ひとつのひかり  −20−



 久しぶりに家に戻ったヒデトは、戸惑うばかりの両親に出迎えられた。
「た、ただいま」
 ばつが悪そうなヒデトに、母親がおかえりと、ぎこちなく迎える。髪を短くしたヒデトにずいぶん驚いたようだが、母親は以前から切れ切れと煩かったので、こちらのほうがいいと喜んでいるかもしれない。
 歌手になることを反対した両親は、せめて高校だけは卒業しろと口喧しく、最後は懇願するように言ったが、ヒデトは仕事が忙しいからと中退してしまった。
 そのまま家を出て一人暮らしを始めた。家に連絡を入れるのは、もっぱらマネージャーが勝手にやっていた。
 ヒデトは自分の生活が楽しく、家のことなどまったく頭になかった。
 売れなくなり始めたときに、一度家に戻るように母親が言ってきてくれたが、見栄があってできなかった。それに酒浸りの日々を、咎められるのも嫌だった。
 両親とヒデトの間にできた溝は、あまりにも大きく、深い。
 ここで再び暮らすことになったのは、たぶん海棠が両親を説得してくれたからだろうが、両親にとってもそれは迷惑な話だったに違いない。
「夕ご飯、用意してあるから、食べなさい」
「あ、うん。俺の部屋、前の部屋でいいのかな」
 母親はむっとしたように「当たり前でしょ」と言って、キッチンの方へ行ってしまった。父親は元から無口なほうで、母親について行ってしまう。
 ヒデトは玄関脇の階段を昇り、懐かしい自分の部屋に入った。
 2階にあるもう一つの部屋は、ヒデトの兄の部屋で、今は結婚して独立し、別の家庭を持っている。
 そういえば、兄の部屋も、結婚して出て行ったというのに、そのままに残してあるなと思い出す。
 ヒデトの部屋も、そのままだった。
 ただし、マンションから持ち出された荷物が、部屋の中に雑然と積まれ、部屋が狭くて仕方なかった。少しずつ片付ければいいと、とりあえず、座れる場所だけを作った。
「英人、ご飯よ」
 階下から母親の声が聞こえてくる。
 ヒデトはその声に一瞬、子供の頃に戻ったような気持ちになって、慌てて階段を駆け下りた。
 食卓にはハンバーグとサラダとポテトフライと豆腐のお味噌汁が乗っている。
 そのメニューに、ヒデトは鼻がつんとする。
 小さな頃から、ヒデトが大好きだったメニューなのだ。何かの行事や褒美、ヒデトを元気づける時にはいつもこれが食卓に並んだ。
「いただきます」
 どうして素直にありがとうと言えないのだろう。自分が情けなくなる。
 それでも母親は嫌な顔をせず、ヒデトにお茶を差し出してくれる。
 ずっとレンジで暖めるだけのお弁当ばかりを食べてきた。
 メニューは豊富で、栄養のバランスも考えられているものばかりだったが、味気ないのは事実だ。
 母親の手料理も、5年ぶりなのだと思うと、味が良くわからない。けれど夢中で掻きこんでいた。
「ごちそうさま」
 箸を置くと、涙がこぼれそうになって、慌てて鼻を啜った。
「俺、もう一度、一から頑張るよ。今度は、あんな馬鹿な事しない。……ごめん」
 テーブルに両手をついて謝った。ここに置いて貰うには、けじめが必要だと思ったのだ。
「嫌なら止めてもいいんだぞ。社長の海棠さんは若いが信用できる人だと思う。だがお前が嫌なら、無理して芸能界に戻らなくていい」
 父親の言葉に、ヒデトは驚いて顔を上げた。
 勝手なことばかりをしてきたヒデトなのに、それを許そうとしてくれている。
「でも、もう一度やりたいんだ。……約束したから」
 言ってから、やり直す理由が、また自分勝手なものだと再認識する。
「勝手にすればいい。けれど、約束した人がいるなら、その人だけは裏切るな。そんなことをしたら、お前は一人の人間として最低になってしまう」
 ずっと会社員として地道に勤め上げてきた父親の重い言葉に、ヒデトは唇を固く結んで頷いた。
 今までにも、同じようなことを言われたことがあったと思い出す。
 友達に嘘をつくな。約束を破るな。人に裏切られても、裏切ることはするな。
 いい加減に聞き流し、つまらない人生だと父親を蔑んでいた。
 そんな自分がたまらなく恥ずかしかった。


 自分のベッドに眠る。
 ここが自分のベッドなのに、とても寝苦しかった。
 昨日まで寝ていたベッドが恋しい。
「シュウ……」
 せめてこうなることを教えて欲しかった。
 どこかへ行ってしまうのなら、それだけでも言って欲しかった。
 また会えるのだろうか……。
 それだけが知りたい。
 また会えるのか、いつ会えるのか。
 それだけでも約束して欲しかった。
 そのためになら、頑張るのに。
 海棠に連れられるままに、ここまで押し流されてきてしまった。
 もう戻れない。
 これから自分がどうなるのかもわからない。
 海棠は「歌え」と言った。
 シュウとも「歌う」と約束した。
 ならば、もう一度、歌うしかない。歌うことがシュウと会うための第一歩だと思うから。
『どうしたら本当のお前を手に入れられる?』
『貴方が、もう一度、トップに立てたら……』
 昨日の夜の会話だ。
 まだ一日しか経っていない。
 なのに、ひどく遠い夜のように思えた。
 シュウがいないから。
 呼んでも来てくれないから。
 夢から現実に引き戻されたような、重い感覚。
 ……トップに立てたら。
 それがどんなに大変なことか、ヒデトにはわかる。
 時間が分単位で動き、移動中が睡眠時間。リハーサルも代役を立て、スタジオに入ったらマイクを渡されて歌うだけ。
 それでもトップに立てたのは、わずかに数度。片手で足りる。
 今のヒデトには……不可能としか思えなかった。
 トップどころか、もう一度歌手としてマイクを握れるのだろうかと、そちらの方が疑問だった。
 最後の方の仕事は、酒臭い息でスタジオに入り、口パクで歌い、傍若無人に振舞ってきた。
 そんな場所は、二度とヒデトを歌わせてはくれないだろう。そうすると、もう歌う場所など残っていない。
「シュウ、でも、俺はやるんだ」
 腕を上げて両目を覆う。
 もう一度、……もう一度シュウに会うまで。その日まで挫けない、弱音をはかない、酒は飲まない。
 ヒデトは自分に誓うのだった。



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