンと持ち上がる感覚とともに、箱は上昇する。
 扉が開くと、廊下が左右に分かれていて、海棠は右の通路の奥へと進んでいく。突き当りのドアのインターホンを押す。
 すぐに中からドアは開かれた。初老の紳士が顔を出した。
「お世話をおかけします」
 海棠は丁寧に挨拶している。
 男がちらりとヒデトを見たので、ヒデトも慌てて頭を下げた。
 男の視線は悪意とまではいかないが、険のある目つきをしていた。
 男は無言で二人を部屋に通した。普通のマンションかと思っていたが、そこはスタジオになっていた。
 グランドピアノが置かれ、譜面立てや、いくつかの楽器が並べられている。壁には書棚があり、様々な楽譜が入っているようだった。数客の椅子がたたんで壁に立てかけられている。
「海棠君がどうしてもと頼むから引き受けたけれど、気が進まないんだよ。彼の歌はCDで聞かせてもらったが、正直なところ、海棠君がそこまで肩入れを気持ちがわからない。それに……」
 男はそこで言葉を途切れさせた。ヒデトは反論することができない。男の正体はわからないが、音楽に関係する仕事をしていることだけは確かだろう。
 その人から見て、ヒデトの歌は滅茶苦茶だったし、昨日見せられた週刊誌を読んでいたなら、もはやレッスンをすること自体、無駄だとしか思えない。
「滝原先生、その点は大丈夫だと思っております。本人も心を入れ替えておりますので、どうぞよろしくお願いします」
 それでもなお、疑わしそうに、滝原と呼ばれた男はヒデトを見て、気の進まない様子でピアノの前に座った。
 海棠はこの滝原に頭が上がらない様子で、ヒデトに滝原の傍へ行けと視線で促した。
 ヒデトはピアノの側、シュウといつも練習をしていた時のように、グランドピアノの横腹から、弾き手に向かって立った。
「よろしくお願いします」
 この滝原がこれからヒデトの歌のレッスンをしてくれるだろうと見越して、ヒデトは深く頭を下げた。
 心を入れ替えたというところを見せなくてはならないのだ。
 それはもちろん滝原にとっての試験であるが、海棠にとってもヒデトを試す場なのだと思えた。ここでしくじれば、復帰の道はない。それはつまり、シュウに永遠に会えなくなるのだ。
 その場所に立ったヒデトに、滝原は少し意外そうな顔をしたが、すぐにピアノに両手を置いた。
「どこから出せる」
 低音がレッスン場に響く。
「レからです」
 驚いたように目を開いて、滝原は一番出しやすい音からヒデトに声を出させ、次第に音を下げていった。
「もっと声を出して」
「胸を開いて」
 ヒデトのぎりぎりまで低音にいくと、今度は高音へと移行していった。
「出るよ、出る。怖がらずに出して」
 声が掠れそうになると、滝原はピアノを止めた。
「どこでレッスンを受けていた」
 3オクターブの音を出したヒデトに、滝原は挑むような目を向けた。
 その強い視線はヒデトの息を止めさせるほどの迫力があった。
「それは……」
 問われても答えられない。シュウという名前以外、自分は何一つ知らないのだ。
「いかがでしょうか」
 難しそうに考え込む滝原に、見守っていた海棠が声をかける。
「海棠君は彼をどうしたいのかな。ただの歌手としてやっていくのなら、もう十分だろう。それともオペラ歌手にでもするつもりか? それならもう少し叩き込んでやるが」
「ただの歌手です。しかし、どこにでもいる歌手では駄目です。どこの舞台にでも立てる歌手です」
 とんでもないことを海棠は真面目に話す。
「ならばこれの最初のページ、今度のレッスンまでに音符を読んでこい」
 椅子の脇に置かれていたテーブルから、滝原は薄い一冊の本をヒデトに差し出した。
「基礎はほとんどできているが、念のためにさらっておこう」
 パラパラとめくると、五線譜に音符が並んでいるだけの本だった。
