ひとつのひかり −18−
家から出ると、目の前に黒い車が止められていた。 この男に連れ去られたあの日、あの時もこの車の後部座席に乗せられたような気がする。 意識が遠のく時、頬にふれた優しい指。あれがこの男のものだとは思えない。 もしかしたら、あれはシュウの手だったのでは……? それを確かめることはできなかった。またシュウなど知らないと言われたくないという気持ちが、質問を躊躇わせた。 男の運転する車の後部座席に乗り込んだ。 車が走りだし、ヒデトは窓の外の景色へと視線を移す。 辺りの景色はまったく見覚えのないものだった。 山の麓に建てられているのか、勾配のある斜面に寄り添うような、平屋の建物だった。 白い壁に青い屋根。窓には鉄格子がはめられている。 人の声も、街の音も、届くはずなどなかった。周りには家の一軒もなかったのだ。 細く曲がりくねった道は、両側の斜面すべてが木々で覆われ、たちまちにヒデトがシュウと過ごした小さな家を隠してしまった。 未練一杯で後ろを見ていたヒデトは、家が完全に見えなくなったところで、疲れたように座席に深く身を沈めた。 「東京に着くまでにこれを読んでいろ」 前から数冊の雑誌が投げ込まれた。 それらは女性週刊誌や、写真週刊誌だった。どれもが芸能人の私生活や恋愛関係を面白おかしく、虚実取り混ぜて書き上げているものだった。 とりあえずと思って一冊を持ち上げたヒデトは、その表紙の文字を見て手を震わせた。 『ヒデト 薬物パーティーで検挙か!?』 自分の名前と、その見出しの内容に、目を見張った。 その次の雑誌も似たような大きな見出しが表紙を占めている。 写真週刊誌の方は、『ヒデト真夜中のパーティー乱交』や『薬物パーティー摘発! ヒデトも!?』と書かれて、どこかで隠し撮りされたのか、女性と二人でクラブに入る場面の写真が載せられている。 下になっていた週刊誌では『ヒデト雲隠れ』、『ヒデト失踪』の文字が躍っている。 読むまでもなかった。 「いい加減なこと書きやがってっ」 ヒデトは週刊誌をぎゅっと丸めた。 今までにもこの手の雑誌にろくなことを書かれた例はなかった。一度会っただけ、グループで出かけた食事も『密会』としてスクープされる。 事務所が差し止めてくれたこともあったが、売れなくなっていくと、面白可笑しく書きたてられた。そんな嫌な思い出ばかりだ。 「いい加減なことじゃない。これから東京に戻ったら、お前はすぐに警察で事情聴取をされる」 「えっ!」 どうしてとばかりに、ヒデトは身を乗り出した。 「お前を連れ出したあと、あのパーティーは薬物使用の疑いで本当に摘発されたんだ。お前はあれでも名前と顔は売れていたからな、警察も話を聞きたがっている」 「でも、……俺は」 「やってないというのは言い訳だ。俺が連れ出したからやっていないだけで、あのままだったら今頃は、刑務所の中だな」 あまり変わらない場所にはいたがなと、男は不敵に笑う。 「一応俺が身元保証人で、お前の無実は証明してある。病気療養中で、出頭を待ってもらっていた。退院したら出頭することで話はつけてある。事情の説明だけはしてこい」 だけど……とヒデトは顔を顰めた。 「病気なんてしてないし、治療も受けてない」 「お前の診断書は出してある。アルコール依存症だ。その治療は済んでいる。証拠として血液検査の結果も提出してある。薬物は検出されなかった」 「そんな、勝手に」 血をとられたことすら覚えていない。もちろん、医者の診断も受けていない。 「そうするしかなかったんだ。お前は」 痛いところを突かれる。そう言われれば、今もそうするしかないのだ。今は、この男についていくより、他に道はない。 「あんたの名前、なんていうんだよ。保証人の名前も知らないんじゃ、警察で困るだろ」 「海棠だ。海棠龍。あんたではない、これからはお前の所属プロダクションの社長で、マネージャーだ」 「かいどう……りゅう」 「プロダクションの名前は、エンブロイダリーだ。覚えとけよ」 「俺を歌わせるつもりなのか? こんなこと、いっぱい書かれたのに……」 急な話についていけず、ヒデトは困惑する。 まだ自分は歌手としてやっていけるだろうか。 「それらの日付を見てみろ」 言われてヒデトは確認する。それらはすべてヒデトがあのパーティーに出かけてから1〜3週間の間に出されたものだ。 「それから何日経ったと思っている」 「……一ヶ月……くらい?」 ヒデトは躊躇いながら、自分があの家に閉じこもっていた期間を思い浮かべてみた。 「3ヶ月だ。お前は、3ヶ月の間、世間から姿を消していた」 その時間の長さにヒデトは驚愕する。 確かに時間の間隔はなかったが、そんなにも自分はあそこにいただろうか。 特に最初の頃の記憶が曖昧で、それらにどれだけの日数を費やしたのかがわからない。 「業界の時間は速い。今はみんな、お前のことを忘れてくれている。その間に根回しできる」 「俺に、そんな価値、あるのか。復帰したとしても、こんなこと書かれた奴、使ってくれるところなんて、ない」 気弱なヒデトに、男は鼻で笑う。 「ヒデトは名前だけでなく、本当に落ちぶれたんだな」 窓の外を流れる景色は、山を離れ、街に下りてきていることを教えていた。民家が多くなり、ビルも目立ち始めていた。だが、それらを見ている余裕がヒデトにはない。 「お前はテレビカメラがないと歌えないのか。お前の歌は、カメラに聞かせるためなのか」 冷たい言葉。社長でマネージャーだと言いながら、商品であるヒデトを大切には思っていない態度。 「覚悟しておけ。観客がたった一人でも、その客がいなくても、俺はお前を歌わせる。逃げ出すことは許さない」 「だけどっ」 「お前は、歌わないといけないんだろう?」 もったいぶって言われて、ヒデトは反論を飲み込んだ。 『貴方が、もう一度、トップに立てたら』 確かに聞いた声。シュウはいた。確かに自分といた。 歌ってと何度も励まされた。 たった一人の観客。シュウがいてもいなくても、歌わなくてはならない。それが、シュウを知るための道なのだ。 「歌うんだろうな」 脅すように言われて、ヒデトは顔を上げた。 信号で止まった運転席から、海棠がヒデトを見ていた。 「歌う」 ヒデトは、心に強く言い聞かせるように、宣言した。 |