ひとつのひかり  −14−



 一日が短くなった。
 レッスンは日毎に熱のこもったものになっていき、それと比例するように一日がどんどん短くなっていくように感じられた。
 シュウの指導は妥協というものがなく、根気よく、丁寧に一つ一つのことを仕上げようとしていた。
 そのために、このまま時間が止まればいい、レッスンなどそのためでしかないと思うヒデトとぶつかるようになっていた。
「もっと丁寧に、一つ一つの言葉を大切に」
「いいんだよ。歌を歌ってられれば」
 ここで歌を歌っている時間が穏やかで幸せなのだ。外の世界など出たくない。
「言葉を大切にしない歌なんて、歌じゃないよ」
「どうせ誰も聞きやしないよ。聞かせる相手もいないし」
 ヒデトがおどけて言うと、シュウは鍵盤から手を離した。じっとヒデトを見上げてくる。
「な、なんだよ」
「聞くよ。聞かれるんだ」
 あまりに真剣なシュウの言い方に、ヒデトは思わず口を閉じて、笑顔を消した。
「何を」
「復帰した貴方は、世間の好奇の目に曝される。歌だって、どれだけ歌えなくなったか、最初の音から、歌い終わるまでじっくりと意地悪な聞き方をされる。どれだけ下手になったんだろうかって」
 頬が引きつった。
「一挙手、一投足、マイクの持ち方から、立ち姿。話す言葉の一つ一つ、すべて世間が貴方をもう一度受け入れるかどうかのテストになってしまう。どんなに上手に、丁寧に歌っても、実際の50パーセント程度しか評価してもらえないと思ってもいいくらいだと思う」
「復帰なんて……」
 それはもはやヒデトの中では夢物語だった。
 自分勝手で、奢り高ぶって、平気でドタキャンもした。次第に売れなくなって、歌もろくに歌わなかった歌手だ。そんなヒデトを使ってくれるところなんて、もうないだろう。
 それでもレッスンを続けているのは、シュウが相手をしてくれるからに他ならない。
「できる。貴方の歌を、みんなが聞きたがる。みんなが貴方の歌を歌うようになる」
 シュウが言うと、そうなるような気がした。
 優しい響きなのに、力強い言葉。根拠などないのに、夢が叶うような気がしてしまう。
 一種の魔力だ。
「だから貴方は、貴方の真実の歌を、真実の心で、歌わなきゃならない」
「……無理だ」
 急に怖くなった。
 目の前には冷たい視線の人々。ヒデトが立っても、じっと見つめるだけだ。
 そしてヒデトの口元を凝視する。
 ヒデトの歌を聞き漏らすまいと、物音一つしないステージ。彼らは一様に薄笑いを浮かべている。
 ヒデトがしくじるのを待っているのだ。嘲笑を浴びせるために。
 空恐ろしい光景が目に浮かんだ。
 全身の毛穴が開くような恐怖だった。
「できる」
「できない」
 ヒデトは激しく首を横に振った。
「歌って」
「歌えない」
 怖かった。
「貴方は歌う。貴方はここに来てから、まったく歌わなかった。歌さえ忘れていた。酒だけを求めて、肉体を傷つけることにしかエネルギーを向けられなかった。そのあとに虚無を感じた。時間の浪費に時間を使った。それらのどんな時にも、貴方は歌を歌わなかった」
 ヒデトは目を閉じた。
 歌手だった時も、ここへ来てからも、自分の醜い部分だけを教えられる。自業自得とはいえ、身を切るほど辛かった。
 そして今も、逃げ出すことを考えている。
「だけど、貴方は歌った。何もかも削ぎ落とした貴方は、歌を選んだんだ。だから、貴方は歌う。貴方の歌は、貴方の心の中にある」
 シュウの言葉が少しずつ少しずつ、ヒデトの中にしみこんできた。冷え切った心が溶けていく。
「歌って。貴方のために」
 シュウが両手を伸ばして、ヒデトの頬を挟んだ。
「貴方のために、貴方の歌を」
 囁きが耳をくすぐる。
 つい頷いてしまいそうになる。
「俺に……できるかな?」
 頷く前に魔法をかけて欲しい。破れない魔法を。
「できる。貴方にしか、できない」
 シュウの両手を外側から包んだ。
「ずっと、お前が、傍にいてくれるなら」
「貴方が、……貴方が、本当に立ち直ったら。……俺のことも、話せる」
 それはヒデトにとって、甘い誘惑だった。
 そのためになら、どんな困難も乗り越えようと思うほどに。
「歌って」
 シュウの両手がすり抜けて、ピアノの上に移動する。
 美しいメロディーが始まる。
 ヒデトは……、ピアノの音に、言葉を乗せた。



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