「よろしくお願いします」
 一応レッスンを受けるだけは認めてもらえた。
 シュウとやった練習が功を奏したのだろう。そう思うと、喜びが湧き上がってくる。
 海棠は感謝の意を述べ、滝原の元を辞去する。
 そのまま二人は車に乗り込んだ。
「あの人さ、偉い人なわけ?」
「音楽界の重鎮だ。あの人だなんて間違ってもいうな。滝原先生と呼べ」
「そんな偉い先生が、あんたの頼みなら嫌々でも下賤の歌手の面倒はみてくれるわけだ?」
 海棠が頼むから引き受けたけれど気が進まないと言っていた。あの時の苦い気持ちが、ヒデトに反抗心を起こさせてしまう。
「嫌なら辞めてもいいんだぞ」
「やめない」
 やめるわけにはいかない。
 そのまま車内には沈黙が下りる。
 車はそれほど走ることもなく、ビルの前に到着した。
 複合ビルらしく、一階には店舗が入っているが、上階は事務所が多いらしく、幾つかの看板が並んでいた。
 近くのパーキングに車を止めて、海棠についてビルに入った。エレベーターで最上階の10階へと行く。
 真っ直ぐの廊下に、ドアが三つ並んでいた。
 一番手前のドアの鍵を海棠は開けた。
 ドアには白いプレートがかかっていて、黒い文字で『エンブロイダリー』と書かれている。
 ここが今からヒデトの事務所になるらしい。
 ドアを潜って事務所に入る。
 そこはがらんとしていた。
 カウンターがあって、その向こうに応接セットがある。パーティションで区切られた奥には簡易キッチン。
 応接セットのコーナーを曲がれば、奥に机がL字型に置かれている。
 だが、人の姿はなかった。
 普通、電話番なり、事務員なりがいるものだが、そんな姿も見えない。
「もしかして、俺とあんたの二人だけ?」
「あぁ、そうだ。人を雇う余裕なんてないからな。言っただろう、俺も社長兼マネージャーだ」
 つまり、社員はヒデトだけということだろう。
「これがお前の携帯と財布だ」
 海棠が机の上にヒデトの携帯と財布を置いた。
 財布は元々ヒデトが持っていたものだったが、携帯は見覚えがなかった。
「以前の携帯は解約した。そこにはここと俺の携帯の番号しかいれていない。財布の中身は貯金してある。これがお前の今月の給料だ」
 次々と勝手なことを言われるが、ヒデトはもう反論の気力を失っていた。
 机の上に五枚の一万円札が扇形に広げて置かれる。
「生活は実家、昼食はここで出す。しばらく遊びは慎んでもらう。それくらいで足りるだろう」
 ヒデトは溜め息をついて、その五万円を財布に入れた。
 仕事がないー現状で、給料が出るだけでも有難いと喜ばなくてはならないだろう。
 財布からはキャッシュカードもクレジットカードも消えていた。それももう諦めがついていた。
「明日からはこのスケジュールで動いてもらう。午前中はそれぞれのレッスンに行け。午後からはここに出勤して、俺と一緒に挨拶回りだ」
 一枚の紙と数枚の地図と、会員証。そしてプリペイドのJRと地下鉄の乗車券。家からここまでの定期券。
「……なっ、俺に電車で移動しろって言うのか?!」
「俺にも別の仕事がある。いつもいつもお前のお守りをしていられるわけじゃない」
「だったら、マネージャーくらい雇えよ」
「それから、俺に対する口ごたえは無しだ。でも、と、だって、は聞かない。俺が指示したことは、反論せずにやり遂げろ」
「だっ……」
 だけど、と言いかけて口を閉じる。
「お前のためにもう一人マネージャーを雇う余裕などない。電車に乗るのが今のお前に相応しい移動手段だ。悔しかったら稼げ。お前の力で、マネージャーを雇えるように」
 ヒデトは唇を噛み締めて、それらをポケットに入れた。



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