ひとつのひかり  −12−



 その曲はヒデトのアルバムの中で異彩を放っていた。
 ヒデトらしくない哀しいバラードと、ファンの反応は最悪だった。
 コンサートで歌おうとすると、ヒデトの名前を呼ぶ声が高くなり、まったく歌にならなかった。
 だが、ヒデトは自分の曲の中で、その歌が一番好きだった。
 評価されなければされないほど、その歌が大切になっていった。
 だから今、シュウが大切そうにその曲を弾いてくれることが嬉しかった。
 シュウは楽譜もないのに、主旋律と伴奏を奏でている。  細い指は流れるように鍵盤の上を滑り、魔法のようにメロディーを紡ぎだしていた。
 緩やかに身体が動き、頭が揺れると、シュウの髪も音楽にあわせてサラサラと流れた。
 自分の歌とは思えなかった。
 まるで厳かな賛美歌のように聞こえた。一つ一つの音がヒデトの胸に響き、重なり合い、感情を揺さぶる。
 なのにあまやかな響きが切々と、哀しい想いを訴えかけてくる。
 最後の音を放って、シュウの指がピアノから離れた。
 空気に溶け残ったこの感情をなんと呼べばいいのだろう。
 ただの「感動」とは表現したくなかった。だが、ヒデトにはこの余韻を呼ぶのにふさわしい言葉を思いつけなかった。
 シュウは振り返って、ヒデトを見た。首をかしげている。まるで「どうだった?」と聞く。練習の終わった幼児のように。
 ヒデトは動けなかった。身体が硬直していた。
「この曲、嫌い?」
 無邪気に聞かれ、ヒデトは咄嗟に首を振った。
「どうして……この曲なんだ?」
 声が上擦っていた。それほどヒデトには衝撃的だったのだ。
「この曲が一番貴方らしいよ。それに、声が違ってた。この歌が好きだって、声が教えてくれた。俺もこの歌が一番好き」
 ポロン……と音が鳴る。
 シュウの右手が主旋律をゆっくりなぞっていく。
 ただ単音で続いていくだけなのに、音の響きが違って聞こえる。
 それは今まで聞いたどのピアノよりもヒデトの心を震わせた。
「歌ってよ」
 シュウの願いにピアノの音は一度途切れて、前奏が始まった。
 緊張に鼓動が早くなる。けれど最初の歌詞は驚くほどに自然と口から零れ出た。

『午前二時 君は夜の街に 溶けていく
  その背中が 見えなくなれば 俺は君を 永遠に失うだろう ……』

 途中で高音の部分があやしくなった時、シュウはスムーズにキーを下げた。
 息が続かないところが多くなると、速度を緩めてくれた。
 散々な歌は、ようやく一曲を終えた。
 酷く情けない歌だった。最悪の出来だった。
 さっきの歌はアカペラだったから、何をどうしようが、まだ乱れながらも聞けた。だが、伴奏がつくと、途端に歌の酷さが際立った。
 それでもシュウがヒデトに合わせてくれたから、曲としての体裁だけは保てたが、合わせてもらえなかったら、途中で歌えなくなっていただろう。
「ひでーよな、すまん」
 気まずい思いを苦笑で誤魔化した。
「ううん、変わってない」
 シュウはかみしめるように、大切そうに、ゆっくりと言った。
「俺、前からそんなに下手だったか?」
 ヒデトはズキンと痛む胸を隠すように笑った。
「違う。歌の技術は……そりゃ、今は酷かったけど、貴方の歌の心は、何も変わってないって、わかった」
「俺の、歌の、心?」
 シュウの言っている意味がわからなかった。歌なんて、上手に歌えるか、そうでないか、どちらかしかないのではないかと思っていた。
 だったら今のヒデトの歌は、最悪の歌である。
「声が出るとか、出ないとか、音程が合うとか、合わないとか、そんなことは練習次第でどうにでもなる。けれど、歌を大切にできるかどうかは、その人自身の問題だから」
「だけど、俺なんて、いつもいい加減に歌ってた。俺なんて、顔さえついてりゃ、歌なんてどうでもいいんだもんな」
 言って、自分で傷ついた。そんなために歌いたいんじゃないのに。
「本当に歌なんてどうでもいいと思っていたら、そんな風に言わないんじゃないの? 悔しいから、貴方の歌の真実をわかってもらえなくて、いつも傷ついていたんじゃないの?」
 ぐっと咽の奥に何かがこみあげてきた。
 腹立ち、苛立ち、悲しみ、悔しさ。
 違う。……そんな単純な感情ではなかった。
 いつも苛立っていた。
 どうして自分の歌いたい歌を歌わせてもらえないのか。そんな希望を出すことも許されなかった。
 与えられる歌を歌い、組み込まれる仕事を人形のようにこなす。
 答えが決まっている質問に笑顔で嘘を答え、ファンを欺くだけの毎日。
 だからと言って、疎かにしていいわけはなかったが、そんな虚像の自分を好きだといわれても、信じられるわけはなかった。
 だから……周りのもの全てを馬鹿にすることで……自分を納得させてきた。
 そんな自分が、どうしようもないほど情けなかった。
 こみあげてきたものを飲み込むのに苦労した。咽の奥が熱い。
「歌おうよ。貴方は、歌が好きでしょう?」
 指先が震えていた。足もぐらつきそうだった。
「その子と再会して、貴方は喜んだ。大切そうに抱きしめた。今も離さない。貴方は音楽が、歌が好きなんだよ」
 ギターを人のように話して、シュウは微笑んだ。ヒデトはギターのネックを持つ手に力をこめる。
「今も、さっきも、歌を歌う心に嘘はなかった」
「あ……」
 返事ができなかった。言葉が出てこなかった。
「歌って。貴方は、歌うことでしか立ち直れないよ」
 シュウの言葉に、咽の奥で固まっていた熱いものが、一粒、涙となって溢れ出た。



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