ひとつのひかり  −13−



 その日からシュウのピアノに合わせて、ヒデトのレッスンが始まった。
 トレーナーとしてのシュウは厳しくはないが、驚くほどの根気のよさを見せた。
 ヒデトは自分のレベルの低下を嘆き、すぐにも以前の声量を取り戻そうと焦ったが、シュウは一日二日では無理だと、一日一歩ずつのステップアップでいいのだと、決して焦りはしなかった。むしろ急ごうとするヒデトを引き止める役目を負った。
「駄目だよ。無理して咽を痛めたらどうするの?」
 そしてわずかなわずかな成長を、ヒデトより喜んでくれた。
 そんなシュウの反応が、何よりの励みになっていた。
 レッスンは楽しいものではなかった。単純な練習の繰り返しである。
 特にヒデトは、いい加減にしてきたものを取り戻すためなので、基本ばかりを飽きるほどに繰り返していた。飽きても、うんざりしても、シュウは絶対、ヒデトに腰を折らせなかった。
 咽を休める時には、シュウはヒデトの曲を弾いた。
 ただメロディーを弾くのではなく、シュウは色んなアレンジを聴かせた。
 一つの曲が楽しくなったり、悲しくなったり、ポップになったり、民族曲ぽくなったりする。
 主旋律は変わらないのに、色んな顔を見せる曲に、ヒデトはレッスンの疲れを束の間忘れたりする。
「俺の曲、全部弾けるのか? 楽譜無しで」
 ピアノの部屋には楽譜がなかった。譜面たてはあるが、それはどうやらヒデトのギターのためにあるらしかった。
 五線譜はあるが、白紙のままである。
「弾けるよ。全部」
 レッスンを始めてから、シュウの表情は増えた。以前のような無表情ではない。
 よく喋るようにもなった。ヒデトの問いに答えだけ返すということもなくなった。
 だが、自分のことは喋ろうとしなかった。ヒデトがシュウの本当の生活に触れようとする質問には、曖昧に誤魔化すか、当たり障りのない答えだけを返された。
 ヒデトはそれが不満だったが、前のように暴力を揮ったりはしなかった。シュウは今や、ヒデトの保護者のような位置にいた。
 シュウに見捨てられれば、ヒデトは頼る場所を失くして、今度こそ路頭に迷うだろうと思った。
 自分のそんなずるさに嫌になりながらも、それでもシュウが今はヒデトの世界のすべてだった。
「他の曲は? 例えば……」
 ヒデトは流行の曲をリクエストした。
「その歌は知らない」
 誰もが知っているだろう、テレビのCMでも、有線放送でもひっきりなしにかかっている曲を、あっさりシュウは知らないと言ってのけた。
「嘘だろ。こんな曲だぞ」
 ヒデトはサビの部分だけを歌ってみた。
「知ってるだろう?」
 シュウは首を傾げてから、右手だけでメロディーを弾いた。今、ヒデトが歌った部分だけ。
「なんだ、弾けるじゃないか」
「貴方が歌ったとおりに弾いただけ」
 ヒデトは不可解な思いのまま、じゃあどんな曲なら楽譜無しで弾けるのかと聞いたら、シュウはにっこり笑って誰もが知っている曲を弾いた。
 ロマンティックな夜空をあげる歌。『星に願いを』
「お前の得意な曲は?」
 試しにリクエストすると、ヒデトの曲を弾く。
 上手くはぐらかされているようで、ヒデトは溜め息をつきたくなった。
 レッスンは遅々として進んでいないように思えたある日、シュウは唐突とも思えることを言い出した。
「もっと音域を広げてみない? 貴方なら絶対できるよ」
「今以上は無理だ。これでもデビュー前にはプロについてレッスンしたんだ。その時に頑張ったけど、無理だった」
「大丈夫。今の貴方なら出せるよ。ここまで」
 全然調子の戻っていないヒデトに、シュウは軽く言って、低い音と高い音を、交互に弾いた。
「低音はいけるかも知れねーけど、高音は無理だ」
「今の発声の仕方だと難しいけれど、発声方法を変えれば、簡単に出るよ」
 なんでもないことのように言うシュウに、そんなことが可能なのかと思いながら、頷いてしまった。
 それからは腹筋や背筋を鍛えるレッスンも加わり、身体の柔軟性まで要求された。
 声の出し方や、音量、ビブラートに至るまで、まるで声楽家を目指しているのかと思うようなレッスン状態だった。
 シュウのピアノに合わせて、発声練習をしていくと、じわりじわりと高音部分が出しやすくなっていくのがわかった。
「ほらね、出せた」
 シュウが自分のことのように嬉しそうに笑うので、ヒデトはますます頑張るようになった。
「お前の教え方が上手なんだよ」
 照れくさくて、怒ったようにしか感謝の言葉を言えなかった。それでもシュウはニコニコと笑ってくれた。
 ずっと、最初からそうだったように、シュウの表情の中には、ヒデトに対する感情は見えなかった。嫌悪や嫉妬、哀れみや蔑み。憧れや僻みなどもない。
 ごくナチュラルで、感情の揺れがない。
 最初はだから、シュウが傍にいることが嫌ではなかった。無視できたし。
 今はシュウの無感情に苛立った。寂しいと思った。物足りないと感じた。
 この音楽室を開けてから、シュウを抱くことはしていない。
 レッスンが終わって食事をしたあとは、「おやすみ」と言って、ヒデトは寝室に、シュウはソファーで眠っている。
 何度か変わろうと言ったが、シュウは黙ったまま首を横に振った。
 多分無理にもベッドへ引きずりこめば、シュウは抵抗しないだろうと思ったが、ヒデトにはできなかった。
 シュウの気持ちがまったくわからない。どんな感情も綺麗な顔の下、優しい笑顔の下に隠されて、わからないのだ。
 ヒデトの中には、今はシュウしかいない。そのシュウに嫌われることはしたくなかった。
 だから触れることもできない。話す内容も、レッスンやヒデト自身のこと以外は、ものすごく慎重になっていた。
 もっとシュウ自身のことを知りたかった。
 本当の名前、本当の年齢、本当の職業。こんなに長い間、自分とここに閉じ込められて、ここを出たときに困らないのか、など。
 けれど聞けなかった。
 特に、ここを出たあと……、それはヒデト自身が怖くて仕方なかったから。
 こんなレッスンをしてなんになるのかと思う。もうヒデトが歌手でいられるわけもなかった。レッスンなどしても、無駄でしかない。
 それがわかっていながら、レッスンをやめられないのは、レッスンをやめれば、ここを出なければならないと思うからだった。
「貴方自身の力だよ。自信を持って」
 シュウは励まし上手だった。  けれどシュウがヒデトのことを名前で呼ぶことはなかった。
 だから……ヒデトはずっと二人でいながら、シュウがどんどん遠くに行ってしまう不安と戦う毎日だった。
 


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