ひとつのひかり −15−
季節もカレンダーも消えた家の中で、確かに変化していったのはヒデトだけだったかもしれない。 時計といえば相変わらず電子レンジの時刻表示だけ。停電にでもなれば、その時刻すらわからなくなるだろう。だが時間がわからなくなっても困らないだろうとも思えた。 朝、明るくなれば目が覚める。 太陽が高くなれば昼。 夜はレッスンが終わって眠くなったら寝る。 規則正しく、健康的な生活だった。 世間で何が起こっているのかもわからない。重大な事件が起こっていてもわからない。芸能界で何が流行っているのか、どんなドラマをやっているのかわからない。 何もわからないが、ここの生活には何も関係ないので、気にはならなかった。 頭の中を占めるのは音楽だけ。シュウとするレッスンのことだけ。 贅沢で有意義な時間が、一日のすべてになっていた。 自分でも驚くほどに声の調子は戻った。そして以前よりも音域は広がり、声の張りも出たし、声量も比べ物にならなかった。 それでシュウが褒めてくれるかと思うと、シュウは当然だとばかりに、さらにヒデトに難しい要求をしてきた。 「もっと感情を込めて。言葉の意味をもっと噛みしめて」 それに答えようとして声を震わせると、「そんなことで誤魔化しちゃ駄目だ」とたしなめられる。 切々と訴えるように歌うと、「それも誤魔化しだ。感情の押し付けは共感を呼ばないよ」と痛い指摘が飛んでくる。 いったいどうしろって言うんだと逆切れしても、いい加減にしろと不貞腐れても、シュウは根気よく忍耐強く、ヒデトが理解するまで、何度でも繰り返してピアノを弾いてくれた。 歌詞だけを朗読したり、ヒデトに歌詞の意味を話させたり、時には歌詞だけでどんなドラマが作れるかと討論したりもした。 そして、歌う。 演技や小手先の誤魔化しは必要ないと、そうしてやっと気づくことができた。 自分が歌の中に入り込むことで、ヒデトは歌の心に触れることができた。 「俺は今まで本当に嫌な歌い方をしていたんだな」 ヒデトが後悔もたっぷりに懺悔するように言うと、シュウはそうじゃないと首を振った。 「今、俺がやっていることの方が、嫌味な指導だと思う。だって、貴方はもっと素敵な歌い方をしていたんだよ。それを貴方自身が忘れているから、俺がこんなずるい方法で思い出させようとしている」 シュウは優しい笑みを浮かべる。 ヒデトから見れば、シュウは本当に我慢強いと思う。今は聞いても答えてくれないが、誰かに頼まれたにしろ、最悪の状態のヒデトを、身体から心まで立ち直らせようとしてくれている。 自分ならいくら金を積まれていたとしても、ここまで付き合えない。最初の数日で匙を投げていただろう。 しかもどれだけ頑張ったとしても、ヒデトには復帰の道はないと思えた。つまり、これだけの時間と金をかける価値などないのだ。 だったら誰が? 何のために? と不思議でならなかったが、ヒデトにはそんなこと、どうでもよくなっていた。 ここでの時間がヒデトの復帰のためのプログラムなのだとしたら、それに従っていればいい。 酒に溺れ、思考も停止し、未来を失っていたあの頃よりはずっと、ずっと生きていると感じられるから。 「俺は今の方が、上手く歌えていると思う。実際、上手になっているって、思うことができるし」 「うん、あと少しで……貴方の歌になるね」 いつものように喜んでくれていると思うのに、シュウの笑顔は、どこか寂しそうに見えた。 「疲れたか? 少し休もうぜ」 休もうとヒデトが言い出さなければ、シュウは寝食も忘れてレッスンに没頭する。 ヒデトよりもずっと体力を使っているのはシュウなのだ。 ヒデトも自分のことは自分でするようになっていたが、食事の世話から家の片づけをしているのはシュウだ。その上レッスンではピアノを引き続けることになる。 一日好きなピアノを弾ける今が楽しいのだとシュウは笑うが、それは疲れを誤魔化しているとしかヒデトには思えなかった。 シュウを休ませるために、たまにヒデトもギターを弾いた。 だが、それすらもレッスンに早変わりした。 「今の音、フラット気味。チューニングを少し上げてみて」 ギターならシュウより自信があると思っていたのに、わずかな音の誤差をも、シュウは聞き逃さなかった。 「絶対音感ってやつか?」 感心しながら聞くと、シュウは曖昧に笑って、首を傾げた。 「毎日ピアノを弾いてると、どうしてもね」 あまり嬉しそうではない返事をする。 そうするとヒデトはそれ以上が聞けなくなる。自分の不安や苛立ちを隠すようにギターを鳴らすと、「そんな弾き方をしたらその子が可哀想だよ」とたちまちに叱られる。 「優しく弾いてあげなちゃ」 シュウにとっては、ピアノもギターも、多分他の楽器も大切な人のような存在なのだろう。 「ピアノが好きなんだな」 半分呆れながらいうと、屈託のない、明るい笑顔が返ってくる。 そうするとヒデトもまた、自分のギターを大切にと思えるから不思議だった。 ゆっくり、ゆっくり流れていると思っていた時間は、けれど世間とまったく同じ速さで進んでいた。 その速さと同じだけ、ヒデトも元に戻り、さらに成長を遂げていた。 その日は朝から、ヒデトは自分の歌を歌っていた。 途中でシュウの指導が入ることもなく、ヒデトも自分の歌の出来上がりに至極満足していた。シュウに聞かせてやれるのが、この歌だけというのが申し訳ない気もしたが、だからこそシュウのために大切に歌った。 デビュー曲から、アルバムの歌まで、一曲も漏らすことなく、30曲あまりを小休止をはさみながら歌い続けた。 室内にはシュウのピアノとヒデトの歌声が、互いに混ざり合い、重なり合い、高めあい、時には競い合って、部屋一杯に響き渡っていた。 気持ちは高揚し、ピアノに負けまいと、声が伸びた。 一切の不純物を除き、ただひたすらに歌った。 自分の歌に、自分の感情までが引きずられそうだった。 軽やかな、けれど厚みのあるピアノの和音がゆっくり室内に溶けていく。ヒデトの歌声も完全にそれに溶け合って、充満しながら二人に降り注いだ。 シュウの手は止まり、ヒデトも歌いきって、息が荒くなっていた。 けれどはじめてというような沈黙が室内に残された。 身体が、脳が痺れたようになっていた。 どんな酒よりも、どんな歓声よりも、ヒデトを痺れさせた。 これが、音楽の魅力、いや魔力だと感じた。 魂を音楽にあけわたし、はぁと熱い息を吐いたヒデトに、シュウは立ち上がって拍手を送った。 たった一人の拍手。パチパチと鳴るのは控えめなほどの優しい響き。 一人きりのスタンディングオベーション。それは万来の拍手喝采よりも、コンサートホールを埋め尽くしたファンの嬌声よりも、価値のあるものだった。 ヒデトは腕を伸ばしてシュウを抱きしめた。 細い身体だった。 きつく抱きしめれば、今にも折れそうなほどの。 強く抱きしめているのに、ヒデトの方が苦しかった。 苦しくて、苦しくて、涙がこぼれた。 その苦しさを忘れさせて欲しくて、ヒデトはシュウの唇を奪った。 |