ひとつのひかり  −19−



 警察に行く前に、海棠は都内のビルの前で一人の男を拾った。
 海棠と同じ年くらい、20代後半の青年が、ヒデトの乗っている後部座席に乗り込んできた。
 青年は海棠が紹介するより先に、自分で名刺を差し出してきた。
「海棠にこき使われている弁護士の小林です。よろしく」
 名刺には小林弁護士事務所、弁護士小林一志と書かれている。
「こき使うとは聞き捨てならないな」
「本当のことだろうが。こいつとは大学が一緒でね、当時から人使いが荒いんだよ。君も気をつけてね。労働条件でご不満があればいつでも私に相談ください」
 小林は人懐っこい笑顔を向ける。笑うと目が糸のように細くなった。とても弁護士には見えない。
「何を言ってる。お前はエンブロイダリーの顧問弁護士だろう」
 海棠の指摘に、小林は朗らかに笑う。
 移動中の説明によれば、海棠の言うとおり、小林はエンブロイダリーの顧問弁護士として登録されており、ヒデトの移籍問題においても、前の事務所と交渉してくれたらしい。
 小林を乗せてすぐにも警察に行くかと思っていたら、海棠はあるビルの前に車を止めた。
 海棠が二人を連れて入ったのは、ヘアーサロンだった。
 確かにヒデトの髪は酷過ぎた。根元は黒く、先は痛んでボロボロだ。このまま警察に行けば、外見だけで犯罪者に分類されそうだ。
「いらっしゃいませ」
 にこやかな笑顔で出てきたのは、まだ若い男だった。
 広い店内には客の姿がない。
「悪いな、無理を言って」
「海棠さんの頼みは断れません」
 美容師はそういって笑い、迷うことなくヒデトをどうぞと案内した。
 シャンプー台に連れて行かれ、髪を洗われる。
 すっきり洗ってもらってから、椅子に移動する。
「どんな風にします? 色、合わせますか?」
 細長い繊細そうな、綺麗な指がヒデトの髪を一房、すくい上げる。
「切って下さい。地毛に戻したいんです」
 鏡の中の自分に告げる。
「いいの? かなり短くなるよ」
「いいです。切ってください」
 痛んだところを切ったからと言って、シュウのように綺麗な髪になるとは思えなかったが、それでも痛んだ髪を切るように、過去の自分を少しでも切り捨てたかった。
「じゃあ、切りますね」
 美容師は微笑んで銀色のハサミを握った。
 シャッシャッと軽快な音ともに、足元に髪が散らばっていく。
「今日は……休みじゃないですよね」
 喋らない美容師に、ヒデトは尋ねた。
 彼はここの店長で有馬と名乗った。この若さでこの店を取り仕切っているのに驚いた。年はヒデトとそう変わらないように見えたのだ。
「海棠くんから予約が入っちゃったからね。今の時間だけ貸切なんです」
「ええっ」
 都内一等地のこんな広いヘアーサロンを貸しきりにする海棠に、ヒデトはびっくりする。あげくに連れてこられたのが自分では、やりきれないだろうなと思った。
「海棠さんじゃなくてすみません」
 ヒデトが謝ると、彼はクスクス笑った。
「現われたのがヒデトでびっくりしましたけどね。でも、ちょっと納得かな?」
「え?」
「内緒。口止めされてるからね。はい、できました。どうですか?」
 口止めの意味を尋ねる間もなく、言われて真正面を見た。
 鏡の中の自分と見つめ合う。髪は短くなっていた。想像以上に。
 けれどこれで気持ちも軽くなった。
 ヒデトが待合室の方へ戻ると、小林はたいそう驚いたが、海棠はふんと頷いただけだった。
「あの、俺、金持ってないんだけど」
「必要ない」
 海棠はさっと出て行く。
「請求書は海棠さんに回しておきますから」
 有馬が両肩を優しく押してくれた。
「頑張ってください。応援してます」
「ありがとうございました」
 こんなに素直に礼を言えたのはいつ以来だろうかと思った。そう思うと、いかに自分が傲慢であったかを再確認するようで辛い。
 だが、その辛さを何度でも味わわないと、あの頃の自分は変えられないと思った。
 そうして再び車に乗せられた。
「いいですか。一応の説明は済ませてあります。あとは調書が事実であるかを確認するだけですから、警察官の言うことには逆らわないで、ほぼ認めて下さい。都合の悪いことがあれば、ヒデトさんが認める前に私が、発言しますから、その時は私の言うことの方を認めてください」
 そして海棠が説明したという話をあらかじめ聞かされた。
 小林と離されたらどうしようかと思ったが、警察の対応は丁重なほどで、かえって恐縮してしまった。
 1時間ほどの事情聴取のあと、ヒデト自身も出入りしようとした迂闊さを注意された。
 警察署を出ると、もう辺りは暗くなり始めていた。
 午前中にあの家を出て、髪を切り、警察に出向いただけで、一日が潰れた。けれど忙しくしていれば、シュウのことを考えないで済んだ。
 海棠は元の場所で小林を降ろし、更に車を走らせた。
「どこへ行く?」
 ヒデトの問いに、海棠は「家だ」と短く答えた。
 それでヒデトは何の疑いもなく、自分の以前のマンションに送られると思っていた。
 だが車は懐かしい道を走り、ヒデトの生家へと到着する。
「ここは……」
 家の明かりはついていた。家に戻らない日が多かった若い頃、気まぐれに戻った息子を出迎えてくれる明かりはなかったのに。
「マンションは解約した。売れるものは売って、それ以外の荷物はここへ運んである。明日の朝九時に、迎えに来る。出かける用意をして待ってろ」
 もう何も驚くまいと思っていたが、マンションが処分され、居辛い家で過ごさなければならないとと思うと、一日の疲れが圧し掛かってくるように感じられた。
 さっさと降りてくれとばかりに海棠は顎で家を指した。
「おつかれ」
 黙って降りようとしたヒデトに、海棠は嫌味なほどゆっくりはっきりと挨拶をしてきた。
「ありがとうございましたっ」
 美容師には素直に言えた言葉が、今はとても言い難かった。
 ヒデトが降りると、海棠は車を発進させる。
 自宅の前に一人取り残されたヒデトには、懐かしく暖かいはずの我が家が、とても重苦しく感じられた。
 今では、山麓の小さなあの家の方がヒデトに郷愁を感じさせていた。


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